>なぜに信孝信雄は一刻も早く葬儀を行わなかったのでしょうか?
この時点では、信雄は信長の葬儀実施絶対反対マンでした…。
⇒信孝は、この時点では三法師を確保していましたから、葬儀やると織田家の後見人が信孝に確定してしまう…。
我々は、後に秀吉が天下取るの知っていますから、信長の仇を討ったのが秀吉だと思いますが、当時の人からすると信長の仇を討ったのは、信孝で秀吉は現場で指揮を執っただけ。
(まあ、それでも秀吉の功績は家臣随一になるのですが…。)
信雄からしたら、これ以上信孝にポイント積ませる訳には行かない…。
ただ、信雄からすると勝家やら秀吉らが決めた、以下の清須会議の決定事項を履行する訳には行かない都合が有りました。
(秀吉が信雄に対して兵を挙げるのは、以下の条件が履行されないから…。)
⇒三法師は、安土城を相続し安土にて執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する。
これを認めると、信孝から三法師を取り上げて、織田家の方針は重臣による合議制に移行してします。
ですから、信孝からすると先ず重臣の切り崩しが必要です。
お市の方と勝家の結婚も、その流れの中で発生したと思います。
信孝からすると、信長の葬儀をすると喪に入ってしまいますから、重臣団の切りくずしのシンボルたるお市の方と勝家の結婚が先延ばしに成ります…。
つまり、信長の葬儀には何が何でも反対したい信雄と重臣達の切崩しの時間を確保したい信孝の思いが合致した事が息子主体の葬儀実施を妨げてしまった。
⇒ただ、家臣からすると息子同士の権力確保で何時までも、葬儀が出来ない事に不満が無かったとは言えません…。
(信長の百日法要が各家臣で独自に実施されていた…。)
また、この状況が信長の実子(秀勝)を養子にしている秀吉に付け入るスキを作ってしまったのですが…。
お礼