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戦国武将の具足について
- 戦国時代の大名やその近習たちが着用した具足について教えてください。
- 具足は戦場の陣地では常時着用し、総大将や大将クラスの武将は具足姿で指揮していました。
- 具足は儀式用と戦場用で異なり、位や序列を示す階級章のように使われることはありませんでした。
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戦国武将を見ながら書いた人物画はほとんど ありません。 江戸時代以降に資料や創作で書いたものばかりです。 唯一正確に人物を写したものは、箕形(三方)ヶ原の 敗戦後、浜松城に逃げ帰って書かせた家康の一枚だけ です。 黒田長政の馬上具足の姿絵はありますが、戦国当時では なさそうです。 家康のは兜は無く片袖をはずした軽装具足で、軍議の時も 同様と思われます。 大将が出陣で城館を出る時は戦場と同じ鎧兜の場合もあり、 又戦の見通しにより、領民に威容を誇るため、実戦的でない 着飾った具足を着用したこともあるでしょう。 鎧兜は二通り以上持参しました。 この場合は休憩の際は一部を脱ぎ軽装にしました。 戦国でなく源平時代の話ですが、源義仲の信濃挙兵の際 平家一族の城氏が一万の大軍で攻め込み、義仲の先鋒を 打ち破りました。 勝利に気を良くし、横田川原で休憩しましたが、真夏の 暑ささに耐えかねて、つい鎧を脱ぎやすみました。 この隙をついて義仲の本隊二千がが急襲して大勝しました。 桶狭間や小牧長久手の合戦もあります。 鎧兜の正式具足を着用し続けるのは結構大変な事でした。 軍議などの時は軽具足か鎧だけ着用でしょうが、戦場で 陣構えの席では前立て付きの兜着用です。 戦国合戦図屏風には参考になるものもあります。 多くは江戸時代後期に書かれたものですが、 戦国の匂いがする江戸初期に書かれた、重要文化財の 関ヶ原合戦図屏風は資料の価値があります。 具足を見ると意外なことに、兜も陣笠も被らず頭丸だしの 将兵が多いのです。 合戦にかぶり物は邪魔らしいのです。 組み打ちに兜は邪魔で脱ぎ捨てたり、敵の兜をはずしたりは 知っていますが、戦の前に脱ぐのです。 一方派手な邪魔な前立ての兜で戦うのもいます? ご覧になると良いです。
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- fumkum
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こんにちは 追加・訂正で申し訳ありません。 「大将の六具」と書いて、具体的に六具を記載しませんでしたから、下に列挙します。六具についていろいろな考え方がありますので、4種類の六具を挙げておきます。これを見ると、大将クラスの武将はどのような武具を使用したか、逆に大将と見られる武具は何かが分かります。 1甲冑・直垂・太刀・白旄(はくぼう・ヤク‐からうし・はぐま、ともいう‐旗飾・采と同じように指揮棒)・策(さく・むち・鞭)・団扇 2鎧・太刀・采配・鞭・団扇・扇 3母衣・幡(はた)・箙(えびら・矢を入れる武具)・策・団扇・士(さむらい) 4母衣・箙・兵(さむらい)・小旗(自分持ち物の旗)・扇・鞭 幡(はた)=この場合の幡は、自分持ち物の旗ではなく、細長いのぼりで、幡の上辺と、縦の一辺にいくつもの乳(ち・竹、棒を通す布輪)を付け、竹や棒を通したもの。何本も立て並べ、大将の居場所を示すと共に、士気を高めるために用いたもの。古くは上辺を竹棒の竿に紐で結び、横に翻る形式が用いられた。 訂正 鉢金(鉢巻などにつけた額を保護する防具)⇒(金属板を鉢巻などにつけた物で、額を保護する防具) 追加 大鎧に関して、甲斐の武田氏の重宝である「楯無(たてなし)」は大鎧ですが、戦国時代には御旗(みはた・日章旗)と共に神器としての扱いを受け、出陣に際して御旗・楯無に誓いを立てて出陣したとされます。このように、戦国時代には大鎧は実戦にはあまり使われず(例が無いわけではありません)、先祖以来の由緒を誇る儀礼的であり、飾り物になっていった例になります。 *御旗・楯無=武田・佐竹氏などの祖である源義光(新羅三郎・八幡太郎源義家の弟)が使用したとされる。 以上、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 博物館や本で見る具足はどれも綺麗な美術工芸品で、しかも重そうです。 大将が、こんな物を“戦場では常時着用”していたのか、という(馬鹿げた?)疑問です。 陣地は、見通しのきく小高い山の上に築く場合が多く、当然足場は悪く、上り下りもたいへんです。 何万もの軍兵を機動的に動かすようになった時代に、大将が防禦一辺倒の具足姿ではなく、機敏に動いて采配できる戦場用の軽量の具足ではなかったのか、と思いました。 >三物、三具を中心に、小具足まで完備した着用を皆具と呼びますが、常時皆具ではありませんでした。 >兜は従者に持たせ、戦闘状態に入るまで被りませんでしたし、会戦予定地付近に到着するまでは、主に直垂に籠手(左腕のみ・騎射の伝統による)・脇当・脛当・貫を着用し、腰刀を挿す小具足姿と呼ばれる装束でした。 >小具足姿ですと、それに鎧を着用し、兜を被れば一応の防護が出来上がります。 >臨戦態勢の前線部隊や斥候などは、皆具に近い装着であっても、その後方の部隊では小具足姿が多かったようです。 >室町幕府の十代将軍足利義尚の小具足姿の出陣の絵画が残っています。 あくまでも大将クラスを前提として質問していますが、流れ弾や矢が飛んで来る恐れがない所では、兜は不用だと思っていました。 黒田長政の、脇立が水牛の兜は重さ3kgだそうです。 小具足姿ですか! なるほど。 絵画で確かめましたが、当たり前と言えば、当たり前ですね。 しかし、教えてもらうまでは知らなかったことです。 テレビや本では、ほとんどが床机にデンと構えた皆具姿ですから。 >そうは言っても特別な武士に許される軍装はあります。まず、有名なものが錦の直垂です。 >戦国大名クラスの主君から特に許された者、主君の一族、国人クラスなどの限られた上級武士になります。 >戦国時代も鎧直垂を着ることはありました。大将・武将クラスに見られました。 >鎧直垂の中でも、錦の直垂は、大将や、特に許された武将クラスが着用するものでした。 鎧直垂については分かりました。 鎧・兜については特に制約はなかったようですね。 金銀をふんだんに使って、兜を豪華に飾っています。 大名家中では、お抱えの鎧師に作らせますから、御家法で禄に応じて決まっている例もあるようですね。 具足と大鎧の違いがよく解りました。 また、甲斐の武田氏の重宝である「楯無」の大鎧は、戦国時代には御旗(みはた・日章旗)と共に神器としての扱いを受けていたとのこと、たいへん参考になりました。 今回も平易に教えて下さったのでよく分かりました。 感謝申し上げます。 >なお、この時代の飛脚ですが、江戸時代のように飛脚業者がいたのではなく、大名家中の信用が置け、武芸に秀でたような武士に手紙等を届けさせたことを言います。 了解です。
- fumkum
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1、武士の着用した鎧については5種類に分類されるようです。まず、「*大鎧」。これは騎乗で弓を射るということに対応した鎧とされ、平安時代、鎌倉時代に用いられたものです。この時代に、大鎧を着て馬上にいる武士の従者や、徒歩の下級武士の用いた鎧が、大鎧を簡素化した「*胴丸」と呼ばれる鎧です。同じく、平安時代末期には胸部と左右(背中は無防備)を防御する「*腹当」が登場します。鎌倉後期には「*腹巻」が登場します。従来の大鎧による騎馬弓兵主体の戦いから、鎌倉時代後期、南北朝の動乱以降、徒歩兵主体の弓・槍等を主な武器とする戦闘に移ると、行動的な胴丸・腹巻が主流になり、大鎧は儀礼的であり、飾り物になって行きます。さらに、戦国期になると鉄砲の伝来などもあり、「*当世具足」が発達してきます。戦国時代になると当世具足がはやるようになります。 武将クラスの武士も、初期は当然大鎧を着用していましたが、時代が下るにつれて胴丸・腹巻を着用するようになります。同時に胴丸・腹巻が重武装化され、兜・袖・小具足といった装備がつくようになります。戦国時代になると当世具足がはやるようになり、小具足などは、胴丸・腹巻と同じように装着されます。 甲冑の付属装備には次のようなものがあります。基本は三物ですが、それ以外の物は、総称して小具足と呼び、小具足の基本的な装備を三具と呼びます。 三物=兜・胴・袖 三具=籠手(こて)・佩楯(ハイダテ・太股を防護)・脛当(すねあて) その他小具足=脇当(わきあて・脇引・脇楯とも・脇の下辺を防護)・喉輪(のどわ)・面頬(めんぼう・面具とも・顔面を防護で種類がある)・満智羅(まんちら・首回りを防護)・甲懸(こうがけ・足の甲を防護)・貫(つらぬき・毛皮のくつ)・革靴等で、重複する装備もあります。 さらに、鎧を着るときには、下に下帯・直垂などを着用し、甲冑を肌に直接着用することはありません。当然例外はありますが。 戦国時代も鎧直垂を着ることはありました。大将・武将クラスに見られました。鎧直垂の中でも、錦の直垂は、大将や、特に許された武将クラスが着用するものでした。当世具足の流行と共に、上は筒袖状の襯衣(したぎ・肌着のこと)か小袖で、下は裁付袴(たっつきばかま)状の頸中(はばき・すねに巻く付ける、覆うもの)付の袴に変化します。 三物、三具を中心に、小具足まで完備した着用を皆具と呼びますが、常時皆具ではありませんでした。兜は従者に持たせ、戦闘状態に入るまで被りませんでしたし、会戦予定地付近に到着するまでは、主に直垂に籠手(左腕のみ・騎射の伝統による)・脇当・脛当・貫を着用し、腰刀を挿す小具足姿と呼ばれる装束でした。小具足姿ですと、それに鎧を着用し、兜を被れば一応の防護が出来上がります。臨戦態勢の前線部隊や斥候などは、皆具に近い装着であっても、その後方の部隊では小具足姿が多かったようです。室町幕府の十代将軍足利義尚の小具足姿の出陣の絵画が残っています。ただし、足軽などの大名・武将のお貸し具足と配布された者は、具足類が簡素・軽量ということもあり、常時着用したものと思います。 戦国期でも前線部隊を除き、行軍中に奇襲を受けることはめったになく、輜重などに預けることもあったようです。戦争なのでケースバイケースですが、陣地に入っても直ぐに戦闘ではないことも多いので、小具足姿であることも多かったはずです。武将クラスが本陣で軍議の場合なども、自分の陣地から本陣までの間が危険と判断されれば皆具でしょうが、小具足姿や、腹巻着用程度で本陣に集まることもあるように思います。また、緊急時を除き、兜は従者に預けて本陣・軍議の場に入ったものと思います。身分が高いものは、兜持ち専属の従者が存在します。 *大鎧=簡単な見分け方は、前の草摺が1間(一枚)であることが特色です。 *胴丸=簡単な見分け方は、引き合せが右脇。 *腹当=戦国時代でも使用され、弓・鉄砲足軽などが、弓・鉄砲を射撃するときに邪魔にならない軽量武装のために使用したとされます。 *腹巻=発生には諸説あって、胴巻の簡素化説、腹当からの進化説などがあります。簡単な見分け方は、引き合せが背中。 *当世具足=胴丸から発達したとされます。 2兜首という言葉があります。甲冑具足の基本である三物でも、装備しない(できない)者が多かったことを示します。特に立物(たてもの・兜飾)のある兜は高級武士と考えられます。足軽はお貸し具足の鎧に陣笠ですし、徒歩の武士の中には兜ではなく、鉢金(鉢巻などにつけた額を保護する防具)を装着する者もいるぐらいです。ただ、お貸し道具の中には陣笠だけでなく兜もあったこと。赤備などのように同一の装備をすることもあるので例外はあります。なお、兜の着用だけでなく、采(さい)・鞭・軍配・軍扇・軍配団扇などを持っていることも、指揮官クラスの武士を表します。 この例のように、上級の武士になると、三物・三具だけではなく小具足も完備した皆具の軍装であることからも、身分差は見ただけでもわかったと思います。これに対して下級の武士になると、上記のように兜を被らないなど、装着しない具足等が出てきます。現代でも背広もピンからキリまでありますが、材質・縫製・付属品などを見るとそれなりに社会的な地位が想像できるのと同じではないでしょうか。 そうは言っても特別な武士に許される軍装はあります。まず、有名なものが錦の直垂です。戦国大名クラスの主君から特に許された者、主君の一族、国人クラスなどの限られた上級武士になります。 母衣(ほろ)は、背中に長い幅広の布を流し、後方からの流れ矢を防ぐ武具でしたが、背中に竹などの素材で荒い籠状のものを作り、布で覆う形式となります。母衣は家中でも豪勇を認められたもの、武将クラス、大名の一族、使い番などの役職者などに認められた武具になります。それ以外にも自分持ちの旗、持槍、皆朱の槍なども、特別な者が持つ物です。 ただ、大将の六具といわれる物があります。幾種類かあるのですが、その中に、「兵」「士」=共に「さむらい」があります。身分のあるものは軍装だけでなく、身の回りに、護衛を兼ねた武士が従っていたことが、一番の身分の識別方法だったのではと思います。身分が高いほど人数も多いでしょうし、従者自身の軍装も立派になっていくことにもなり、余計に従者を従える主人は、身分高く見えることになります。現代でも同じような面はあると思いますが。 なお、この時代の飛脚ですが、江戸時代のように飛脚業者がいたのではなく、大名家中の信用が置け、武芸に秀でたような武士に手紙等を届けさせたことを言います。 以上、参考まで。
- eroero4649
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400年前の出来事なので、資料がほとんど残っていない上に特にそういう民族学に近いところはほとんど分かっていない、というのを前提にお読みください。ですからこれから書くことはすべて「推測」に過ぎません。 1. 当然大きな決戦のときは総大将クラスも軍の気を引き締めるために具足は着用したと思います。しかし、意外にも大きな合戦というのは滅多に起こらないんですね。「出陣して、青田刈りをして帰ってきた」なんてことのほうが多かったのです。そういう場合は、特に日本の夏は暑いですからラフな格好でいることも多かったと思いますよ。 現代でも、ホリエモンや星野リゾートの星野社長のようにどこでもTシャツ姿でいる人もいれば、どこでもきちんとスーツを着る人もいます。人間というのは原則的にいつの時代も変わらないものですから、割とキッチリするタイプの人と、こまけーことは気にしない人がいたと思います。上杉謙信公なんかは、兜を嫌って頭巾姿で最前線まで出たのですから、命知らずともいえますし、その命知らずっぷりが味方の将兵からするとむしろ畏怖の対象としてカリスマ的な効果を発揮したとも思います。 また、竜造寺隆信は大変なデブで馬にも乗れないために輿に乗っていたそうです。そこまでのデブなら合うサイズの鎧を作っても本人が太ってすぐ着られなくなったなんてありそうですし、ましてや北九州ですから暑かったでしょうしそこまでのデブなら冬でもフーフーいってそうな気もするので、本人も鎧は着たがらなかったと思いますよ。 2. 当時はまだ近代軍的な全軍で統一された階級章などがあったわけではありません。日本でそういう概念が出てきたのは明治時代に「陸軍」「海軍」が誕生してからです。 しかし、身分を示す何らかのサインはあったと思いますよ。昭和時代の企業でも、ベストを着用して良いのは役職についている者のみ、みたいな暗黙のルールがよくありました。しかし社則をどんなに調べても「ベストは役職にある者のみ」なんて明文化はされていなかったりします。 自由な社風であった織田家ならそのへんもあまりうるさそうではなかったように思いますが、武田家あたりじゃそういうのにしきたりがあっても不思議ではないと思いますね。勝頼は風林火山の旗を使うことが許されなかったわけですからね。 また、そうはいうものの戦場で働きを目立たせるために多くの武士が独創的なデザインの兜を好みました。兜は頭に乗せるもので一番目立つという意味が大きかったと思いますが、「兜のデザインは自由」ということは、他のデザインに何らかの制限があってもおかしくはなかったかもしれませんね。それは今の企業で例えるなら、スーツは紺とかグレー、ワイシャツは白と決まっているけれど、ネクタイは自由というようなものかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 こんな質問は、確かに民族学に近いところですから、それを研究したいという専門家も少ないでしょうね。 合戦の駆け引きに比べると面白くも何も無いですから。 博物館や城で多くの具足を見てきましたが、どれも綺麗な物で、戦場の埃や汗は微塵も感じられない物が大多数でした。 まして、刀・槍や鉄砲玉のキズがあるものは、気づかないだけかも知れませんが、私は見たことがありません。 ある博物館で聞くと、神社に奉納された物でした。 なるほど! 不思議なのは兜です。 「兜 脇立」で画像検索すると、びっくりするような長い飾り物を付けています。 防禦の面では、鎧はなんとか効果があるだろうと思いますが、兜の飾りの脇立や前立なんかは頭上の何かに引っ掛かって邪魔になるだけだと思います。 そこで、儀式用と戦場用の兜があるのでは、と思いました。 http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%85%9C+%E8%84%87%E7%AB%8B さらに、面具(顔前面を隠す)も不思議です。 視界が狭くなって、反って危険じゃないかと思いました。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
1 そりゃ出陣のときは具足着用ですね 鎧兜は着るのにやたらと時間が掛かる(一人じゃ無理なんで小姓の助けが必要) なのでいちいち着替えたりしません そりゃ夏でも常時具足姿ですよ じゃないと自殺しに行くようなものです もちろん敵がはるかに遠くにいたりしたときは脱いだりしたでしょうけど 2 そんなものはありません だから馬印があったのです 総大将は基本的に陣の奥に居て 旗本衆と言う屈強な兵士が周りを守っています 戦場の軍義などで一同に会する場合は 肩脱ぎと言う軽装の鎧姿になったため そこに鎧の序列は関係ありません
お礼
ご回答ありがとうございます。 体力勝負でただひたすら我慢するしかなかったのですかね。 秀吉は、播州三木合戦では22ヶ月間、戦場に出ずっぱりですが、はたして何日間、具足を着用したのだろうか、という疑問です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに絵画史料を見るときは制作時期を確認しておかねばなりませんね。 私の場合、絵を見るのは好きですが、“見る目”がないので、絵をそのまま信用してしまいます。 しかし、良いヒントを頂きました。 戦国の匂いがする江戸初期に書かれた、重要文化財の「関ヶ原合戦図屏風」を参考にすればよいのですね。 調べてみますと、『津軽家本関ヶ原合戦図屏風』(大阪歴史博物館蔵)は、合戦についての直接的な記憶が残っている時期に制作された可能性のあるものだそうです。 びっくりしました。 ご指摘のように「兜も陣笠も被らず頭丸だしの将兵」が多いですね。 騎馬武者も兜を被っていない例が多数ありますね。 戦いの最中に兜や陣笠が外れてしまうこともあるでしょう。 そこで、合戦後の近いうちに前田家?で描かれた「岐阜市歴史博物館本 賤ヶ岳合戦図屏風」で調べてみました。 柴田勝安の本陣ですが、勝安は鎧の上から白い陣羽織を羽織り、床机に坐しており、兜も小具足もなしです。 さらに、勝安のごく近くに居る武将12人中4人が兜を被っていません。 攻めている秀吉軍の、弓・鉄砲の足軽も陣笠なしです。 ただし、敵か味方か分かるように、細い鉢巻をしています。 もちろん、具足姿で戦っている兵も大勢います。 また、前田利家の陣でも、鎧と小具足は着用していますが、兜なしの武将が何人か居ます。 前田家は、陣は構えたが戦闘には参加しなかったせいなのか、利家は描かれていません。 屏風や絵巻では、陣地で采配を振る大将は、大将に敬意を表して、完全武装で描かれるものと思っていましたが、予想外れでした。 >一方派手な邪魔な前立ての兜で戦うのもいます? 勇猛な戦いぶりを大将に認めてもらうためには、目立つことも大事でしょうね。 それに前立ては、敵味方の区別に必要でしょうね。 大名は、城館から出陣するときや凱旋するときには、完全武装の具足を着用したでしょうが、戦場では重くて、活動しにくいから、すぐ軽装にしたのでしょう。 兜なんぞ、じっとしておれば外れたり、ずれたりしないでしょうが、激しく動く戦場では、あんなに長くて重いものは、すぐにずれるでしょう。 ずれるとやっかいですね。 まして、面頬なんて戦場では不要ですね。 教えてもらったからこそ今になって言えるのですが、考えてみれば当然のことでした。 お陰さまでよく分かりました。 絵は、分かりやすいです。 岐阜市歴史博物館 http://www.rekihaku.gifu.gifu.jp/kanzouhin/pdf_data.pdf#search='%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8