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源平が藤原氏の家人になった理由
平安時代、元皇族の源氏平氏が、臣下格の藤原氏の家人になったのはなぜですか?
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- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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母親の身分が低かったりするなど、家の中でも扱いが低かったりしたからです。 たとえ父親が天皇や上皇、親王でも母親の身分が低かったりすると東宮(皇太子)にはなれないことが多く、宮中での扱いも低くなるために親王などの位から臣籍降下したのが源氏や平氏になったということはご理解できますか? 臣籍降下したあとも身分が低い女性との子などは長男でも嫡子になることができず、高い位に就くこともできず、出家するか地方に飛ばされたりすることが多かったようです。 (身分が高いと国司になっても任地へ行かずに京で働くことも出来ました) そのうちに地方の豪族と結ばれたりして、地方で力を持ち、その地を守るために武力を持ったのが武家、武士の始まりです。 武家には源氏や平氏以外にも藤原氏などもいます。 私も実は武家の藤原氏の流れのようです。 藤原道長(摂関家・五摂家)の流れ以外の藤原氏は大体武家になりましたので、日本人の大半は武家の藤原氏の流れかと。 佐藤さんなどは武家の藤原氏ですからね。 そんな武家は地方で力を持つことになりますが、その地方で様々なトラブルが発生し、政治的に仲裁したり解決させたりしたのが、京の貴族・公家でした。 そうしているうちに公家が武家を使うようになり、武家だけど公家に戻りたい武士は積極的に摂関家や朝廷に仕え、公家の娘と婚姻を結び、家格を上げていきました。 逆に臣籍降下しても代々身分が高い母親から生まれ、京に残り続け、武士にならず、藤原氏の下につかなかった公家の血筋もあります。 平氏では平時忠などの血筋が有名です。 時忠の姉の時子は平清盛と結婚し、滋子は後白河法皇の寵愛を受け高倉天皇を産みました。 清盛の「平家一門」の繁栄は時忠たち姉弟の公家の血筋のお陰とも言えます。 源氏の公家は摂関家と長いこと親戚関係にあって「摂関家」に準ずる家格だった村上天皇から出た「村上源氏」などがあります。 一時は藤原摂関家の系列の藤原氏(五摂家)よりも家格が上になったこともありました。 「村上源氏」の中でいちばん有名なのが「明治維新」の岩倉具視ですね。
- notnot
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収入を得るためだと思いますが?? 皇族で無くなったと言うことは、自力で生きていかないといけないと言うことです。 天皇の子や孫の源氏はそれなりの高位に登っているので他家に仕える必要はもちろんありませんでしたが、代を経るに従って、高位の官職に就けなくなっています。これは源氏や平氏が天皇との近縁性のみで官職に就けていたからで、ひ孫くらいになると縁も遠くなった上に人数も増え、そこそこの官職にしか就けず、母の身分が低いとそれも難しいです。平氏はもともと孫やひ孫から始まっているのでさらにですね。 ということで、それぞれ公卿に上れるレベルで生き残れた特定の家柄以外は、中下級の官僚になるか、地方豪族を目指すか。いずれの場合も中央の有力者とのコネは重要です。
- ithi
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njkgrnajkaejさん、こんばんは。 元は皇室の流れである源氏、平氏とは言っても、平安時代に歴代の天皇が臣籍降下させた皇子の数はたくさんおり、その子孫である彼らは、その地方に土着して、生活しているんですよ。武士団のリーダーとしてね。地方では羽振りがいいけど、無位無官ですから、もっと地位を向上させようとすると、位階を持ち、官職を経験しないといけない。だから、中央へ行って、奉公しないと、位階や官職がもらえないという事も手伝って、中央でも一番羽振りの良い、藤原摂関家などへ奉公したりして、官職や、位階を求めような機会を見つけようとしているのです。彼らは、一応、武道の心得は一通り、出来るので、ボディガードとしては、最適なんですよ。