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お答えいただけましたら幸いです。
「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人をほとんど(あまり)見ていない」 と 「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人がほとんど(あまり)見えていない」 はどちらが正しく、どちらが自然でしょうか? また、それぞれどういう意味になるでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
再度、質問者からの補足を拝見しました。 >「多くの人がいる場所「あるいは」or「や」状況で(は)、ほとんどの人は、どんな風にであれ、他人のほとんどを見ていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 のように書く(言う)場合、 「あるいは」ではなく、「や」が正しいでしょうか(正しいとお考えになりますか)? ⇒「あるいは」が間違いだとは思いませんが、私は「や」の方が文脈により良く馴染むと思います。
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- Nakay702
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質問者からの補足にお答えします。 >訂正をさせていただきます。 >「~~~(、。) (※に続きます)」 ↓ 「※ ~~~~(、。) (※*に続きます)」 ↓ 「※* ~~~~(、。)」 などのようにしても、よい(何も問題(など)ない)でしょうか(とお考えになりますか)? ⇒はい、「※に続きます」という言い方にしてもいいと思います。
補足
お答えいただきありがとうございます。 以前の質問に関連しますが、 また質問失礼します。 「多くの人がいる場所「あるいは」or「や」状況で(は)、ほとんどの人は、どんな風にであれ、他人のほとんどを見ていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 のように書く(言う)場合、 「あるいは」ではなく、「や」が正しいでしょうか(正しいとお考えになりますか)?
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10068/12613)
以下のとおりお答えします。 >「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人をほとんど(あまり)見ていない」と「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人がほとんど(あまり)見えていない」 はどちらが正しく、どちらが自然でしょうか? また、それぞれどういう意味になるでしょうか? ⇒shinleo1918がこの問題こだわるお気持ちは、分かるような気がします。「人は他人をほとんど(あまり)見ていない」と「(人は他人がほとんど(あまり)見えていない」のどちらも正しく、自然な表現とは思いますが、意味解釈の仕方がひどく複雑ですね。 実は、この問題は根が深く、国語学者の間でも定説のないことに関わりますので、できれば触れたくなかったのですが、この際思い切って(あえて独断と偏見も辞さず)踏み込んで考えてみようと思います。態(相)・格・人称などとも関わらざるを得ないことになるかも知れません。 「見る」と「見える」は直接に対(つい)を成しているようにも見えますが、実態はそうではありません。「見る」と直接に対(つい)を成すのは「見られる」であって、「見える」ではないのです。どういうことかと言いますと、「見る」は能動態で、「見られる」は受動態ですが、「見える」はそのどちらでもないからです。仕方がないので、ここでは仮に「中動態」と呼ぶことにします。 この「見る」の主語は《人》で、「見られる」の主語は《他人》であることは明瞭ですが、「見える」の主語はよく分りません。《他人》のようでもありますが、《状況》のようでもあります。英語では無人称のit*を使ったり、能格動詞*の中間的表現という解釈でも済まされますが、国語では「助動詞による可能態表現」などと言われたりします。つまり、英語も国語も、「見る」・「見える」・「見られる」を一組の体系としては扱いません。 *無人称のit:主語を明示したくないとか明示する必要がない場合などに、英語ではしばしば主語としてitが用いられます。漠然と《事態や状況》を示します。 *能格動詞:他動詞にも自動詞にもなる動詞で、他動詞の目的語と自動詞の主語とが共通の格を取る。 私は、これを一組のもの(相関の束)として扱うべきであると考えます。 「見る」:他動詞・能動態(人が他人を見る)。 「見られる」:他動詞・受動態(他人がを人に見られる)。 「見える」:他動詞・能動態(人が他人のあたりを見る)、 または自動詞・中動態(他人とその周辺が人の目に映る)。 ということで、「見る」+「見える」、または「見る」+「見られる」の2項対立でなく、「見る」+「見える」+「見られる」の3項対立、もしくは鼎立の構造として見なすべきであると思います。これは、「言う」+「言える」+「言われる」や「読む」+「読める」+「読まれる」などの表現定型などと同一のジャンルを構成する組織体系です。 結論(お尋ねの件に対する回答まとめ): ①正文・非文等の判断 「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人をほとんど(あまり)見ていない」と「(人が複数いる街中や電車内といった場所や状況で)人は他人がほとんど(あまり)見えていない」 はどちらも正しく、自然な表現だと言えます。 ②意味と態をめぐる解釈 「見る」:他動詞・能動態(人が他人を見る)という解釈で確定できますが、 「見える」:他動詞・能動態(人が他人のあたりを見る)、または自動詞・中動態(他人とその周辺が人の目に映る)の2とおりの解釈が成り立ちます。 ③表現の体系化 「見る」(他動詞・能動態)+「見える」(自動詞・中動態*)、または「見る」(他動詞・能動態)+「見られる」の2項対立でなく、「見る」(他動詞・能動態)+「見える」(自動詞・中動態*)+「見られる」(他動詞・受動態)の3項対立、もしくは鼎立の組織体系として見なすべきであると思います。 *この「中動態」は、「受動態」とする解釈もあります。日本語では、自動詞による受動態もあるとされています。
補足
お答えいただきありがとうございます。 昨日、ベストアンサーをさせていただいた質問内での最後のお礼の訂正をさせていただきます。 「~~~(、。) (※に続きます)」 ↓ 「※ ~~~~(、。) (※*に続きます)」 ↓ 「※* ~~~~(、。)」 などのようにしても、よい(何も問題(など)ない)でしょうか(とお考えになりますか)?
- sknbsknb2
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字面だけだと、 「見ていない」->自分の意思で見ていない 「見えていない」->何らかの理由で見えない状態になっている ということになるかと思います。 ただ、街中や電車内という条件がつくと、「人間は見知らぬ他人にあまり興味がない」という理由で「眼中にない」という状態になったりするので、どちらの言い回しもありだと思いますが、前後を含めた文脈の中で何を強調したいかによって、どちらかの言い回しがより自然なのか、ということになると思います。
- runatickdance
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見てない、 目先をむけて見てない。 見えてない、 目先をむけているが、 違うこと考えてて、見えてない。
どちらも自然でしょ?🤔能動的か受動的かの違い?🙄
お礼
補足の訂正です。 「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所「あるいは」or「や」状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど見ていないし、ときには、見えてもいない(見ていない(見えていない))、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか/(、。)」 などのように書く(言う)場合も、お答えは同じでしょうか?
補足
お答えいただきありがとうございます。 何度もすみませんが、 「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所「あるいは」or「や」状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど見ていないし、ときには、見えてもいない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 のように書く(言う)場合も、お答えは同じでしょうか?