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大戦Ⅰ後不況の原因と対策
第一次世界大戦後の不況の原因は何で、どうすれば克服が出来たのでしょうか。後知恵でしょうが、歴史の教訓として見ておきたいものです。
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- gunsin
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#2です。 >日露戦争、大戦Ⅱ、などの情勢も混ざっていませんか? 日本の経済は第一次世界大戦前から、疲弊してました、そこに欧米の 不況の影響でさらに悪化しましたが、経済的な手を何ら打たずに、 軍備拡張に走ってます、今の北朝鮮状態と同じです、その遠因は、 日露戦争に有りなのです。 領土拡大が窮状打開する対策としたのですが、軍部と財閥の結託 によるもので、国民のほうを向いた対策ではないですよね。 (今の米国の姿が同じにみえます) 覇権主義の結果、320万人もの犠牲者を出し、国土が焼土化しました。 大日本帝国の誕生から消滅まで、一続きで、一時点だけを捕らえて 語れないとおもうのですが。 それにつけても、明治、大正、昭和初期、生まれの父母、祖父母の 頑張りは凄いですね。
- gunsin
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欧州は戦後には必ず起こる、インフレとスペイン風邪に因る、大量の 死者が出て、労働力不足に因るものと思います。 米国は欧州の影響と思いますが?です。 日本は日露戦争の債務返却に汲々としてる所に朝鮮を併合して、 朝鮮のインフラ整備に多額の費用を費やし、増々財政が悪化しました 外貨獲得の要の絹が欧米の不景気で売れなくなり、更に東北地方は 冷害で不作となり、女衒が活躍する事態になりました。 それでも、ロシアに勝ったとの戦勝気分が抜けず、軍部は軍備拡張 に励み、国民も支持していたきらいが有ります。 国家財政が破綻するのは、当然なのに、取った政策は領土拡大の 覇権主義だけです。 財閥は大喜びですが、国民、取り分け農村部は困窮の極みです。 226事件を起こした青年将校の決起の要因の一つです。 海軍は無用の長物巨大戦艦を造り、陸軍は、世界は自動小銃化 している時代に、三八式歩兵銃と大和魂で大東亜戦争に突入です。 経済対策を何らしないのですから、物資の補給が続かないので、 320万人もの死者を出して、敗戦となりました。 226事件の将校が要求した、農地解放、財閥解体、はマッカーサーが してくれました。 320万人の犠牲者を出して、日露戦争の戦勝気分が無くなり、 大日本帝国は崩壊しました。 大日本帝国は国民を虫けら同然に扱ったのですから滅びて当然です。 白紙状態からの出発時に、吉田茂と池田勇人などの門下生?が、 居た事は日本国には幸運だと思ってます。 松本清張の「昭和史発掘」を是非、読まれたし!
お礼
日露戦争、大戦Ⅱ、などの情勢も混ざっていませんか?
- eroero4649
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第一次世界大戦当時の日本は軽工業国で、主な輸出品は生糸でした。 ただ、この日本産生糸にはひとつ欠点があって、欧米のものに比べると質が悪かったのです。品質で勝負できませんでした。 第一次世界大戦をしているときは、当時の一番の生糸生産国であったイギリスは戦争用の物資の生産が最優先で、生糸は後回しにされました。だから生糸不足が発生して日本製の生糸が飛ぶように売れたのです。 ところが戦争が終結すると、イギリスが再び生糸生産ができるようになったので、品質に劣る日本製の生糸は売れなくなってしまい不況に陥ってしまったのです。 対策は二つありました。生糸の質を上げること。そして国内市場で消費させることで需要を保たせることです。 しかしどちらの策も当時の日本では事実上不可能でしたね。質の向上なんてそう簡単にはいかないものです。現代の中国製もそうじゃないですか。 また当時の日本はアジアとしては飛び抜けた経済力を持っていたとはいえ、ヨーロッパの列強各国に比べるとはるかに貧しく、国内にそこまでの市場がありませんでした。日本が輸出に頼らず国内市場でも食っていけるようになるには1980年代まで待たなければなりませんでした。 そして第一次世界大戦は、戦争というものに極めて大きな影響を与えました。戦争が「火薬を詰めた鋼鉄の塊をどれだけ相手に投げつけられるか」というものになったのです。 これは軽工業国である日本にとっては極めて深刻な問題でした。重工業国だけが生き残れる世界になってしまったのです。 日清戦争以降、大日本帝国にとっての最大の脅威は常にロシアでした。日露戦争でロシアに勝利はしたものの、やはりロシアは日本にとって手に余る強大国でありました。 そのロシアがソ連になったときは、当初は内戦などの混乱もあってまだ日本にとっては余裕がありましたが、ソ連が「五か年計画」で重工業化に成功すると、軍事的にも明らかにソ連>大日本帝国になっていきました。ソ連は五か年計画で作ったトラクターで大規模農業を始めて生産力を飛躍的に向上させたのですが、日本では大規模農業ができないのでそこにトラクターを投じて生産効率がいい農業ができませんでした。 しかしとにかくこれから(1920年代以降)の戦争は、戦闘機や戦車が必要で、大砲も馬や人力ではなくトラックで引っ張る時代になるわけで、そうなると戦闘機にも戦車にもトラックにも必要となるエンジンが必要になるわけですが、軽工業国の日本ではエンジンが作れない。というか、そもそも高性能エンジンを作るためには質のいい鋼鉄が必要で、まず大日本帝国はそこの時点で引っかかっていました。 また機械製品は大量生産することによってコストを大きく下げることができますが、大規模農業ができない日本ではトラックもトラクターも売れないから民間企業もトラックやトラクターの開発ができないわけです。 なので大日本帝国は、軍隊でトラックなどを購入することによって重工業化へシフトしようと思ったわけです。民需がないから、軍需で市場を作ろうとしました。 これは結構成功して、1930年代は大日本帝国は鉄鋼生産量などを飛躍的に向上させることができました。 というわけで、その後の歴史の流れを鑑みると、どうしてもどこかで重工業化はしなければならず、軽工業国であった日本が第一次世界大戦後の不況を乗り越えて重工業国化へシフトするなら軍需で需要を作る以外に方策はあったんかいな、と私は思うところであります。 当時の日本(官僚)が国家の方針としてやったことはベストとはいえないかもしれませんが、そうだとしたら他にどんな方法があったのか私も聞きたいくらいです。 少なくともこの10年くらい、IT化、再生可能エネルギーへの転換、EV化、新型コロナウイルス対策などでことごとく「無策」という言葉がピッタリの対応をしてきた我々現代日本人に、当時の国を動かしていた人たちを批判する資格はないと思います。 あと何十年後かに、我々は「なぜ2020年頃の日本人はああもアホだったのか」と批判されることになると思います。
お礼
重工業国化ができなかったから、という見解ですね。 歴史は常に後知恵ですから仕方ないですね。 回答をありがとうございました。
補足
その後、NHKの教育番組を見ていたら、次のような指摘が出ていました。ご参考までに。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1918 年には工業生産額が農業生産額を上回るようになり、特に造船業、鉄工業、機械工業、化学・薬品工業など重化学工業分野で成長が顕著であった。 重化学工業の発達によって工業地帯が形成され都市化が進行した。 しかし、第一次世界大戦後、欧州諸国はしだいに復興し、アジア諸国の民族資本も成長して、日本はふたたび輸入超過となった。1923年の関東大震災は、それに追い打ちをかける形となった。 これに対し、当時の政党内閣も、1929 年に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は、不況脱出の切り札として産業合理化、金解禁政策を実施した。産業合理化は人件費の節減、労働の効率化、製品の規格化などにより生産コストを引き下げ、国際競争力を高めようとするもので、金解禁は円と外国通貨との交換比率を、当時の実勢相場よりも円を切り上げて固定しようとするものであった。そして、金解禁によって一時的には輸出が減少するかもしれないが、産業合理化が進めば日本経済は揺るぎないものになると考えたのである。 しかし、1929 年、アメリカに端を発した世界恐慌は、日本に想定以上の打撃を与えた。輸出は不振を極め、物価は下落、会社の倒産が相次ぎ、農家は負債を抱えることになった。こうして、日本社会に閉塞感が強まった。 他にも、大戦景気の膨張が縮小、米価下落(生産増加、朝鮮からの輸入米)、大地震、 緊縮財政ーー浜口内閣 若槻内閣の大臣失言、 世界恐慌ーー「昭和恐慌」へと 農村は都市からの失業帰還者 豊作飢饉、一部大凶作(欠食児童 娘の人身売買) *一部、重なる部分もありますが、メモを元に再構成しました。重化学工業は進んだものの、世界情勢の大波をもろにかぶり、農村では豊作貧乏や都市失業者の帰還など、様々な側面があったことが分かりました。 もう少し早く放映してくれれば…と思います。
お礼
そういうことでしたか。 昔の世代の倹約力行は、すごいですよね。