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行き過ぎた多様性教育が生むもの?
- 山形県の小学校では「生徒の個性を最大限活かして」をキャッチフレーズにしていますが、教室の風景は多様性教育の行き過ぎを感じさせます。
- 多様性教育は良いことですが、過度に「個性を生かす」という方針は軽業師まがいの若者を量産してしまう可能性があります。
- 基礎的な学問や授業も大切であり、多様性教育が適切に行われるためにはバランスが必要です。
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「多様性」のなかで「先生はきめ細かく子供に寄り添って」など、 絵に書いた餅であり、もっと言えば教師の手抜きを隠す詭弁です。 数学は「解は1つだがアプローチは様々」であることを知る材料になります。 理科は「生命の多様性」「地形地質や天体・気象の多様性」を学ぶ 格好の教材です。 「芸術分野」は言うに及ばず「言語表現の多様性」「時代や地域による国家の多様性」などなど、 通常の学習で学べるものが多数あります。 そして、何より大切なのは「個々人の多様性」を担保する「自由」には 責任がついて回ることを教えてあげることです。 その学校のやり方は数年を待たずに頓挫すると思いますよ。
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- Ultra-Hetare
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人間は・・というより、あらゆる生命は保守的に出来上がっています。 遺伝子がそう求めているからだと思います。 なので実は、「自由」とは、面倒くさくて厄介な代物なのです。 (逆に、真の自由は監獄の中でも獲得できるものですが・・) 子供たちの本当の多様性を見極めたいなら、全員監獄に入れるのが良いのでは?・・というのは暴論ですが、 小手先の「放任教育」では誰も「Freedom」を知らずに、 「Liberal」が自由だと勘違いした世の中になるでしょう。 不自由を課すからこそ、人間は自由を知るのです。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
>数学も理科も、やがては工学やエンジニアリング、科学の道へつながる基本的な学問です。 そりゃあその通りですが、でも現実問題として子供たちの「理系離れ」が深刻になっているわけですよね。既存の教育システムが上手くいってないから、子供たちの理系離れが進んでいったのではないでしょうか。 まず議論のスタート地点として「そもそも今までの教育システムが効率が良かったのか?」ということから始めないといけないと思います。 昭和の頃の教育システムはとにかく子供の数が多かったので、少ない教師で多くの子供をなんとか平均レベルに持っていくためのやり方でした。だから質問者さんもよくご存知だと思うけれど、落ちこぼれに対する救済措置はありませんでした。いわゆる「腐ったミカン」は捨てるに限ったのです。ミカンは沢山ありましたから。 だけど今はもうとにかく子供が少ない。画一的な大量生産システムは合わないことは明らかです。 今の日本の最大の問題は、意思決定が遅くて決断ができない、新しい時代についていけてないことですよね。「変わろうとしない」「変えられない」ことが今の日本の閉そく感なわけです。 そして昭和的画一生産教育システムの欠点が、質問者さんのような硬直した思考の人材を作ってしまっているということはないでしょうかね・笑? 私は自分の年齢を考えると、かなり柔軟な思考の持ち主だと思います。ビットコインとかも手を出していますしね。さすがにTikTokで踊らないですけど・笑。 でもそんな私は、昭和の教育システムの「落ちこぼれ」でした。生まれるのが20年早かったなと思うことしばしばですよ・笑。 もちろん質問者さんの言いたいことは分かります。分かるけど、「そうやって新しいことをやろうとすると潰してしまうのが今の日本の悪いところなんじゃないの?」と思います。 軽業師まがいの若者、いいじゃないですか。その子がスケボーで世界的を目指したくなれば、アメリカに渡ります。必要となれば自然に勉強しますし話せるようになりますよ。別に教科書から英語を覚えなきゃいけないわけでもないと思います。「YouTubeの外国人の動画を見て、何を話してるのか理解したかったから英語を勉強した」でもいいじゃないですか。
お礼
なるほど~。 そういう考えもありますね。 ただ、教育というか学校で習う事と言うのは「生きてゆくための技」ですよね。だから町人の子供は、寺子屋で読み書き算盤を習った、 私はこれが原点だと思います。 「生きてゆくための技や知恵」だからこそ、真剣に学ぶ、 「勉強」と言うのは、元々の言葉自体が「イヤだけでやらねばならないことをやる」の筈です。 算数、国語、理科、社会・・・何よりも頭の「基礎体力」だと思います。 基礎体力が全然身についていないのに、軽業師みたいなことに一所懸命(←これだって「一生懸命」じゃなくて「一所懸命」が正しいはず)になられても、困りますよね。 軽業師の練習は、放課後にやりなさい、と思います。 「これまでの教育が実は悪かった」が、日本の衰退の原因ではないと思いますよ。
- iwashi01
- ベストアンサー率17% (187/1051)
最終的に学力テストはクリアしないと進級できない、 ということにしとけばいいんじゃないでしょうか。 軍隊みたいに整列させて話を聞かせても、 落ちこぼれる人は落ちこぼれるんですから。
お礼
ありがとうございます。 「軽業師やりたいのなら、きちんとやるべきことを済ませてからやりなさい」 とは思いますね。 軽業師は、目の前の勉強という名のイヤな事から逃げるための口実では、ありません。 そんな感じでしょうか。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答者はその小学校の紹介を見ていないので何とも言えませんが、こうした「先進的な教育」をどのように評価するのかは、難しい問題だと思います。というのは明治時代以降の日本の近代の教育は「一つの教室で一人の先生が同じことを全員に一斉に教える」という形式がほとんどだったので、無意識のうちに「それ以外のやり方に違和感が生じる」ようになっているからです。 しかし、よくよく考えてみれば、昔の「寺子屋」は一つの部屋に複数の生徒と一人の先生(お師匠さん)というところまでは今の一般的な学校と似ていますが、「生徒一人一人に親の職業や本人の希望を聞いて、それぞれ違った課題を与えていた」という点ではご指摘の小学校以上に「個別教育」でした。(寺子屋はさらに年齢が異なる生徒が一緒でもありましたが) 「多様性の重視」は別に「最近のトレンド」というだけではなく、寺子屋など明治以前の日本の教育が実際に目指していたことでもあります。明治になって近代的な学校教育が始まると効率が重視され、年齢が同じ児童・生徒を一つの教室に集めて一人の先生が同じことを教えるようになりました。これは一つの大きな進歩ですが、それと引き換えに何か失ってしまった大事なものもあった、と気づくまでには長い時間がかかりました。 ご指摘の小学校の例は「先進的な教育」のように見えて、ある意味では「日本の伝統的な教育観の復権」と言えるかもしれず、「学習指導要領というしばり」があるなかで、どのような教育を目指すことが可能なのかが重要だと考えます。先生は一斉授業よりずっと大変でしょうけれど。
お礼
>近代的な学校教育が始まると効率が重視され、年齢が同じ児童・生徒を一つの教室に集めて一人の先生が同じことを教えるようになりました。これは一つの大きな進歩ですが、それと引き換えに何か失ってしまった大事なものもあった、と気づくまでには長い時間が うーん、是か非かと言われると、難しいですよね。 ただ、洋の東西を問わず、学校で習うことは「生きてゆくために必要なこと」というのが大元の大前提だった、 だから商人の子供が読み書き算盤、 これが寺小屋だったと思うんです。 学校で習う事は、生きてゆくための基礎体力、基礎能力。 その前提を忘れて、今の学校は、 「多様性教育」の名のもとに、子供らの基礎的学力や体力が年々劣化させているように思えてしまいます。
- kaitara1
- ベストアンサー率12% (1154/9141)
ダメなひとはどうやってもだめでダメでない人はどうやってもだめでないということのようです。
お礼
ありがとうございます。
- tiroo
- ベストアンサー率45% (65/144)
学習指導要領がありますので、子供たちがやりたいことだけし、やりたくないことはしないまま卒業するカリキュラムを採用することはできません。 同じ小学校ではありませんが、私もニュースでそのような授業方法が紹介されているのを見ました。こちらは学習内容が選択式にしてあって、選択肢の中からどの時間に何を誰とどこでするかは子どもたち自身で決めることができますが、最終的には選択肢にあるもの全てを終えなければならないというルールでした。山形の小学校もこういう形式ではありませんか? また、教師が楽をする…という意見を見ましたが、このやり方、教師側からしたら死ぬほどめんどくさいです。全員で一糸乱れぬことをしてくれるのが1番楽です。いわゆる昔のやり方ですね。何十人、何百人が違う動きをしてきて、それを把握し、各個人に適切な指導をする、死ぬほど面倒です。
お礼
ありがとうございます。 この授業風景、生徒が何をしても先生は微笑んで見ているだけ、生徒に呼ばれたら出張って何か相手をする、といった感じでした。 全否定はしませんが、今コロナでリモートワークのご時勢、既に自分を律して自宅で働ける人とそうでない人が出てきています。自由はいいけど、子供らの格差は広がるでしょうね。
お礼
ありがとうございます。 私も詳細まで確認したわけではありませんが、そのうち「自分の好きなことをとことん」と称して、授業時間にプラモデルを作ったりゲームをする子供らが出てくるんじゃないか?と思っています。 「自由には必ず責任が伴う」 その教育が一体どこまでなされているかは、疑問ですね。
補足
思うに、洋の東西を問わず、学校で習うことは「生きてゆくために必要なこと」というのが大元の大前提だった、 だから商人の子供が寺子屋で読み書き算盤を学ぶ、 知って使いこなせなきゃ生きて行けなくなる、だから真剣に学ぶ、 これが教育の原点だったと思うんです。 学校で習う事は、生きてゆくための基礎体力、基礎能力。 その前提を忘れて、今の学校は、 「多様性教育」の名のもとに、子供らの基礎的学力や体力が年々劣化させているように思えてしまいます。 「勉強」って、そもそも「やりたくないけど、やらねばならない事をやる」という意味だったと思います。 やりたくないだろうけど、やりなさい、軽業師は、やるべき事をやってから。逃げる口実ではない。 そう言いたいですね。