>哲学者の言葉や人物から学んだことや、得たことがあれば、具体的に教えていただきたいです。
⇒ちょっと大げさかも知れませんが、デカルトやオルテガから「人類の未来を考える」ためのヒントを得たように思います。
かつて哲学が諸学問を統合する機能を果していたが、それは原理的には今日でも変っていないはずである。すなわち哲学には、諸科学を統合してこれに指針を与えるという機能がある、少なくともその使命を負っているはずだと考える。ところが、現代哲学は史的研究には精出すものの、このような問題を哲学することにはあまり関心を持たないように見受けられる。一方、人類史の頂点にいる現代人は極度に"sophisticate"されて、自然児たることすなわち己が自然の一部であることを忘れ、自然や人間を分析・制御するための学問に長けてきた一方で、全体を俯瞰し統括するという視点を喪失した。また歴史上の頂点にいる"homo faber"(工作人)としてある意味必然の結果かも知れないが、現代人は超高度な文明化社会を現出した。
文明化そのものを咎め立てするのではないが、文明の高さに比して文化度が低すぎるのではないかとも見える。その証左として、我々現代人は地球上のあらゆる生命の生殺与奪権を掌握するという、いわば「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化し、部品を寄せ集めれば全体に戻るだろうという要素還元主義的な(物理学などでは有効であろう)見方を生身の人間にまで当てはめ、それに染まり切って脱却できない。これらのことと、本来司令塔たるべき哲学の存在感が薄く、軽視されがちな風潮とは同一線上にあるようにも思える。ある意味、我々が進歩だと妄信して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、自然を冒涜する反逆だったのかも知れない。いや、よく分からないが、少なくともそういうことに思いを致してみることが必要ではないだろうか。その意味で、我々が事態の原点に戻って考え直し、人間として「本当の幸福」を追求するのに最も頼みとなるのが哲学とその機能だと考える。
人類の未来を考える時、注視すべきものは、疑いもなく頭脳や理性に関わることだと言えるだろう。デカルトらを中心として提起・確立されてきた合理主義精神は、近代以来の輝かしい人間賛歌であり、凱歌であった。それは否定できない事実であるし、我々現代人はその恩恵に与って文明を発展させてきたことも事実であろう。しかし問題は、理性主義を尊重し過ぎて合理一辺倒にのめり込み、それに支配さえされてしまっていることである。早い話が、頭でっかちになり過ぎたということで、これすなわち、全体(=全身・生命)が一部(=頭脳・理性)によって支配されてしまっているのではないか、生命体として全身とのバランスを欠き、中途半端に頭がよくなったことが問題ではないか、と言いたいのである。
頭脳は、当然ながら生体の一部である。その生体の一部に偏重し過ぎた結果、生の全体がそれに支配されているのではないかと懸念するのである。我々はこういう憂慮すべき点にこそ頭を使うべきだと思う。オルテガの「生-理性主義」*が言うように、「理性は生の一形式、一機能に過ぎない」。だからといって、理性を捨てようというのではない。生-理性を尊重しつつ、世界と生の哲理・理法を考えようというのである。生-理性の根本原理は、高尚なことでも複雑なことでも何でもない。それは、だだ、生きることそのもの、個としてまた地球市民として、「ともに生きることそのもの」である。肝心なのは、現代人特有の頭脳や理性を、知識だけでなくむしろ「知恵に」活用することであろう。「本当に頭がよい」とはどういうことかについて考え直し、自滅回避の方向へ英知を結集したいものである。常に、あるべき人間的生の何たるかを哲学したいものである。そして、バラ色の未来とまでいかないまでも、相互互恵の仕組みに裏打ちされた持続的安定社会の実現のためにこそ頭脳を活かしたいものである。
*「生-理性主義」:理性は生の一形式、一機能に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。"Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」なのだと主張する。生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない、とする。「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。