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哲学で使われる言葉とは?
- 哲学で使われる言葉について疑問がある人に向けて解説します。
- 哲学の本などの中には難解な言葉が多く使われていますが、それはどうしてなのか疑問に感じることもあるでしょう。
- 難解な言葉を多用する哲学者もいれば、明確な表現をする哲学者もいます。どちらの表現方法が適切なのか、その意味について考えてみましょう。
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明治に西欧から文化・文物が入ってきたときに、専門用語を新たに日常生活で使っている言葉とは区別して、漢語を使った翻訳用語を、西周とか、井上哲次郎とか、菊地源一郎とか、福沢諭吉などが作って行きました。 日本における哲学・思想の用語は日常から区別して、専門用語だということが分かるように、これまで誰もしゃべったことのない、言葉を作ったのでした。 その点、西欧の哲学・思想の用語が日常生活の延長で、誰もがふだん喋っていたのと比べるとひじょうに特異だということが分かります。 日常生活から断絶している方が良いのか、それとも西欧のように日常生活に密着し、その延長にある方が良いのかには一長一短があると思います。 もし日常生活で使っている言葉の延長だとすると、どうしても日常生活で使っている意味が紛れ込んできて、それが専門用語で、使用する範囲が狭いものだということが分からなくなる可能性があり、逆に日常生活からあまりにもかけ離れているとそれが専門用語だと簡単に分かる半面、日常生活とどのようにつながっているのか、それが分からなくなるという弊害もあります。 例えば「存在」というと私たちの日常生活ではめったにお目にかかりませんが、「ある」とか「いる」という言葉だったら、私たちはふだん当たり前のように使っています。 では「存在」という言葉をやめて、「ある」とか「いる」ですべて代用したらどうなるかと考えると、「存在論」は「ある論」「いる論」ということになり、たしかに分かりやすいですが、「ある」とか「いる」という言葉が多様な意味を持ちますので、不必要な意味がまとわりついてきます。 それに中国の漢字の造語能力は我が国の仮名よりもひじょうに優れているので、抽象的な事柄を翻訳する場合、日本語のように抽象的な表現に相応しくない言語では表現できない事柄でも翻訳できるという利点がありました。 最近は西欧の専門用語を片仮名でそのまま表記することが多くなりましたが、明治の学者・ジャーナリストはその用語をすべて漢語に翻訳したので、その造語能力は現代よりもはるかに優れていたというべきです。 質問者のいうとおり、哲学の専門用語には日常生活からかけ離れた難解な言葉が多いですが、それはわざと難しくしているというより、我が国の専門用語が日常生活から離れたものだったという宿命によるもので、その点は割り引いて考えなければならないと思います。 つまり、日本語がもともと感情表現の豊富な言語である半面、論理的な表現には貧弱だった、という宿命によるものでした。 ショーペンハウワーは文章というものは出来るだけ平易に書くのを勧めていて、難解な言葉を使いたがる人は事柄をよく知っていないことが多く、それを誤魔化すために難解な言葉を使うのだと言っていました。 私もその勧告にしたがい出来るだけ平易な言葉で、誰にでも分かるように回答するように努めいてますが、日本語には一つの言葉で多様な意味を持っている言葉が多く、どうしても西欧の翻訳語である専門用語を使わざるを得ないことが多くあります。 例えば「認識」という言葉などは、できるだけ「知る」という言葉で代用していますが、場合によっては「認識」という言葉を使わざるを得ないときもあります。 それを自己顕示欲とか衒学趣味で使っているのだろうと言われたりするとがっかりします。 専門用語を使わないと表現できない場合があるということを理解していないのです。 今では「カテゴリー」と言えば、簡単に分かりますが、明治の人びとはそれをすべて漢語で表現しようとしたので「範疇」なんて言葉で翻訳したので、難しくて私なんかは何を言っているのだろうと、首を傾げたものです。 その一方で、では西欧の用語をそのまま片仮名表記すればいいじゃないかと言われて、哲学・思想書が片仮名ばっかりになるのもどうかと思います。 それなら原書で読んだほうがましです。 昔は映画のタイトルでも、英語のもともとの意味とは別の漢語表現で表したものが多く、「慕情」だとか「旅愁」だとかタイトルに惹かれて映画をよく見たものです。 でも最近の映画は英語のタイトルをそのまま片仮名表記したものが多く、つまらないものが多くなりました。 漢語を使った造語能力が衰退してきた証拠なのでしょうか? 翻訳論を著している柳父章は新しい哲学・思想などの専門用語は日常生活からかけ離れていた方が良い、中身が空っぽの方が、新しい意味を詰め込むのに適している、と言っていますから、衒学趣味の「知性化」が働いているというより、むしろ「知性化」を働かせた方が良いのだと思います。 出来るだけ日常生活からかけ離れている難解な言葉の方が、むしろ新しい意味を込めるのにはふさわしい、ということになります。
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- asisai888
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No12です お礼みました >知性化というフィルターを通してみれば、見えていないこともそう思えばそう見えることになります 私の言いたいことがよく伝わってないようなので端的に言いますと 知性化というフィルターなんてものはデタラメだってことです 難しい表現を多用する人の中には知性化が示すような動機の人もいるでしょう しかし異なる動機の人も当然いるでしょうから、一般論として難しい表現を多用する人には 知性化が働いているとは言えないです 異なる動機の人を無視して知性化が働いていると強引に結論してしまうのはそれこそ暴論です それとNo12の繰り返しになりますが「難しい」というのは主観的な言葉ですから ある人には難しい表現もべつの人には難しくないと感じることはあります そんな時、表現をした人には知性化が働いているんでしょうか?見る人によって結論が変わってしまいます つまり単純にフィルターとして欠陥があるのです >「表現の自由」についてはこれは広範囲な自由ということですべてが許されるから暴論を吐いてもよい >という「言論の自由」と変わりありません。ある意味無責任な言い方といえます。 言論の自由における暴論が表現の自由における難解な表現に相当すると考えるのは 単なるこじつけだと思います それに難しい表現を使うことがなぜ無責任なのですか? 暴論を吐くのは確かに無責任でしょうが、難しい表現に責任もなにもないと思うのですが >分かり難いことを率直に問うている人はたくさんいます。しかしそういう人を対象に自己満足 >のために遊んでいる人も、まま、見かけましたから。 自己満足のために遊んでる人を問題にしてるのですか?それとも難しい表現を問題にしてるのですか? 仮に知性化が働いてるなら、動機は「逃げたい」「バカにされることを恐れている」のですから ただちに自己満足のために遊んでいるということと結び付けられないです そしてなにより自己満足のために遊んでいる人はそもそも問題なんでしょうか? というのもそんな人でも一応回答はするわけで、仮にそれが分かり難いとしても 質問者にとって有益なものかもしれませんよ
お礼
知性化についてこだわっていらっしゃいますね。 知性化というのは私も覚えがありますから。 厳しい現実を忘れたくて、いろいろ考えたり、逆に忙しくしたりして考えなくしたりするのは誰でもあると存じます。 今度また別のカテゴリでこの質問だけとりあげてみようと思います。
「お礼」と「補足」ありがたうございました。 >>cyototuさんについてです。 >>ここの回答の方ではないようですが、OKWAVEの利用者なのですか? >>哲学カテゴリによくいらっしゃいますか? 私はこのサイトに参加してまだ4箇月の新参者ですので、詳細はわかりません。#8さんから教はりました。#5さんとも親しいやうです。1件のみ挙げておきます。履歴を公開なさつてゐますので、投稿文はすべて閲覧できます。その分野のトップレベルの人は、余裕なのでせうか、(少なくとも一般の人たちに対しては)難解な表現を使用しようといふ考へすらないのではないでせうか。あるのは、理解してほしい、といふ気持ちだと思ひます。 http://okwave.jp/qa/q3180455.html >>バカボンのパパさんがでましたね笑 >>バカ田大学卒業でしたっけ? 昨日、歴史カテゴリと社会職場カテゴリで、バカボンのパパについて質問して、回答者のみなさんからいろいろ教へてもらひました。TANIHACHIさんまで回答してくださつて、驚きました。おつしやるとほり「バカ田大学」の哲学科です。 >>私もいろいろ質問やロムしていて、どうしてこういうたぐいのところで、 >>専門用語を多用する必要があるのかと思うわけですよ。 やはり何事も状況次第だと思ひます。質問者が専門知識を持つてゐれば、それなりの高度な表現・内容を回答すればよいでせうし、まつたくわからないから質問する人に対しては、かみくだいて説明するのが、人として当然のことだと私は思ひます。このサイトでも多くの人がそれを実践してゐます。 ただ、ひとそれぞれに表現の工夫があつてもよいのかな、とは思ひます。少なくとも私は、あへて難解な文章を書きたがる人のことを頭から否定するつもりはありません。ただ、何度も言ひますが、その場の状況は、わきまへてほしいとは感じてゐます。特に理系のカテゴリではさうです。 >>「ホメオパシー」です。これも同じことで、 >>もともと自然療法の世界だけで通用する言葉でした refinementakiさんの御専門はこのあたりなのですか。 回答番号14は、たくさん入力ミスがあつて、申し訳ございません。私の投稿は誤回答だらけですので、最近はいちいちお詫びしなくても、みなさん判つていただけます。 >>ですからその専門用語を分かりやすい言葉で伝えるのも、 >>専門家の使命だと思うわけです。 すくなくとも、cyototuさんはそれを実践していらつしやいます。 すべてにおいて素人の私はそれとは反対に、知識もないのに自慢だけはしたいので、あちこちで非難を受けてをります。このあたりで、失礼いたします。
お礼
パパさん、なんとまあ哲学科でしたか! 「それでいいのだ!」はパパさんの深い思索に基づいた名言かもしれませんね笑 ホメオパシーは専門というわけではなく、クラウスストホビアについて理解をお伝えしようと思った時、なんとなく思いついたものです。 難解な言葉とか、表現については、私も否定していませんから質問は論法についてにすればよかった。論法も同様に得手不得手がありますから、煙に巻くような言い方はフェアではないと思った、ある議論がありましたから…
回答番号13の続きを書きます。回答番号3へのフォローでもあります。 先日、cyototuさんのブログを読みました。著名な物理学の先生です。 http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-11895362724.html#cbox 漢語を使用することが、理解のさまたげになる、と指摘される場合もありますが、それは不必要に多用した場合です。適切に漢語を使用するなら、むしろ、理解を助けます。漢字は、意味をあらはすからです。 漢字の音読みによつて短く表現し、訓読みによつてその意味をつかむ、日本人の大発明です。カタカナ語では、そんな芸当はできません。 cyototuさんのブログのなかに、英語との対比があります。(解説がありませんので非才の私が少しだけ。) claustrophobia クラウスストホビア といふ単語は、ほぼその道の専門家にしか意味が通じません。ラテン語のclaustriaが「閉鎖物」、ギリシャ語のphobosgaが「恐れ」といふ意味だと知つてゐる人なら、自分で考へて、意味を類推できます。しかし、古典語の教育が衰へた現代西洋では無理な話です。とことが、日本では「閉所恐怖症」と書けば、漢字のおかげで、ほとんどの人が、その意味を悟ることができます。 2番目のotorhinology(オトリノオロジー)も、ギリシャ語のous「耳」、rhis「鼻」を知らなければ意味がとれない西洋人とは違つて、日本人なら「耳鼻科」を読めば子供でもわかります。 3番目のseismograph(セイスモグラフ)は、ギリシャ語seismos「地震」とgrapho「書く」の合成です。もちろん漢字のある日本語なら「地震計」ですぐにわかります。 ぼろが出ないうちに、このあたりでやめておきます。 >>日本の小学生はアメリカの物理の博士課程の人たちより >>格段に知識が優れているのですよ。 >>すごく嬉しい話しでしょう。 cyototuさんの、子供にも世界がわかるやうに教へていらつしやる御姿勢には、ただ敬服するばかりです。
お礼
まったくそのとおりですね。 伝えるべきものが伝わらない以上「自分で考へて、意味を類推」となるだけです。 「オトリノオロジー」で思い出したのが「ホメオパシー」です。これも同じことで、もともと自然療法の世界だけで通用する言葉でしたが、一般化されて流通するようになった言葉です。一般化されるまでにはさまざまな説明があったはずです。 漢字はそれぞれ意味があります。けれどもそのすべてに隠されている意味を追求して使っているわけではないけれど会話はできます。 専門家同士は専門用語を意味を汲んだうえで使います。知識という塊もそうでしょう。ですからその専門用語を分かりやすい言葉で伝えるのも、専門家の使命だと思うわけです。
補足
cyototuさんについてです。 ここの回答の方ではないようですが、OKWAVEの利用者なのですか?哲学カテゴリによくいらっしゃいますか?
バカボンのパパは、大学の哲学科を首席で卒業した天才です。それにもかかはらず、子供にも理解できる言葉ですべてを説明します。そして日本国民から、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルなどをもはるかにしのぐ支持を得てゐます。私は、この人物こそが理想の姿だと考へます。 (1)表現は各人の自由 もちろん、#12さんの御指摘どほり、どんな表現をもちゐるかは、各人の自由です。そして、その自由がどんな影響を及ぼすかについても、表現者の勝手にすぎません。理系のむづかしさうな問題について、NemurinekoNyaさん、trytobeさん、titelist1さん、doc_somdayさんたちは、私のやうなアホでもそれなりに理解できるやうに書いてくださいますが、反対に難解な表現で理解をさまたげる人たちもゐます。善悪といふよりは、ただの自由です。ただ一般論でいへば、高度な知識を持ち、専門家としての地位が高い人は、簡易な表現を心がけてゐるのではないかと感じてゐます。(cyototuさんについて書きたいのですが、長くなりますので、回答番号を改めます。) (2)平易な文章は、翻訳と同じ効果 回答番号9,10の方のまねをしますが、用語の難解・平易の区別は、外国語の文章を原文で読むか、日本語訳で読むか、それに似てゐます。原文で読めればそれに越したことはありません。ただし原文といへども、それで表現者の意図が完璧に理解できるといふわけではありません。さらに、外国語が得意でなければ、翻訳で読むのは当然です。 結局、大切なのは、その場の状況や、話す相手です。専門家同士であればともかく、知識がないから質問した相手に、専門用語を多用するのは、(自由とはいへ)非常識であると、私には見えます。 翻訳といふ点で大きな過ちを犯したのが、ローマカトリックです。中世においては、ラテン語の聖書を使用するのが当然のこととされてゐました。もちろん、一般の人たちは、ラテン語の聖書を読むことができません。聖職者にとつては、民衆の言語に翻訳されないほうが好都合でした。ひとびとが聖書を読んで内容を理解してしまふと、聖職者のおこなひが聖書の教へに反するものであることが暴露されてしまふからです。そのため、翻訳行為を徹底的に弾圧し、火あぶりの刑まで実行されました。ですから私は、質問文にある、 >>難解な言葉を多用する人は、実は「知性化」が働いている。 >>この知性化というのは「逃げたい」「バカにされることを恐れている。 といふ指摘に納得できます。すくなくとも、さういふ歴史がありました。 (3)結論 表現は、各人が自由にすればいい問題です。しかしここは、不特定多数が利用するサイトなのですから、より多くの閲覧者が理解できるやうにとの心がけはあつたほうがいいと思ひます。ほとんどの人にとつては、言ふまでもないことですけれど。
お礼
バカボンのパパさんがでましたね笑 バカ田大学卒業でしたっけ? 「能ある鷹は爪を隠す」というような姿の人ってかっこいいですね。 「善悪といふよりは、ただの自由です。」 個人的には「自由」も過ぎると悪を野放しにすると思います。言論の自由は何を表現してもよいというわけではありません。しばし、それを楯に暴論を吐いているメディアは問題化されています。 原文の例はすごく分かります。追究する人は訳語では物足りないということも。 私もいろいろ質問やロムしていて、どうしてこういうたぐいのところで、専門用語を多用する必要があるのかと思うわけですよ。Q&Aサイトですから、先に質問があります。これを授業と置き換えてみましょう。それでも専門用語だらけで生徒に教えられるでしょうか。むしろその逆で、専門用語を解読するのが教えたるものです。 見ている限り、質問する側って恐縮しているわけですよ。そしてここは学校ではないのですから、できるだけ簡単で質問に沿った回答が欲しい。でも他の回答者が言われているようにノートとしている人もいます。 こういうところで専門家然として話すのなら、それはエセですね。ここでボランティアをしているのだとしても、教えることに責任を感じるのでしたら、その人が伝えようとする、いつもと同じ姿勢で伝えているのではないかと。専門用語は自分でも日頃飽き飽きしているはずですから。こういうところでわざわざ披露して「どういう意味なんでしょうか?」などとかえされて面倒をこうむるようなことはしないはずです。 「民衆の言語に翻訳されないほうが好都合」ということも「知性化」されているのだと思います。「弱み」の隠ぺいですね。
- asisai888
- ベストアンサー率15% (11/73)
哲学に限らずあらゆる学問に専門用語が存在しますから 門外漢からすれば難しい言葉です ですので無知な人から見れば知性化が働いてるように見えるし 教養のある人から見れば知性化は働いていないように見えるはずです 観察する人の知的レベルによって結論が変わるのでは「知性化」で 何事かを判断することはできないと思います しかしここで問題にしてる難しさはそういったことではなく 簡単な言葉で表現できるのにあえて専門的な言葉で表現することで生じる不明瞭さ さながらビジネス用語を多用するビジネスマンの如き不明瞭さを扱いたいのですよね 私が感じる印象はバカにされることを恐れるというよりも通ぶりたい、かっこつけたいって 心理の方が働いてると思います そしてもっとわかりやすく話せと思います ところで「哲学で使われる言語表現はどうあるべき」にある哲学とは あくまで素人が語る哲学の議論やこのサイトのような哲学カテゴリーの質問板での哲学の ことを言っているのですよね? そうだとして回答しますと、表現したい人の好きなように表現すべきですよ なぜなら我々には表現の自由がありますから、人が表現する前から表現に規制を設けるのはおかしいです そして分かり難いなら分かり難いって言えばいいんですよ 簡単な言葉で表現し直してくれないようならどうせ規制を設けても守らないだろうし 理解されるよう表現しようという人なら最初からなるべく平易な言葉を使おうと心がけるだろうし 言語表現がどうあるべきかという問題ではそもそもないと思いますよ
お礼
「無知な人から見れば知性化が働いてるように見える」というのは知性化という働きがあるということを知った上でのことでしょう。 それは「教養のある人から見れば」の「教養」とは関係いなく、一般的に感性の高い人はなんとなく感じるものだと思います。 これは知性化というフィルターごしで見るのか、見ないのかということになります。 「知性化は働いていないように見えるはずです」 これも知性化というフィルターを通してみれば、見えていないこともそう思えばそう見えることになります。asisai888さんは知性化を中心としているようです。 「ビジネス用語を多用するビジネスマンの如き不明瞭さ」ということでもありません。言葉を多用する心理的な動機をひとつの例としただけです。 「表現の自由」についてはこれは広範囲な自由ということですべてが許されるから暴論を吐いてもよいという「言論の自由」と変わりありません。ある意味無責任な言い方といえます。 分かり難いことを率直に問うている人はたくさんいます。しかしそういう人を対象に自己満足のために遊んでいる人も、まま、見かけましたから。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
5です。2点ほど。 >「心理学のカテゴリ」からしたら難解な言葉で述べる人は心理的にそうらしい 一応確認しますが、「知性化」とおっしゃっているところのものですが(intellectualization) 抽象的、観念的、合理的に割りきらないと自我が保たれないというバランスをとるための精神作用なので、 非常に強い恐怖とか、欲動とか、意識できない記憶とか、感覚の分類にかかわる処理とか、 「きわめてフロイト的な抑圧の機構」を前提としています。 そして、重要なことなのですが、そういう精神分析学にせよ、心理学にせよ、哲学にせよ、 「一般の健常な人間像」を想定し、ある意味で創り出し、それを解釈しているものなのです。 つまり、どの健康な児童、青年においても、「心理的な発達」の途上で知性化があるとしますし、 どの健康な成人においても、犯罪や災害などによって被害をうけ精神的衝撃が大きかったとき、 日常を取り戻すには知性化がはたらくとするのです。 ご質問の文脈からすると、まあ、激しい性欲に身悶えする10代の青年が禁欲の反動として神学にひたすらうちこむ、といったあたりが考えられます。 いい年の大人が、ムズカシイ言葉でテツガクして知性化していなければいられない、としたら、それは発達障害か、人格障害か精神障害か何か、ということになってしまいます。 そして、往年の大哲学者が禁欲青年でも障害者でも不思議はないとわたしは思います。が、すくなくとも、 知性化というフロイトの単語で括る以上は、逃げたいとかバカにされたくない、といった動機に帰せる話ではないと考えていただきたいと思います。 > 哲学は万人に開かれている どうなんでしょうね。数学みたいなもので、門は開かれていても、細分化した偏りの集合で、平易にあつかえるものではないように思います。5に述べたことと重複しますが、わたしたちの思考は、対象を切り取ったり削ったりしながら、概念群を関係の中でととのえていますので、哲学にはいつもさまざまな偏りがあります。西欧はキリスト教文化で、ギリシャ・ローマを再取り込みしているということを考えただけでも、わたしには西欧哲学は石切り場の風景のように加工の激しい場所に思えます。 蛇足ながら、科学のほうが万人に開かれてしかるべきなんじゃないかなと思いますが、NHKの海外ものの科学番組の翻訳はひどすぎます。英語やフランス語の6歳児にわかる言葉が、NHKでは固い名詞を乱用するので大人でさえ耳で聞き続けるのが苦痛である話に成っています。画面の博士たちはいつも書き言葉を話しています。念のためにいいますが、あれは知性化とは関係ありません。いや、関係があるとしたら何か去勢的な方向の、、、とか。
お礼
昇華されるということですね。 なんらかしらの才を開花するということは、そういった病理を土壌とするのは、知るところです。 でももちろん一般的な心理的な防衛としてもそういった働きがあるのではないかという意味で、知性化を用いました。 「去勢的な」の意味とその先を知りたいところですが。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
refinmetaki様、こんばんは。 >「当方、英語は不得手ですので訳していただけますか?」 あ、、、私も今度から、それにします。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 >「哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか?」 仮に「english only」では、往生しまっせ
お礼
当方、英語は不得手ですので訳していただけますか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 「逃げたい」「バカにされることを恐れている」〔という内容の〕「知性化」が働いてい ☆ ない場合には その《知性化》がはたらいていると思われる場合について ★ 難解な言葉を多用する人 ☆ と認識するわけですね。 その《難しい言葉を多用する》ということが あなたは分かったのですね? 《難解な言葉》だと理解したのですね? ところで その《難解》というのは 《むつかしいけれども よく考えれば理解できる》というのか。それとも 《けっきょく考えても分からない》というのか? どちらですか? けれども《理解できた》なら これは難解だったということはあっても 難解な言葉を多用する人について《知性化》というラべリングをする必要はないのではないか? ラべリングをするということは 理解できたご自分についてもそうしているのではないのですか? それとも そういう自戒や自虐のためのご質問ですか? どうしても理解できなかったとすれば その場合は それだけのことです。 自省するか それともその難解な文章は わたしには関係ないと見なすかすればそれで済みます。 いちいちここに報告するまでもありません。 ★ 哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか? ☆ それぞれ自分の考え方に即して捉えた認識を よく表わしうるように何とか工夫して表現しているはずです。(例外があるかどうかは ここでは保留しますが)。 だったら 読む者も何とか理解できるようにと 少しは努力してみるものです。 それがいやなら 文章を読まなければよいのです。
お礼
なぜ質問者であるこちらがこれだけの質問をくらわされるのでしょうか… 難解な言葉を多用する人は、実は「知性化」が働いている。この知性化というのは「逃げたい」「バカにされることを恐れている。 というひとつの説をうけた質問です。 質問されていることですが、それについては答えはでません。 私の認識というのであれば、そう思われてもかまいません。ですが、質問について回答いただければさいわいです。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
言葉は平易であるほうが良いと私は考えます。言葉は言いたいこと、意味、想いなど、その内容が通じて初めて成立するものであります。 その意味では、難解であっても通じればよいのです。しかし難解ということは、通じにくいのであって、できれば平易な表現に置き換えられるべきでしょう。 それに、ある物事を理解した人はそれについて、平易な表現で説明できるものです。これは噛み砕くとはまた別の事です。理解しているゆえに、骨子の整った表現や、数多の喩えなどを用いてわかりやすく説明できるものです。 物事の道理を追求するのが哲学の一側面とするならば、以上の理由からも、哲学の言葉はやはり平易に表されるべきだろうと私は思います。専門用語を否定するつもりはありませんが、専門用語だけしか語れないというのでは具合は悪いと思います。 一方で、自分の思索、また途中の思索などをつらつらと文章化する事があります。それは各自のメモやノートのようなもので、公共性を帯びない私的な言葉として表現されたもので、対話には向いてないでしょう。自分でさえまだわかっていない事柄、思索の途上である事柄や、非常に個人的な思想、などを他者に向かって表現する場合は注意した方が良いと思います。全く通じず、場を混迷に陥れるだけの場合があるからです。そのようにして生じた混迷が、このQAにも散見されます。自己表現、自己流の表現というのはあるのでしょうが、他者に通じるところまで磨き上げてからでないと、作っている途中のケーキのように、型をとどめない言葉となって、聞き手を困惑させることでしょう。自分だけが分かる言葉では、表現としては成り立たないのです。
お礼
同じ考えです。 そんなふうに言葉はいろいろなものが込められています。それを難解な言葉や平易な言葉で説明できます。 難解な言葉は平易な言葉よりも飾りがたくさんあるような感じをうけます。 このサイトのこのカテゴリでずらり並んだ質問は単純なことですよね。人生とは、神は存在するのか、宗教とは何か!?的な。そのとき言葉が必要になりますけれど、言葉に限界を感じているように見られる人が核心的な分かりやすさを伝えられないというとそうでもないように思えるのです。 少しばかりの装飾もあってもよいけれども言葉は平易であるほうが良いに越したことはないとは思います。
- 1
- 2
お礼
映画に関してのタイトルのつまらなさには、まったく同感です。昔は心惹かれる粋なタイトルの映画がたくさんありました。 さて、中庸的な視点からの回答、たいへん興味深く読ませていただきました。 平易を勧めるシューペンハウアー、非日常性的であればよいという柳父章。平易すぎると分かりやすい「存在論」が「ある論」「いる論」となる。専門用語的すぎると知性化となるが、意味を込められるというわけですね。 これは「哲学の言葉」について書かれた論文の一部です。 <「分析哲学という哲学のスタイル、そして、その要とも言うべき哲学的言語分析の特徴は、抽象的な「哲学の言葉」が単に名指すだけの哲学的問題を、現実の言語使用に引き戻して考察することにあります。 「記憶」という言葉でくくられる哲学的問題があるとすれば、そうした問題を検討するために考察されるべきなのは、この「記憶」という言葉ではなく、「覚える」、「忘れる」、「思い出す」といった動詞とそのさまざまな変形「覚えている」、「忘れている」、「覚えられない」、「忘れられない」、「思い出せない」、「覚えていた」、「忘れた」、「思い出した」 の方です。 ここで重要なことは二つあります。第一に、これらの語をそれぞれ単独で考察するのではなく、これらの語を含む文にはどのようなものがあり、どのような使われ方をするのかといった具合に、必ず、その語が使われる文脈を念頭に置くことです(哲学の言葉の典型とされる漢字熟語の名詞は、独立性が高いために、つい、ひとり歩きしがちであるだけでなく、文脈における考察ということになじみません」> この筆者は文法の使い方や文脈についても追究しています。 <「哲学の言葉」が単に名指すだけの哲学的問題』といえば、抽象的なことばを提示して回答させる質問(やその回答)も多々見られます。 私も「現実の言語使用に引き戻して考察する」ことに激しく同意します。 筆者はまた 「題を考え始める最初の段階で絶対に避けるべきなのは、こうした言葉です。 実際、うえの議論で、こうした言葉は出てきたでしょうか。「意識」というのがちょっと怪しそうですが、実際に出てきたのは「意識的に」という副詞だけです。典型的な「哲学の言葉」とされる漢字熟語の名詞は、哲学的問題のありかを示すだけの見出し語(「存在」や「認識」や「行為」など)にすぎないか、あるいは、過去の哲学者たちによる複雑な概念操作の歴史をひきずる、それ単独では意味不明の語でしかありません。 哲学的議論というと、こうしたむずかしげな言葉が飛び交う場所だと考えるひとが多いのではないでしょうか。そうした印象は、哲学書から得られたのかもしれませんし、ひょっとすると、実際にそういう場所に居合わせたことから得られたのかもしれません。もしそうであれば、それは不幸なめぐりあわせというものです。> その不幸なめぐりあわせ、というのがこのカテゴリなどで随所にみられますが、あまりにも抽象的なことばや表現をしすぎる本人もはたしてその意味が分かっているのか…と思うこともありますが、そうなるともうロム側にとっても遠い世界の話、という感じになります。