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「堪へ難きを耐へ」
終戦に際しての昭和天皇の放送であまりにも有名な言葉ですが、勝海舟日記の明治の頃の記述にも出てきます。堪へ難きを耐へざれば大事は成らずと諭した、というような内容だったと記憶します。 もしかしたら近代の日本語では慣用句的に使われた言い回しなのではないでしょうか。 「ならぬ堪忍するが堪忍」という古くからの諺もありますから、慣用句であってもおかしくはありません。それが現代では忘れられて、あたかも昭和天皇の独特の言い回しのように思われている気がします。 明治大正生まれの方のご回答、ご教示をお待ち申し上げます。
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No.3の補足で、国立国会図書館のデジタルコレクションにある「こがね丸」です。十五ページ(コマ番号15/90)に引用した部分があります。終戦の詔書がラジオから放送されたのはこの「こがね丸」が世に出た54年後のことでした。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919765
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- SPS700
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1。もしかしたら近代の日本語では慣用句的に使われた言い回しなのではないでしょうか。 はい、そうです。 2。それが現代では忘れられて、あたかも昭和天皇の独特の言い回しのように思われている気がします。 おっしゃる通りです。僕は明治大正生まれではありませんが、昭和一桁なのでまあ近い方ですからシャシャリ出てきました。
お礼
昭和一桁の発言は貴重です。ありがとうございます。 これで一層、上の仮説は確からしいと思われてきました。
- staratras
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明治24年(1891年)に発表された巌谷小波の「こがね丸」(第二回)に以下の似た文章があります。(以下引用) かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪えがたきを漸く堪えて、見在(みすみす)雄を殺せしが。これも偏へに胎の児を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。(引用終わり) この作品は、作者が冒頭で「少年文学」(少年向けの文学)だと述べている物語(児童文学の歴史上では有名な作品)であることを考えると、「忍びがたきを忍び、堪えがたきを堪え」は明治時代にはこどもでも理解できる一般的な表現だと考えられていたことになるのではないかと考えます。 「凡例」には「一 されば文章に修飾を勉めず、趣向に新奇を索めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦しやすく解しやすからんか。」とあります。 今の私たちには読みづらい文語体の文章について、当時は少年でも「言文一致」より読みやすいだろうと作者が考えていたことは重要です。「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」を何か特別に難しい表現のように考えてしまうのは、私たちが文語体から縁遠くなってしまったことの裏返しに過ぎないのかもしれません。 なおこの物語は「こがね丸」という犬が父犬の仇討ちをするもので、引用した部分は「こがね丸」の父である雄犬が虎に殺されるのを、その妻の犬(「こがね丸」の母犬)が目撃しながらどうにもできなかった(みすみす雄を殺せし)場面のあとで登場する母犬の言葉です。
お礼
これはまたまた新しい知見をご紹介くださり、ありがとうございます。 「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」を何か特別に難しい表現のように考えてしまうのは、私たちが文語体から縁遠くなってしまったことの裏返しに過ぎないのかもしれません。 おっしゃる通りですね。 これで、世間一般でも使われていた表現だったことが類推されました。特別な言い回しではないのかもしれません。 ありがとうございました!
- aeromakki
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もう一つ見つけました。北宋時代の「景徳伝灯録」だそうです。 https://gwanjo-ji.com/column/989 これ以上は図書館でないと確認できなさそうですね
お礼
このエピソードは、雪舟の「慧可断臂の図」に描かれるなど、人口に膾炙しましたね。 その時の達磨禅師の発言の一部であるなら、1,500年前の故事ですから、広く人々に伝わった可能性はあります。おそらく、あちこちで時々使われていたことでしょう。 残る問題は、この後に「忍び難きを忍び」を加えて全体として対句表現にしたのは昭和天皇(または側近やお付きの漢学者など)の独創か否かだけですね。 お陰で一歩前進できました。感謝いたします。
- aeromakki
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山本玄峰(1866年 - 1961年)さんという禅僧の方が、鈴木貫太郎氏に書いた手紙にあった文言だったようです。 http://www.wsk.or.jp/report/takada/04.html また、この元ネタはさらに古く、薩摩藩家老、平田靱負(1704年 - 1755年)だと言います。 有名な、宝暦治水事件で責任を取って自刃した方ですね。 https://www.tagizou.com/main/horeki/ 明治に入るまでは、幕府側の勝は薩摩藩史に詳しくなかったと思うのですが、その頃、薩摩藩出身者との付き合いで知ったのではないか思います。 実は、私も調べてみるまで全然知らなかったんですが、さすがに平田靱負の名前くらいは知っておりました。
お礼
平田靱負(1704年 - 1755年) 勝 海舟(1823年‐1899年) 山本玄峰(1866年 - 1961年) という時系列で伝わった言い回しなのか、世間一般でも使われていたのを各人が使った言い回しなのか、不明なままですね。 特に、最初の平田靱負が言ったという根拠が、お示しのデータにはひとこと触れられていませんので、因果関係は依然として謎です。
お礼
「忍び難き處(ところ)を忍び、堪(こら)え難きを漸(やうや)く堪えて」と確かにありますね。 こうなると、これが直接の出典のようにも見えてきます。すごい調査力ですね。脱帽です。