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ものが数えられるものと判定される基準について
不定冠詞をつけるのは名詞が数えられるものであることを示すためだと言われます。では、名詞が数えられるものであるかどうかはどのように判定されるのでしょうか。その答えとして、その名詞が表す<もの-同種のもの>が複数存在するという事実によって判定できるとネイティブは答えます。たしかにそうした経験的事実は、その<もの>が数えられるものであることを示してくれます。でも、<同種のもの>が複数存在しているとする判断はどのように行われるのでしょうか。今回の質問では、<同種>であるかどうかの判定は脇にどけて、<複数存在する>ことの判断基準についてご意見を伺いたいと思います。私の考えを提示しますので、それにコメントをお願いします。 <複数存在する>ことは個別のものが別の所にも存在することを意味します。ということは、まず、そのものが個別のものであることがどのように判断されるのかを考察しなければなりません。さて、そのものが個別のものであると認められるためには、そのものが単独で一つのものとして、すなわち一まとまりものとしてとらえられなければならないはずです。 ところで、人間があるものを一まとまりものとしてとらえることがどのように始まったかということですが、おそらく、目の前のぼやっとした(連続体としての)空間の中で、何かに興味を引かれそのものに注目することによって、連続体としての空間に切れ目を入れ、一つのまとまりを見て取ることから始まったのではないかと思います。 少し難しい話になりますが、人間が何かを客観的に認識する時、空間(及び時間)という形式を介して行います(この考え方が正しいかどうかを問題にすることに意味がありません。というのは、この考え方を認めなければ冠詞を含む限定詞の体系を否定することになってしまい、ひいては、英文法全体について論じることができなくなるからです。英語の文法は近代科学と共に発達してきたというのが私の持論です)。 一般に、人間が何かをひとまとまりのものと認識するとき、一番やりやすいのは空間的把握です。というのは、認識の際に使用される感覚器官のうちもっともよく使用されるのが眼だからです。例えば、木や鳥や本は空間的にひとまとまりのものと容易に認められます。→a tree, a bird, a book --- 二番目にやりやすいのは時間的把握です。その時に使用される感覚器官は耳です。例えば、音や声は時間的にひとまとまりのものと認められます。ここで言うひとまとまりとは、聞こえ始めて聞こえ終わりまでの時間的な持続のことです。→a sound, a voice, a yell, a call, --- こうしたことは、少し詳しめの冠詞解説書に書かれていることもあります。ところが、そうした解説書は、何かが認識される時、空間と時間の両方の形式による認識が可能であることに触れていません。面倒だからというより、空間と時間という認識形式がどのような意味を持つのかよく考えていないのではないかと私には思えます。 例えば、I heard a sound [a voice] coming from nowhere. において、a sound [a voice] は時間的まとまりだけではなく、音の一定の広がり(聞こえる範囲)を空間的まとまりと見なすことができます。また、可聴範囲もメタファー的に空間的まとまりと見なすことができます。おそらく、聞こえ始めて聞こえ終わりまでの期間を表すとする方を優先するのが普通の感覚だと思います。 ところが、a walkの場合、a 5 minutes' walkとかa 2 miles' walkという言い方があるくらいだから 時間的まとまりと空間的まとまりとどちらが優勢か判定しにくいと思われます。判定は文脈だけでなく、おそらく聞き手の考え方やその時の気分にもゆだねられるのではないかと思います。 空間と時間のどちらの形式がよいのか判定しづらいものもあります。例えば、a smell [a scent] の場合、匂いが立ちこめ始めて消えてしまうまでの期間と、匂いが立ちこめる範囲と、どちらを想定することも我々にはなじみのないことです。原理的にはどちらの考え方も成り立つはずです。 もっと判定しづらいもの(空間的メタファーをうまく用いないと説明できないようなもの)もありますが、今回は質問の対象外とします。 空間と時間の両方の形式による認識が可能であるのに、空間把握による場合が主であるような名詞のケース(例えばbook)を取り上げてみます。空間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる空間(space)の中で有限の空間を占めることによります。spaceの中でa bookはごく一部分の空間を占めます。 一方、時間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる時間(time)の中で有限の時間を占めることによります。この場合、有限の時間は期間と言いかえる方が適切だろうと思います。a sound やa warは一部分の時間を占めます。 では、a bookは時間的にどのように時間を占めているのでしょうか。a warの場合、始まりと終わりがあって、その間そのものが持続(存続する)ということは、一回の戦争が行われることを示します。だったら、例えば a personの場合、通常は空間的な把握(頭のてっぺんから足の先まで)によってまとまりがみてとれるけど、時間的な把握(誕生から死まで)によってもまとまりがみてとれるのではないかと思います。それどころか、生き物と製作物(製造物)すべてにこのことがあてはまるように思えます。 a bookの場合、執筆・編集・印刷・製本の過程を経て出版されます。その後、販売され、人々に読まれます。いつか読まれなくなって廃棄されます。これがa bookのlife historyです。一つの時間的なまとまりです。この考えでいいのでしょうか。 生き物と製作物(製造物)以外の普通名詞の場合はどうなのでしょうか。何度も繰り返される現象あるいは出来事の場合は、そのものの一生(life history)を想定しづらいように思います。その場合は、反復可能性のある現象、出来事あるいは行為が一回だけ行われたと見なすしかないように思われます。war, conflict, walk, call, meeting, action, discussion ---など。 ただし、空間と時間のどちらかを測定するための単位として使われるものの場合は、その特性上(もともとどちらかの測定のために一意的に作られたもので)、どちらかの制約(まとまり)を持ちます。例えば、a meterは空間的まとまりを持ち、a weekは時間的まとまりを持ちます。 では、物質名詞はどうなのでしょうか。物質は空間的には一定のまとまりを持つものと見なされません。一定のまとまりを持つと普通名詞と見なされます。例えばstone →a stoneのように。物質は時間的には、この世が終わるまで(言語共同体が終わるまで-すなわち人類が滅亡するまで)存在し続けるものと想定できます。よって、それまでは終わりのないものとされます。ということは数えられないということです。 同じことは抽象名詞にも言えます。抽象観念は人の心の中にあって漠然としてとらえどころのないものです。時間的には言語共同体が終わるまで人の心の中で生き続けます。数えることはできません。 ただし、個別のケースが想定される場合があります。例えば、a love for musicは個人または集団が心の中に抱くものですが、無冠詞のloveと違って具体的なものなので、その個人または集団が消滅すると同時に自らも消滅します。その後、別の個人または集団が、another kind of love for musicを抱くようになります。 固有名の場合は少し複雑です。普通名詞用法のa John Smithの場合は、a personの場合と全く同じです。身体の空間的伸び広がり(身長等の測定が可能)と生まれてから(名づけられてから)死ぬまでの時間的伸び広がり(誕生から死まで)を持ちます。 固有名詞用法の場合、外延-実物としてのJohn Smith (This is John Smith.)であれば空間的限定も見て取れる(身長等の測定が可能)し、時間的限定(誕生から死まで)も記録に残ります。ただし、外延-実物は一つしかないものなので数えることができません。 では、内包用法におけるJohn Smith (My uncle is John Smith.)であればどうなるのでしょうか。この場合のJohn Smithにはもちろん空間的限定はありません。一般に空間的限定がなくて時間的限定だけがあるといったことはありえませんから、この時点でaがつかないことがわかります。 では、時間的限定が存在しないことはどういうふうに確認できるのでしょうか。 外延-実物としてのJohn Smithはいつか死んでしまいますが、内包としてのJohn Smithは消滅することはありません。歴史に名を刻んで参照されたり言及されたりすることがありえます。戸籍簿から抹消されたとしても、人の記憶に残ります。又、伝説や伝統の中に残ることもあります。最終的には言語共同体の消滅と共になくなることになると思います。よって、aはつきません。 いかがでしょうか。
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「質問者からの補足」ありがとうございました。 @幽霊に本当に空間的限定はないのでしょうかね。例えば、座敷わらしやポルターガイストは姿は見えないけど、人間には見えないけど何らかの特有の(一定の)影響を及ぼすので、私には数えられるものではないかと思います。ある屋敷に座敷わらしが二人以上いるかもしませんし。もちろん、そういえるのは柳田国男の集めた民間伝承の世界や英語「ポルターガイスト」の中での話ですが。 ⇒面白いですね。ただ、座敷わらしはオバケ、幽霊は足のない「ヒュードロドロ」だから、ちょっと違うかも…。ま、お遊びで、どちらもありとしておきましょうか。それとも、「余興・余談として、a bookが時間的まとまりを持つという話」などとともに授業中の息抜きの話題にでもどうぞ。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)などと言いながら、ワイワイ楽しく…。 @<もの>の中には、知覚あるいは認識レベルにおける把握が困難であるにもかかわらず一定の空間的まとまりを持つように感じられるものがあります。空間と言っても、物理空間(3次元空間)ではなく想像力に支えられる空間です。人間は想像力を働かせることによって、様々な非空間的な存在物を空間的なものとして把握することができます。/例えば、attitudeについて言うと、普通の意味での空間・時間を持つものとはとらえられません。ところが、attitudeという語が文中で使用される条件を考えると、その条件は、誰かが何か(あるいは他の誰か)に対する態度としてしか使え(ない?)ことだと言うことになります。ということは、あるattitudeを持つ誰かが対象物に対して、表明という形で働きかけを行うわけですが、(…)その働きかけは対象物に応じて内容的に一定の(特有の)範囲を持つものであるはずです。よってその一定の範囲が空間的まとまりと見て取れると思います。 ⇒そうですね、仰せのとおりだと思います。共感です。その「内容的に一定の範囲を持つ働きかけ」の場は、たとえて言えば、「言語場における比喩的空間、またの名、心理的空間」とも呼べるかも知れませんね。念のために付言しておきますと、これは「可算性」です。 @ある行為や出来事や事実に対する態度が表明されるためには、あらかじめそうしたものに対する自分なりの考えや意見を持っていなければなりません。また、経験した出来事や事実に対する反応としてその都度生まれる心理状況があります。また、態度が表明されるためには表明のための動機と表明方法を持っていなければなりません。そうしたものすべてが態度表明者の心の中で連関しあっているはずです。この連関全体を一つのまとまりと見ることができると思います。連関を空間のメタファーにおいてとらえるわけです。 ⇒なるほど、おっしゃることはよく分かります。上述の続きの用語で申しあげれば、連関をメタフォリックな空間でとらえる方式を、「言語場の比喩的空間・心理的空間における方程式」とでも呼びましょうか。「出来事」×「反応」=「連関空間相」という、「(関数ならぬ)“関相”方程式」と言えるかも知れませんね。大事なことは、これが可算空間相である、ということです。 @時間的まとまりの方は空間的まとまりよりとらえやすいと思います。ある態度を表明し始めて表明し終わるまでを一つのまとまりととらえることができると思います。attitudeも所詮は人間が作り出すものなので、その都度のlife cycleを持つと言えそうです。このような性質を持ったモノには他にopinion, plan, standpoint, desireなどいろいろあります。では、bookやdogやmountainとどこが異なるかということですが、opinion, plan, standpoint, desireなどはそうしたものを表明する主体の存在が必要です。また、表明される対象物も必要です。つまり、bookやdogやmountainの場合と違って、表明主体と表明対象との関係性が問題になるということです。この関係性を空間のメタファーによって空間と見なすことが可能なはずです。表明主体と表明対象との関係は(恒常的に、またはその都度)一定の関係であると思われます。この一定の関係を一つのまとまりと見なすことができると思います。いかがでしょうか。 ⇒頭の固い私には想像だにしなかったことですが、言われてみれば、仰せのとおりだと思います。実は、お書きの文章の内容を理解するのが関の山で、反論はおろか、何ら気の利いた意見も申しあげることができません。せめて、またぞろ、上からの続きの用語で申しあげれば、表明主体と対象との関係をメタフォリックな空間でとらえる方式を、「言語場の比喩的空間・心理的空間における高次方程式」と呼びましょうか。{「表明主体」×「表明対象」}×「完結時間」=「総関係相」という、「3次元“関相”方程式」です。しつこく念を押させていただきますが、これは「可算関係相」であるということが大事なところでありまする。 @なお、関係性に基づく空間把握はニュートンによっては行われていません。それを行ったのは同時代のライプニッツとその現代版であるアインシュタインと、哲学者のハイデッガーです。ただし、私の考えでは、冠詞はニュートン物理学の3次元空間において考察されるべきだと思います。(…)関係性に基づく空間把握は3次元空間の考え方にメタファーの考え方を参加させることによるしかないと考えます。 ⇒ニュートン物理学の3次元空間、つまりユークリッド空間ですね、了解です。現代の言語体系における術語は4次元空間にも対応できると思います、おっしゃるような段取りで十分適応可能だと思います。以上、お粗末ながらご返信まで。
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- lived_in_room13
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ご存じの通り、ある一定の不変のルールのもとで英文法ができているわけではないので、ご質問文に書かれた例ではそうであるけれど、例外はいくつもあるので、結局は冠詞のルールも様々な慣習の間で移ろっているのではないでしょうか? まあ、それを分かったうえで、質問されているのでしょうけど、、、。 例えばmoneyは数えられないけど、coinは数えられる。 この理由を質問すれば、おそらく脊髄反射のように、瞬時に大抵の人が回答できると思います。(貨幣という概念が数えられないからと、、、でも個別の札だの硬貨は数えられるよと。) では、英語全般でそういうルールかというと、そうでもないような気がします。 例えば、バクテリア。 バクテリアは生物分類上の「概念」で個別に大腸菌等が一匹、二匹といるように思いますが、 バクテリア:Bacterium(単数)Bacteria(複数) 大腸菌:E. coli(不可算) Moneyと一緒だったら、バクテリアが不可算で、大腸菌が可算ですよね。 ご呈示の理論では、こういった事例を説明できないように思います。 まあ、一定の不変のルールなどないのでしょうがないのですが、、、。 また、「そんな分かり切った事を言うな!」とお思いなんでしょうけど、一応質問は、 >>今回の質問では、<同種>であるかどうかの判定は脇にどけて、<複数存在する>ことの判断基準についてご意見を伺いたいと思います。私の考えを提示しますので、それにコメントをお願いします。 でしたので、お説では冠詞の一面はとらえていても、全体はとらえていないというのが私の意見です。
補足
ご意見ありがとうございました。 <ご存じの通り、ある一定の不変のルールのもとで英文法ができているわけではないので、ご質問文に書かれた例ではそうであるけれど、例外はいくつもあるので、結局は冠詞のルールも様々な慣習の間で移ろっているのではないでしょうか? まあ、それを分かったうえで、質問されているのでしょうけど、、、。> -もちろん、わかった上でのことです。 <例えば、バクテリア。 バクテリアは生物分類上の「概念」で個別に大腸菌等が一匹、二匹といるように思いますが、 バクテリア:Bacterium(単数)Bacteria(複数) 大腸菌:E. coli(不可算) Moneyと一緒だったら、バクテリアが不可算で、大腸菌が可算ですよね。ご呈示の理論では、こういった事例を説明できないように思います。> -今回の私の議論はそのようなことを議論するためにものではありません。よく読めばそのことがおわかり頂けるはずです。見当違いのご意見は遠慮願います。そもそも、ここは私の考えについて意見を聞く場です。どこがおかしいのかをきっちり指摘して頂けるならともかく、議論の本筋と無関係なことに応対しなくてはならないのですか? ーともあれ、せっかく回答して頂いたわけだから、一応の応対はします。ただし、何度も言いますが。今回の議論とは関係ありません。 大腸菌が不可算なことはそれほど奇妙なことではありません。例えば、flourは通常は数えません。人間の認知行為において一粒一粒の粉に注目することはないからです。同じことが大腸菌にも言えます。それに、E. coliは学名だからそもそも不可算なのは当たり前ではありませんか。 <Moneyと一緒だったら>ということですが、どのような根拠があってMoneyとバクテリアを同じように一括できるのか理解できません。 Bacteriaは可算名詞として総称的に使われたものです。Bacteria are very small organismss. というふうに使います。この文でのBacteriaは細菌族一般を表すカテゴリーです。概念的に使われています。 今回の私の議論と全く関係ありません。 <お説では冠詞の一面はとらえていても、全体はとらえていないというのが私の意見です> -冠詞の全体をとらえることは何百ページを費やしても、いや、それどことか神様にもできないのではありませんか。質問投稿では一部のことしか話題にできないのは当たり前ではありませんか。
- Nakay702
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以下のとおり、お説の要約と応答という形でお答えします。 @数えられるものを表す名詞には不定冠詞がつき得る。数えられるとは、その名詞の表すものが複数存在するという事実によって判定される。複数存在するとは、個別のものが別の所にも存在することを意味する。そのものが個別のものであると認められるためには、それが単独で一つのもの、一まとまりのものとしてとらえられなければならない。ところで、一まとまりものとしてとらえることはどのように始まったか。おそらく、目の前のぼやっとした連続体としての空間の中で、何かに注目することによって連続体としての空間に切れ目を入れ、一つのまとまりを見てとることから始まったのではないかと思われる。 ⇒以上は冒頭3段落の要約です。いつものことながら独創的な着眼と洞察に敬服申しあげます。ぼやっとした空間の中で、何かに注目することによって、連続体としての空間に切れ目を入れ、一つのまとまりを見てとることは、言語的把握(=分節)の基本とも言えることで、「ものが数えられるものと判定される基準について」という問題への適切な糸口として納得しました。 @何かをひとまとまりのものと認識するとき、一番やりやすいのは空間的把握。というのも、認識の際に使用される感覚器官のうち最もよく使用されるのが眼だからである。例えば、木や鳥や本:a tree, a bird, a book…。二番目にやりやすいのは、主として聴覚による時間的把握。例えば、a sound, a voice, a yell, a call…などは、音や声の聞こえ始めから聞こえ終りまでの持続が時間的にひとまとまりのものとして認められる。 ⇒確かに、一つのまとまりを見てとるためには、いわゆる「切り取り」を行いますが、その仕方・方法には「対象の諸相に応じて諸形態がある」わけですね。つまり、「切り取り」行為そのものは全体に通底するが、その切り取りの下位概念としての手立てには、それぞれの特性に応じた形態がある、ということになりますね。 @I heard a sound coming from nowhere.において、a soundは時間的まとまりだけでなく、音の一定の広がり(聞こえる範囲)の空間的まとまりと見なすことができる。可聴範囲もメタファー的に空間的まとまりと見なすことができるが、聞こえ始めから終りまでの期間を表す方を優先するのが普通の感覚だろう。ところが、a walkの場合などは、a 5 minutes' walkとかa 2 miles' walkという言い方があるように、時間的まとまりと空間的まとまりのどちらが優勢か判定しにくいと思われる。 ⇒了解です。ダメ押し風ですが、a mysterious soundやan active walk with my Pochiのsoundやwalkは、確かに、時間的まとまりにも空間的まとまりにも分けることが可能でしょう。ところで、それにもかかわらず、そのどちらにも関心はなく、むしろ当該事象の経験(発生や継続)にのみ注目する、ということもあり得ますね。そのような場合は、時間や空間による区切りよりは、むしろ「事柄の生起や経験」(の回数)という数的区分が優先する、という状況が出てくるかも知れませんね。 @空間と時間のどちらの形式がよいのか判定しづらいものもある。例えば、a smellの場合、匂いが立ちこめ始めてから消えるまでの期間と、匂いが立ちこめる範囲とのどちらを想定することも我々にはなじみがないが、原理的にはどちらの考え方も成り立つ。空間と時間の両方の形式による認識が可能であるが、空間把握による場合が主であるようなケース、すなわち空間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、無限に広がる空間の中でそれが有限の空間を占めることによる。例えばa bookは、空間の中でごく一部分の空間を占める。一方、時間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、それが無限に続く時間の中で有限の期間を占めることによる。a warの場合、始まりと終りがあって、その間の継続をもって一回の戦争が行われたことを示す。それなら、例えばa personの場合、通常は空間的な把握によってまとまりが見てとれるが、時間的な把握によってもまとまりが見てとれるのではないか(誕生から死まで)。生き物と製作物すべてにこのことが当てはまるだろう。 a bookの場合、執筆・編集・印刷・製本の過程を経て出版され、販売され、読まれる。いつか読まれなくなって廃棄される。これがa bookのlife historyで、一つの時間的なまとまりである。生き物や製作物以外の普通名詞の場合はどうか。何度も繰り返される現象あるいは出来事war, conflict, walk, call, meeting, action, discussion…などの場合は、そのものの一生を想定しづらい。その場合の +aは、反復可能性のある現象・出来事・行為が一回だけ行われたと見なすしかなさそうに思われる。ただし、空間や時間を測定するための単位として使われるものの場合は、その特性上どちらかの測定のために一意的に作られたもので、それに対応する制約(まとまり)を持つ。例えば、a meterは空間的まとまりを、a weekは時間的まとまりを持つように。 ⇒納得です。以下は反論でなく、つけ足しです。例えばa bookは、典型的に空間把握が主であるような名詞のケースですね。しかし、時にはThe Bible is a book of long life; perhaps it is the longest best seller of all kinds of books.のbook (Bible) のように時間的存続が対象になることもあるでしょう。この場合は、「時間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる時間の中で有限の時間を占めることによる」という場合の、「有限の時間」が異常に長いケースと言えそうですね。また、「a sound やa warは、一定の場における出来事の発生や継続という準空間的・時間的な区分」が最もよく妥当する、という局面もなくはなさそうですね。ただしこれとて、「一部分の時間を占める」という時間的な区切りに対する反論というほどのものではありません。 @物質名詞の場合はどうか。物質は空間的には一定のまとまりを持つものと見なされない。ということは数えられないということである。(一定のまとまりを持つと、例えばstone →a stoneのように普通名詞と見なされる。)物質は時間的には、この世または言語共同体が終るまで、あるいは人類が滅亡するまで存在し続けるものと想定できる。よって、それまでは終りのないものとされる。 同じことは抽象名詞にも言える。抽象観念は人の心の中にあって、漠然としてとらえどころがない。時間的には言語共同体が終るまで人の心の中で生き続ける。数えることはできない。ただし、個別のケースが想定される場合がある。例えば、a love for musicは個人または集団が心の中に抱くものですが、無冠詞のloveと違って具体的なものなので、その個人または集団が消滅すると同時に自らも消滅する。 ⇒なるほど、言われてみれば、そういうことですね。物質名詞や抽象名詞にaがつかない理由をはじめて意識しました。ただ、物質名詞は「変性」することがありますので、その意味では「物質名詞の生涯」は形を変える際に終るという「準時間的な区分」の把握をすることができる場合もある(ただしこのことと、aがつく・つかないとの間に有意な関わりはない?)かも知れませんね。 @固有名の場合は少し複雑である。普通名詞用法のa John Smithは、a personの場合と全く同じで、身体の空間的広がり(身長等)と、生まれて(名づけられて)から死ぬまでの時間的広がり(誕生から死まで)を持つ。外延-実物としてのJohn Smith (This is John Smith.)であれば、空間的限定(身長等の測定)も時間的限定(誕生と死)も可能ではあるが、外延-実物は一つしかないものなので数えることはできない。では、内包用法におけるJohn Smith (My uncle is John Smith.)であればどうか。この場合のJohn Smithにはもちろん空間的限定はない。一般に空間的限定がなくて時間的限定だけがあるということはあり得ないので、この時点でaがつかないことが分かる。 では、時間的限定が存在しないことはどういう風に確認できるか。外延-実物としてのJohn Smithはいつか死んでしまうが、内包としてのJohn Smithが消滅することはない。歴史に名を刻んだり、伝説や人の記憶に残ったりすることもあろう。該当の言語共同体の存続する限り、史上唯一の個として存続する。よって、aがつくことはない。 ⇒固有名にaがつかない理由づけもはじめて認識しました。私はこれまで、ただ単純に「個人としてのJohn Smithは唯一的存在なので、数える必要も限定する必要も起こらない。それゆえ常に無冠詞で用いられる」と考えていました。(空間的限定がなくて時間的限定だけがあるものは、幽霊ですかね、ハハハ)。それはともかく、私はこれまで固有名とaの関係をこれほど深く考えたことは一度もありませんでした。 以上、お説の理解と字数との関係から勝手に要約し、それに応答する形で所感を述べました。これでまた、認識の材料が増えたような気がします。
お礼
ありがとうございます
補足
回答ありがとうございました。 <⇒了解です。ダメ押し風ですが、a mysterious soundやan active walk with my Pochiのsoundやwalkは、確かに、時間的まとまりにも空間的まとまりにも分けることが可能でしょう。ところで、それにもかかわらず、そのどちらにも関心はなく、むしろ当該事象の経験(発生や継続)にのみ注目する、ということもあり得ますね。そのような場合は、時間や空間による区切りよりは、むしろ「事柄の生起や経験」(の回数)という数的区分が優先する、という状況が出てくるかも知れませんね。> ---私としては、a soundとかa smellとかは直接の知覚対象としてとらえられて時間的にひとまとまりを持つものとしたかったわけです。a walkの場合は、言語主体による経験から一回の出来事ととらえるべきでしょうね。 ただ、a mysterious soundもan active walk with my Pochiも属性を表す形容詞がついているので、問題が少し複雑になって来ると思います。この件に関しては、次回の質問投稿としてスレッドを立ち上げさせて頂きます。 <しかし、時にはThe Bible is a book of long life; perhaps it is the longest best seller of all kinds of books.のbook (Bible) のように時間的存続が対象になることもあるでしょう。この場合は、「時間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる時間の中で有限の時間を占めることによる」という場合の、「有限の時間」が異常に長いケースと言えそうですね> -The Bible is a book of long life; perhaps it is the longest best seller of all kinds of books.のbook (Bible) はぴったりの例文ですねa bookのlife cycleではなく、life cycleが持つ時間的持続に注目されたわけですね。納得です。ただし、いったん絶版になった後、また復刻版として再版されるものもあるので時間的持続には注目しなくてもいいのかなと思ったわけです。 例えばa bookでなくてa warの場合は、途中で休戦状態があっても一回の出来事としてとらえられるみたいですし。もっとも、大きく見れば、多少の休止や絶版状態も含めて持続と言えるのかも知れません。 実は、a bookが時間的まとまりを持つという話を生徒達に教えることはないと思いますが。余興・余談としてならおもしろいかなと思います。その機会があればThe Bible is ---の例文を使わせて頂きます。 <「有限の時間」が異常に長いケース>ということですが、X was a book of very short life: it was a bad seller and shortly after its publication it went out of print. と言われるような泡沫のような本もあると思います。 <「a sound やa warは、一定の場における出来事の発生や継続という準空間的・時間的な区分」が最もよく妥当する、という局面もなくはなさそうですね。> -私としては、a soundは知覚器官で時間的まとまりが認識できるものととらえていますが、a warは言語主体単独での知覚レベルを超えたものと見ています。想像力の働きによって、自分以外の者が見たものでも、あるいは全体像をとらえられないものであっても、時間的なまとまりだととらえられるのだと思います。 <「物質名詞の生涯」は形を変える際に終るという「準時間的な区分」の把握をすることができる場合もある(ただしこのことと、aがつく・つかないとの間に有意な関わりはない?)かも知れませんね。> -その通りだと思います。例えば原材料から製品への変化などについておっしゃられているのだと思いますが、細かくなるので今回はその説明は割愛しました。ご指摘ありがとうございます。 <空間的限定がなくて時間的限定だけがあるものは、幽霊ですかね、ハハハ> -幽霊に本当に空間的限定はないのでしょうかね。例えば、座敷わらしやポルターガイストは姿は見えないけど、人間には見えないけど何らかの特有の(一定の)影響を及ぼすので、私には数えられるものではないかと思います。ある屋敷に座敷わらしが二人以上いるかもしませんし。もちろん、そういえるのは柳田国男の集めた民間伝承の世界や英語「ポルターガイスト」の中での話ですが。 もう一つお聞きしたいことがあります。 <もの>の中には、知覚あるいは認識レベルにおける把握が困難であるにもかかわらず一定の空間的まとまりを持つように感じられるものがあります。空間と言っても、物理空間(3次元空間)ではなく想像力に支えられる空間です。人間は想像力を働かせることによって、様々な非空間的な存在物を空間的なものとして把握することができます。この空間はもちろん言語共同体において共通了解される空間です。 例えば、attitudeについて言うと、普通の意味での空間・時間を持つものとはとらえられません。ところが、attitudeという語が文中で使用される条件を考えると、その条件は、誰かが何か(あるいは他の誰か)に対する態度としてしか使えことだと言うことになります。 ということは、あるattitudeを持つ誰かが対象物に対して、表明という形で働きかけを行うわけですが、(意見や姿勢を表明することも態度の表明だと思います) その働きかけは対象物に応じて内容的に一定の(特有の)範囲を持つものであるはずです。よってその一定の範囲が空間的まとまりと見て取れると思います。 もう一つの考え方があります。 ある行為や出来事や事実に対する態度が表明されるためには、あらかじめそうしたものに対する自分なりの考えや意見を持っていなければなりません。また、経験した出来事や事実に対する反応としてその都度生まれる心理状況があります。また、態度が表明されるためには表明のための動機と表明方法を持っていなければなりません。そうしたものすべてが態度表明者の心の中で連関しあっているはずです。この連関全体を一つのまとまりと見ることができると思います。連関を空間のメタファーにおいてとらえるわけです。この考えでどうでしょうか。 時間的まとまりの方は空間的まとまりよりとらえやすいと思います。ある態度を表明し始めて表明し終わるまでを一つのまとまりととらえることができると思います。attitudeも所詮は人間が作り出すものなので、その都度のlife cycleを持つと言えそうです。 このような性質を持ったモノには他にopinion, plan, standpoint, desireなどいろいろあります。では、bookやdogやmountainとどこが異なるかということですが、opinion, plan, standpoint, desireなどはそうしたものを表明する主体の存在が必要です。また、表明される対象物も必要です。つまり、bookやdogやmountainの場合と違って、表明主体と表明対象との関係性が問題になるということです。この関係性を空間のメタファーによって空間と見なすことが可能なはずです。表明主体と表明対象との関係は(恒常的に、またはその都度)一定の関係であると思われます。この一定の関係を一つのまとまりと見なすことができると思います。いかがでしょうか。 なお、関係性に基づく空間把握はニュートンによっては行われていません。それを行ったのは同時代のライプニッツとその現代版であるアインシュタインと、哲学者のハイデッガーです。ただし、私の考えでは、冠詞はニュートン物理学の3次元空間において考察されるべきだと思います。英文法の体系がそうしたものでできているからです。よって、関係性に基づく空間把握は3次元空間の考え方にメタファーの考え方を参加させることによるしかないと考えます。 いかがでしょうか。
お礼
再度の回答ありがとうございました。 <座敷わらしはオバケ、幽霊は足のない「ヒュードロドロ」だから、ちょっと違うかも…。ま、お遊びで、どちらもありとしておきましょうか。それとも、「余興・余談として、a bookが時間的まとまりを持つという話」などとともに授業中の息抜きの話題にでもどうぞ> -昔、実際にやってみたことがあります。よく覚えていませんが、なぜ幽霊が a ghostというふうに数えられるのか質問されたことがきっかけだったのかも知れません。もちろん座がわくような話にしようとしました。時間と空間の限定に関しては、たしか皿屋敷に出没する(空間的限定)亡霊が皿を数え始め、やがて数え終わる(時間的限定)といなくなる、というふうな話にしたと思うのですがはっきりは覚えていません。結果ですが、全然受けませんでした。その後、二度とやっていません。 今回も丁寧な回答ありがとうございました。次回は<不可算名詞に形容詞がついて可算名詞化する現象について>の質問です。よろしければ、またお願いします。