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文構造における存在基盤について
長年にわたって英語指導(読解・文法・作文)に携わってきた者です。ところが、学校文法はいわゆる伝統文法と呼ばれるもので、その正当性の根拠や論理的整合性において矛盾や曖昧さを様々に含むものです。それでも、そうした枠組みに依拠した指導がこれまで(恐らく今後も)続けられてきたのは、主に指導の簡便さによるものだと思われます。実践的観点から言うと、指導において論理的整合性はそれほど要求されません。生徒が実際的な知識をおおざっぱに身につければそれでよいと考えられてきたと思うのですが、高校段階の英語指導という観点から見れば、私もそれでよいと考えます。 ただ、伝統文法に対する根拠づけが可能だとしたら、それがどのような形になるのか考えてみたいと思います。それを今回実践しますが、分析結果に対してご意見を頂けたらと思います。 根拠をどこに求めるかということですが、伝統文法の発想は自然科学の発想と軌を一にしています。ということは、ニュートン物理学の発想が根本にあるということです。すなわち私としては、時間及び空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見てみようと思います。言いかえると、伝統文法の根拠づけを伝統文法の内部から行おうというわけです。すなわち、三次元空間と時間という認知形式において伝統文法を照らし出してゆくわけですが、学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造(語・句・節の働きの総体をその定義としておきます)について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。 なお、語の分析においては中核的な要素に焦点を当て、周縁的な要素は分析対象から外すことにします。なぜなら、長い間の言語的発展のあいだに基の原義が消滅したり変化したり、あるいは他の品詞として使用されるようになったりもしているからです。また、Water is a clear pure liquid. といったようなカテゴリー表現は分析対象としません。カテゴリーは三次元空間と時間という認知形式の外にあるものだからです。ただし、I drank water. というふうにカテゴリーの部分、すなわち実体を表す場合は分析対象とします。 分析にあたっては、文中で使われる主要な語・句・節にどのような空間性・時間性が見られるかを分析することになりますが、その際に、空間性・時間性を直接的に発見しようとするだけでなく、空間メタファーも活用します。要するに、文中の語・句・節がそれなりの空間性・時間性を持つことを示すことで、存在論的基礎を示そうとするわけです。 ただし、その際に説明が込み入ったものだったり、重層的にメタファーを使うことは避けようと思います。恐らく、間投詞以外はすべての品詞が空間性・時間性を持つものと予想されますが、その説明はできるだけシンプルなものでなければ意味がないと思うのです。複雑な説明だと不自然なこじつけとしか受け取られません。 さて、文というものが成り立つためには、主語と動詞がなければなりません。一般に<モノ>を表すものと<動き(変化や持続も含む)>を表すものとで、この世の主たる出来事や状況が言い表されるわけですから、これは当然のことです。<モノ>と<動き>が組み合わさることで文が生まれる、すなわち世界に対する叙述が生まれるわけです。 ここで、文中に主語と動詞が存在することは一体何を意味するのかを存在論的に考えてみます。主語はもちろん名詞です。名詞は文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、形や姿を現すものとして空間的制約が与えられます。その制約の存在を示すのが限定詞です。実体であっても空間的な制約が存在しない場合は無冠詞で使われます。つまり、空間において一定の位置を占めるわけですが、これが名詞が文中で使われることの存在論的な意味です。 同様に、動詞の場合も文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、過去・現在・未来を表すものとして時間的な制約が与えられます。その制約の存在を示すのが時制です。実体であっても時間的な制約が存在しない(時間を持たない)場合は原形で使われます。つまり、時間(または空間)において一定の位置を占めるということですが、これが動詞が文中で使われることの存在論的な意味です。 名詞と動詞が存在論的基盤を持つということは、必ず空間と時間の両方において一定の位置を占めることを示しますが、両者の性質上、空間と時間のどちらかにウェートが置かれます。今後は名詞は空間的性質を、動詞は時間的性質を持つものとして話を進めます。こうした観点からすると、品詞分類においては名詞と動詞が上位に分類され、それ以外の品詞が下位に分類されてもいいと考えます。 形容詞の分析に移ります。限定用法であれ叙述用法であれ、形容詞が表すものを属性だと定義して、その属性に空間性や時間性があるかを考えてみます。形容詞の有り様からして、名詞とのからみで見ていかなければなりません。よって空間性のみを見ることにします。 例えば、He is tall. / He is a tall man. においてtallは段階を持つ形容詞です。各段階の差異は空間性を示します。また、比較級・最上級の存在も空間性を示します。上の2文の状況を図示しただけでも空間性が示されます。 supremeといったような段階を持たない形容詞の場合、段階を持たなくても度合いを持ちます。supremeが内包する度合いを数直線上に表した時、supremeという語は数直線上の最右翼に位置します。空間的に位置を占めているわけです。度合いという考え方はbusyのような一時的な性質を表すものにも適用できるし、redのような恒常的性質のものにも適用できます。 又、red applesはapplesという外延全体のうちの一定部分に言及したものです。このように数量的限定を名詞に与えるという意味においても空間性を表します。dirty waterも同様。 以上、形容詞が空間的性質を持つことを見ました。 次に、副詞を動詞との関わり(それが中核的な関わりです)で見ていきますが、場所や時や頻度や数量を表すものはそれ自体空間性や時間性を持つと言えます。又、程度や様態や確実性を表すものは形容詞の場合と同じく度合いのレベルとして空間性が見て取れます。 ただし、yes, noなどの肯定・否定を表す場合や、文副詞のように話者による評価や態度を表す場合は空間性や時間性の発見は困難です。やろうと思えばできるかも知れません。例えば、yesという副詞の場合、yesとnoを二項対立的な要素集合ととらえることによって空間性を見て取ることができます。ただし、空間メタファーを利用したアクロバティックな強引なものです。説得力を持つことはないと思います。よって、周縁的な要素として処理するのが適当だと思われます。すべてがきちんと説明されなければならないわけではないと考えます。 前置詞については、そもそも名詞との絡みでしか考察することができませんから、空間的性質があるのは自明のことです。例えばin the parkが形容詞用法であろうと副詞用法であろうと、「中」を表すことに違いはありません。また、The book is still in print. におけるように補語として使われた場合でも、刊行されている状態の範囲内にあるわけですから、やはり「中」を表します。 ただし、「中」を表すとする判断はin / the / parkというふうに要素に分解することに意味を認めた場合の話です。話は変わりますが、because he had a cold that day という節においてbecauseを一つの単独の品詞として分析対象とすることに意味がありません。節全体を分析対象にするのでなければ有意な分析は行えません。そのことは前置詞句にも当てはまるのと思います。 だとすると、in the parkは形容詞用法の場合は空間的基盤を持ち、副詞用法の場合は時間的又は空間的基盤を持つと言えます。The book is still in print. においては、現在の状況が示されていることは明らかです。 これは形容詞句の分析の一例ですが、その他の形容詞句においても何らかの形で分析が可能だと予想されます。 代名詞は空間的性質を持つ名詞の代理表現ですから、言わずもがなです。 接続詞はどうかと言うと、これは語と語を、及び文と文をつなぐものなので、それ自体は空間的・時間的性質とは無関係と考えるべきです。だとすると、名詞と動詞を核とする品詞の集まりにおける周縁的なものと位置させるのがよいと考えます。そこで、分析にあたっては接続詞を含む節単位で考えるしかないと考えます。同じことは関係詞節や疑問詞節にも言えます。 重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません。 間投詞は対話の相手との直接的なやりとり(相づちや気持ちの表現)を文中に押し込んだもので、そもそも文の構成要素になりません。他の品詞との連携もありません。当然、時間的・空間的性質も持ちません。 以上です。ご意見をお待ちしております。
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「質問者からの補足」ありがとうございました。 問題点のみ、以下のとおりお答えします。 @確認したいことがあります。その一つ目ですが、形容詞句(節)の分析においてa boy in the parkやa boy who is walking in the parkとかをboyの外延と見なせるものとしました。 つまり、ある語に修飾語がつくことによって、その語の外延が作られると考えたわけですが、この考えは正しいのでしょうか。それと、副詞節のwalk while it is rainyもwalkの外延と見なせるのでしょうか。 もし、そうした考えが正しいとしてもwalk outside in spite of rainやwalk outside though it is rainyもwalkの外延と見なすことができるのでしょうか。whileの場合と違って、in spite ofやthoughは論理関係を含むものなので気になります。walk a long time because there are signs of spring everywhereについても同じ気がかりがあります。 ⇒「ある語に修飾語がつくことによって、その語の外延が作られると考えるのは正しいか」についてはこう考えます。これらの副詞句、前置詞句、接続詞などを使って膨らませた名詞句・名詞節表現もその名詞の外延と見なすことは、「不可能ではないと思いますが、その必要はない」かも知れませんね。なぜなら、それらの道具語who, while, though(関係詞・接続詞)、in spite of(前置詞句)などもまた、「範疇カゴC」に収容できると思われるからです。 @疑問詞節とthatを使った名詞節の場合はどう考えればよいのでしょうか。<自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぎます>という分析は可能なのでしょうか。つまり、それらも「範疇かごC」に入るのかということです。 -whereやwhenがつく疑問詞節の場合は問題はないと思います。もともとwhereもwhenも時間や空間を表すものですから。でも、howとかwhyとかはどう考えればいいのでしょうか。そもそも疑問文のHow does he go to school? やWhy is he late? において、どのように空間性が見て取れるのでしょうか。この問題を解くためには、その答えとなる文を想定すればいいのかなと考えてみました。すなわち、He goes to school by train. He is late because the train is delayed. とかですが、go by trainはgo の外延に、is late because the train is delayedはbe lateの外延に位置すると言えるのであれば、howもwhyも動詞を修飾する時、その動詞の外延に位置することになり、空間的性質を持つと言えそうに思うのですが、かなり苦しいように感じます。 ⇒howとかwhy、さらに名詞節を導くthatなどは、「自身は没時空的に、いわば黒子役に徹して」時空性を持つ他の語句に関わるだけですから、これらもまた、「範疇カゴC」の部類と言えるでしょう。なお、仰せのように、「whereやwhenがつく疑問詞節の場合、もともとwhereもwhenも時間や空間を表すものですから、問題はない」と言うことはできるかも知れませんね。しかし、均整のとれた分類のためには、これらも「範疇カゴC」の成員と見なすと、より具合がいいと考えられるかも知れませんね。 @howに関して言うと、これがHow are you? というふうに使われた場合は補語として働きます。Howが要求する形容詞は度合いを持つものだと思われるので、空間的把握は可能です。ところが、節に組み込まれた場合はどうなるのでしょうか。修飾語の場合は被修飾語の外延を作ると言えそうですが、補語の場合はどうなのでしょうか。例えばHe is happy. において、is happyはbe+形容詞というカテゴリー的表現の外延集団の一つと見なせるかということです。いかがでしょうか。この考えが成り立つなら、howのついた疑問詞節は空間的性質を持つと言えそうです。又、この考えが成り立つなら、さらに拡張的な議論が可能です。例えば、He studies English every day. において、もしstudy English (every day)をstudyの外延として扱いうるのであれば、What does he do? を節化したwhat he doesの空間性を見て取ることができます。どうなのでしょうか。 ⇒修飾語の場合は、その名詞が主語であれ、目的語であれ、文字通り、「飾り」を付け足しただけですよね。つまり、S=NP+VPのNPを拡大しただけですね。ところが、補語の場合は、本体から離れた述語部分をもって、すなわち、S=NP+VPのVPをもってNPの外延と見なすことになるわけですから、これはいささかきついと思われます。もしこれもありと認めるなら、無限に外延を拡大できることになってしまうからです。 @さらにやっかいなのがthat節です。関係詞節の場合は問題なく処理できますが、名詞節と副詞節の場合は考えあぐねてしまいます。この場合のthatは文中で主語や目的語や副詞の働きをするのに、にもかかわらず文ではないことを示すための符号のようなものとして使われているように思います。もしそうであるなら、いっそのこと「範疇カゴA」に入れてしまった方がよいのではないかという気がします。いかがでしょうか。that節のthatがもともとは指示代名詞だったという話を聞いたことがありますが、もしそうであれば、指示代名詞の基本的性質から、外延すなわち空間的性質を持つものと見なすことができます。ところが、現実には接続詞の働きを行っているわけですから、この考えは成り立ちません。 ⇒that節が名詞節であれ副詞節であれ、そのthatは、「節の引率者」であり、同時に当該の節を本文の1構成要素として引渡す「仲介者」ですね。つまり、(一点張りのようで恐縮ですが)問題なくこれも「範疇カゴC」の要員である、と言えるでしょう。 ということで、「範疇カゴ」の分類は、「範疇カゴA」や「範疇カゴB」は変わりませんが、「範疇カゴC」の成員は少し増えて、《「機能語(前置詞・接続詞・関係詞・疑問詞など)の「媒介素」― 自身は空間性と関わらないが、空間性と関わる他の語句や表現を媒介するグループ》となりますので、このカゴだけがかなりの「大所帯」になりますね。 @少し追加でお聞きしたいことがあります。「範疇カゴ」は空間の制約を免れる要素を入れるためのものでしたが、時間の制約を免れるものを考慮する必要はないわけですね。 実は、分析の途中で何度も思ったのですが、時間的制約より空間的制約の方が考えやすいし、適用しやすいのはなぜなのでしょうか。メタファーでも空間メタファーは使いやすいのに、時間メタファーは使いにくいですね。もっと言うと、時間的性質は時間軸tを設定してしまえば、たやすく空間としてとらえることができますが、空間的性質を時間としてとらえることは、以前lifecycleとして分析した時もそうでしたが、なかなか思いつくことではありません こうしたことは人間の認知において視力の方が聴力よりはるかに大きな能力を持っていることと関係しているのでしょうか。また、人間の想像力も時間形式・枠組みより、空間形式・枠組における方が繰り広げられやすいようにできているのでしょうか。概念とかカテゴリーとか外延とかが空間的なものだということもあるかも知れません。ご意見を伺えればと思います。 ⇒確かに、「時間メタファーは使いにくい」ですね。強いて挙げれば、例えば、仮定法過去などで扱う時空は、ある種メタフォリックな時間として考えられるかも知れません。 ところで、イギリスの哲学者マク=タガート(J. E. Mc Taggart) によれば、時間という名で呼ばれるものの実態は、次のような3形態もしくは系列に分けられるそうです。 (1) A系列(過去―現在―未来) (2) B系列(前―同時―後) (3) C系列(単に順序の規定だけを含む系列) 我々は、動詞の時間性を考えるとき、通常、時制(のみ)を想起しますが、それはA系列だけが時の担い手だと考えるからでしょう。しかし、あとの2つの系列もそれぞれ1つの時の形態なのですから、これらの区分を表す仕組みも「時」を表していると考えることができます。それぞれ、B系列は「アスペクト」に当り、C系列は「事行」=「アスペクト×動詞の語義で作り出される行為の展開様式」に相当する、という対応関係で捉えることができると思います。詳細は省きますが、これらを動詞の時間性関連としてまともに取り組むなら、それぞれに1章ずつは必要になるでしょうね。(ただし、本件のような「ダイジェスト版」を想定した報告でそこまでの言及が必要かどうかについては、特にこれといった考えはありません。)
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- Nakay702
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「質問者からの補足」をありがとうございました。前便で申しあげたとおり、いわゆる実詞や動詞などの中心的語句をめぐる記述に関しては特に異論はありません。それで、ここではおもに空間性と関わらない語に焦点を当てて、以下のとおりお答えします。 @存在論的な観点を優先するといっても、結局は統語論や意味論とも関係するわけで、手を伸ばしすぎないうちに引き上げようと思います。 ⇒そうですね。いろいろ手を伸ばして散漫になると空中分解しかねませんから、それより小さくとも(ひとまず)完結しておきたいですね。 @<yes, noなどの、いわゆる、「機能語化」したものは、空間性とは関わりませんね。そのように定義づければいいだけの話だと思います。> -たしかにそうですね。/副詞の中にも空間性と関わるものと関わらないものがあるとするしかないのでしょうね。 ⇒一般的には、多くの語が空間性に関わると見られますが、このように空間性との関わりを免れる語群があることも確かですね。そこで、この部類に含まれる語を収容する入れ物を(仮に「範疇カゴ」と呼ぶことにして)用意するのはいかがでしょうか。例えば、yes, noなどの語は、私見では、「時空性と関わることを拒絶する機能語」と言えるのではないかと思いますので、これを収容する入れ物を「範疇カゴA」としておきましょうか。 @nothingは空集合ですから、意味レベルではなくnothingという語の有り様に注目してみました。nothingというカテゴリーの成員(外延)は{nothing new, nothing old, ----}です。この集合は空間性を表すと思います。成員の集合の一つなので空間性を持つ、というふうには言えないものでしょうか。でも、実質的には空集合なのでやはり駄目でしょうね。とんだ空論だと思います。でも、代名詞の多くが名詞の代理として空間性を持つと言えると思います。nothingは何の代理でもありません。nothingはthingにnoがついたものですが、おそらくnoやnotは論理の構築に資するために作られたものだと思います。 ⇒「nothingは空集合ですから」を目にしてひらめきました。以前、「ゼロ冠詞」が話題になりましたね。それにちなむと、nothingは、勝手な命名ですが「ゼロ空間素」と言えるかも知れません。言語関連の理論構築では、「ゼロ○○」なる現象は、例えば形態論などでよくあることです。この場合のnothingは、構成要素でありながら具体的な場を占めず、単なる「唯名的」存在である、というような部類です。しかし、そうは言っても、それを完全に無きものとして排除しては、構造物そのものが成り立たない、といったケースです。 ここで、前便で取りあげた公式「0!=1」について再考します。ゼロの階乗は、実感としてはゼロであって、それ以上でも以下でもないのに、数学の公式としてはそれを1とする。なぜなら、もし0にすると公式そのものの存在が失われてしまうからであると言います。すなわち「0!=1」は「真理値」でなく、階乗の公式自体が求める、いわば「承認値」なのだと。そういえば、あの「ゼロ冠詞」も同様に、文法構造自体が求める「相補分布(候補)要員」でした。まさに、お言葉の「論理の構築に資するために作られたもの」と言えましょう。以上のような状況に鑑み、nothingなどの「ゼロ空間素」を収容する入れ物を「範疇カゴB」とさせていただきます。 @機能語に関しては、内在的な空間性を持たず、他の品詞との絡みにおいて空間性を示すものであると位置づけ、代名詞と前置詞と接続詞を分析することにしました。接続詞以外は何とかなりそうでした。間投詞は文中で使われるものの、文の構成要素にならないし他の品詞との連携もありませんから時間的・空間的性質も持ちません。よって、例外的なものとして扱うことにしました。 ⇒「機能語に関しては、内在的な空間性を持たず、他の品詞との絡みにおいて空間性を示すものであると位置づけ、代名詞と前置詞と接続詞を分析することにした」とのこと、その腐心のほどは痛いほど分かりますが、どうしても無理やこじつけを伴いがちになることは免れませんね。幸い、feedersさんもこれを「例外的なものとして扱うことに」なさった由、賛同申しあげます。私見では、このような語群、例えば前置詞は、「自身では空間的性質を持たないが、それを持つ他の語句や表現を媒介する」機能語として位置づけることができるし、接続詞は、同じく「自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぐ」機能を果す、と解釈できると思います。そこで、これらも、やはり冒頭で見た機能語の類型として「範疇カゴC」に分類するのがよいと考える次第です。なお、間投詞は(呼びかけに用いられる呼格も)、時空性の制約を免れ、かつ他の語句とも関わらないということから、「範疇カゴA」に含まれると解釈できると思います。 @副詞節が動詞を修飾する時、その動詞の外延の一部を構成するのであれば、動詞とのあいだに空間性を生み出すと言えそうな気がしたわけです。でも、自信がありませんでした。以上のようなことをすべて書き連ねるのは字数制限のため不可能でした。ところで、ここまで述べてきたことは正しいのでしょうか。仮に正しいとしても、こじつけに近いようであれば、あるいは不自然なものであれば撤回します。 @節構造については、空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つのは当然だと考えました。 ⇒僭越ながら、正直、やはり幾分か無理があるように思います。「節構造については、空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つのは当然だと考えた」とのことですが、空間と時間の性質を持つのは節や文であって、関係詞、接続詞、疑問詞それ自体ではありませんよね。その意味では、これらもやはり機能語であって、自身は空間性と関わらないものでしょう。例えば、接続詞は、上で見たように、自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぎますし、関係詞も、「自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節を相互に関連させる」働きをしますね。ということで、これらも上記と同じ種の機能語として「範疇カゴC」に含むことができると思います。 私見のまとめ:空間の制約を免れる要素は3種類ある。 ・「範疇カゴA」:間投詞・呼格・yes, noなどの「特殊語群」 ― 空間性との関わりを拒絶するグループ。 ・「範疇カゴB」:nothing, noneなどの「ゼロ空間素」 ― 空間的性質を持つが、特有の領域を持たないグループ。 ・「範疇カゴC」:機能語(前置詞・接続詞・関係詞など)の「媒介素」 ― 自身は空間性と関わらないが、空間性と関わる他の語句や表現を媒介するグループ。 以上です。いかがでしょうか。
お礼
残りです。 howに関して言うと、これがHow are you? というふうに使われた場合は補語として働きます。Howが要求する形容詞は度合いを持つものだと思われるので、空間的把握は可能です。ところが、節に組み込まれた場合はどうなるのでしょうか。修飾語の場合は被修飾語の外延を作ると言えそうですが、補語の場合はどうなのでしょうか。例えばHe is happy. において、is happyはbe+形容詞というカテゴリー的表現の外延集団の一つと見なせるかということです。いかがでしょうか。この考えが成り立つなら、howのついた疑問詞節は空間的性質を持つと言えそうです。 又、この考えが成り立つなら、さらに拡張的な議論が可能です。例えば、He studies English every day. において、もしstudy English (every day)をstudyの外延として扱いうるのであれば、What does he do? を節化したwhat he doesの空間性を見て取ることができます。どうなのでしょうか。 さらにやっかいなのがthat節です。関係詞節の場合は問題なく処理できますが、名詞節と副詞節の場合は考えあぐねてしまいます。この場合のthatは文中で主語や目的語や副詞の働きをするのに、にもかかわらず文ではないことを示すための符号のようなものとして使われているように思います。もしそうであるなら、いっそのこと「範疇カゴA」に入れてしまった方がよいのではないかという気がします。いかがでしょうか。 that節のthatがもともとは指示代名詞だったという話を聞いたことがありますが、もしそうであれば、指示代名詞の基本的性質から、外延すなわち空間的性質を持つものと見なすことができます。ところが、現実には接続詞の働きを行っているわけですから、この考えは成り立ちません。 ●ところで、少し追加でお聞きしたいことがあります。「範疇カゴ」は空間の制約を免れる要素を入れるためのものでしたが、時間の制約を免れるものを考慮する必要はないわけですね。 実は、分析の途中で何度も思ったのですが、時間的制約より空間的制約の方が考えやすいし、適用しやすいのはなぜなのでしょうか。メタファーでも空間メタファーは使いやすいのに、時間メタファーは使いにくいですね。もっと言うと、時間的性質は時間軸tを設定してしまえば、たやすく空間としてとらえることができますが、空間的性質を時間としてとらえることは、以前lifecycleとして分析した時もそうでしたが、なかなか思いつくことではありません こうしたことは人間の認知において視力の方が聴力よりはるかに大きな能力を持っていることと関係しているのでしょうか。また、人間の想像力も時間形式・枠組みより、空間形式・枠組における方が繰り広げられやすいようにできているのでしょうか。概念とかカテゴリーとか外延とかが空間的なものだということもあるかも知れません。ご意見を伺えればと思います。以上です。
補足
再度の回答ありがとうございました。 ●<そうですね。いろいろ手を伸ばして散漫になると空中分解しかねませんから、それより小さくとも(ひとまず)完結しておきたいですね。> -私も同じように考えます。無理をするつもりは全くありません。私の論を推し進めると散漫になるどころか、こじつけ気味の個所が至る所に出現すると思います。兵の引き上げ時だと思います。 今回の試みは、文構造を構成する範疇のかなりの部分が空間性を持つまたは関与するのではないかという仮説を立てて、それを実証することだったわけですが、一般に、どのような仮説であれその実証が完璧に行われることは不可能だと思います。ある程度の統一的な視点が確保され、大体において維持されるようならよしとすべきだと思います。伝統文法のように、指導のしやすさを重視して論理的な整合性を重視しなかったシステムにおいては特にそうだと思います。伝統文法の成立のはるか以前の、おそらく、言語体系の体系化が始まってまもなくだったら実証可能だったのかも知れません。 ●一般的には、多くの語が空間性に関わると見られますが、このように空間性との関わりを免れる語群があることも確かですね。そこで、この部類に含まれる語を収容する入れ物を(仮に「範疇カゴ」と呼ぶことにして)用意するのはいかがでしょうか。例えば、yes, noなどの語は、私見では、「時空性と関わることを拒絶する機能語」と言えるのではないかと思いますので、これを収容する入れ物を「範疇カゴA」としておきましょうか。 -たしかに、Nakayさんの言う「範疇カゴ」という概念を導入すれば全体の論がスムーズなものになりますね。そうするしかなさそうです。 ●<「nothingは空集合ですから」を目にしてひらめきました。以前、「ゼロ冠詞」が話題になりましたね。それにちなむと、nothingは、勝手な命名ですが「ゼロ空間素」と言えるかも知れません。言語関連の理論構築では、「ゼロ○○」なる現象は、例えば形態論などでよくあることです。この場合のnothingは、構成要素でありながら具体的な場を占めず、単なる「唯名的」存在である、というような部類です。しかし、そうは言っても、それを完全に無きものとして排除しては、構造物そのものが成り立たない、といったケースです。 ここで、前便で取りあげた公式「0!=1」について再考します。ゼロの階乗は、実感としてはゼロであって、それ以上でも以下でもないのに、数学の公式としてはそれを1とする。なぜなら、もし0にすると公式そのものの存在が失われてしまうからであると言います。すなわち「0!=1」は「真理値」でなく、階乗の公式自体が求める、いわば「承認値」なのだと。そういえば、あの「ゼロ冠詞」も同様に、文法構造自体が求める「相補分布(候補)要員」でした。まさに、お言葉の「論理の構築に資するために作られたもの」と言えましょう。以上のような状況に鑑み、nothingなどの「ゼロ空間素」を収容する入れ物を「範疇カゴB」とさせていただきます。> -実は、Nakayさんのとは少し異なりますが、空集合についての考察からいろいろこじつけ気味の論を立てました。でも、最初に、議論の内容をニュートン物理学の枠内に抑えるという前提をおいてしまっているので、さらなる私論は放棄しました。でも、「範疇カゴA」とは別に「範疇カゴB」をおくしかないでしょうね。 ●このような語群、例えば前置詞は、「自身では空間的性質を持たないが、それを持つ他の語句や表現を媒介する」機能語として位置づけることができるし、接続詞は、同じく「自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぐ」機能を果す、と解釈できると思います。そこで、これらも、やはり冒頭で見た機能語の類型として「範疇カゴC」に分類するのがよいと考える次第です。 -「範疇カゴC」についてですが納得です。 ●<間投詞は(呼びかけに用いられる呼格も)、時空性の制約を免れ、かつ他の語句とも関わらないということから、「範疇カゴA」に含まれると解釈できると思います。> -「範疇カゴA」にはyes, no などが入るのでしたね。yesが持つ相づちという性格を考えるとたしかに間投詞と同じものだという気がして、両者を同じ範疇でくくるべきかなと思いました。でも、賛意の表明という観点で考えるとどうなのだろうと思って、そこで思考がストップしてしまったのです。でも、問題なさそうですね。 ●<私見のまとめ:空間の制約を免れる要素は3種類ある。 ・「範疇カゴA」:間投詞・呼格・yes, noなどの「特殊語群」 ― 空間性との関わりを拒絶するグループ。 ・「範疇カゴB」:nothing, noneなどの「ゼロ空間素」 ― 空間的性質を持つが、特有の領域を持たないグループ。 ・「範疇カゴC」:機能語(前置詞・接続詞・関係詞など)の「媒介素」 ― 自身は空間性と関わらないが、空間性と関わる他の語句や表現を媒介するグループ> -納得です。うまくまとめましたね。分析と整理ということに関しては、やはり私よりははるかにすぐれたものをお持ちですね。ともあれ、これで文構造を空間・時間的性質から俯瞰するという初志は一応果たされることになります。兵の引き時です。ありがとうございました。 ●今回の論に関しては兵の引き時だと思いますが、引き上げに伴う残務整理として詰めておきたいことがあります。 <「節構造については、空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つのは当然だと考えた」とのことですが、空間と時間の性質を持つのは節や文であって、関係詞、接続詞、疑問詞それ自体ではありませんよね。その意味では、これらもやはり機能語であって、自身は空間性と関わらないものでしょう。例えば、接続詞は、上で見たように、自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぎますし、関係詞も、「自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節を相互に関連させる」働きをしますね。ということで、これらも上記と同じ種の機能語として「範疇カゴC」に含むことができると思います> -その通りだと思います。<空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つ>と考えたことには理由があります。接続詞に関しては、節にして動詞の外延に位置させることができるし、関係詞の場合も節にして名詞の外延に位置させることができるので何とかなるだろうと思ったのですが、疑問詞節とthatを使った名詞節の場合は修飾語にならないので、半ば苦し紛れに上のような発想<節構造については、空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つのは当然だと考えた>を思いつきました。 そこで確認したいことがあります。その一つ目ですが、形容詞句(節)の分析においてa boy in the parkやa boy who is walking in the parkとかをboyの外延と見なせるものとしました。 つまり、ある語に修飾語がつくことによって、その語の外延が作られると考えたわけですが、この考えは正しいのでしょうか。 それと、副詞節のwalk while it is rainyもwalkの外延と見なせるのでしょうか。 もし、そうした考えが正しいとしてもwalk outside in spite of rainやwalk outside though it is rainyもwalkの外延と見なすことができるのでしょうか。whileの場合と違って、in spite ofやthoughは論理関係を含むものなので気になります。walk a long time because there are signs of spring everywhereについても同じ気がかりがあります。 もう一つ、疑問詞節とthatを使った名詞節の場合はどう考えればよいのでしょうか。<自身では空間的性質を持たないが、空間性と関わる語・句・節をつなぎます>という分析は可能なのでしょうか。つまり、それらも「範疇かごC」に入るのかということです。 -whereやwhenがつく疑問詞節の場合は問題はないと思います。もともとwhereもwhenも時間や空間を表すものですから。 でも、howとかwhyとかはどう考えればいいのでしょうか。そもそも疑問文のHow does he go to school? やWhy is he late? において、どのように空間性が見て取れるのでしょうか。この問題を解くためには、その答えとなる文を想定すればいいのかなと考えてみました。すなわち、He goes to school by train. He is late because the train is delayed. とかですが、go by trainはgo の外延に、is late because the train is delayedはbe lateの外延に位置すると言えるのであれば、howもwhyも動詞を修飾する時、その動詞の外延に位置することになり、空間的性質を持つと言えそうに思うのですが、かなり苦しいように感じます。でも、私としては他に考えようがありません。いかがでしょうか。 残りをお礼に入れます
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
以下、お答えします。 @学校文法はいわゆる伝統文法と呼ばれるもので、その正当性の根拠や論理的整合性において矛盾や曖昧さを様々に含むものです。それでも、そうした枠組みに依拠した指導がこれまで続けられてきたのは、主に指導の簡便さによるものだと思われます。/伝統文法に対する根拠づけが可能だとしたら、それがどのような形になるのか考えてみたいと思います。 ⇒「伝統文法に対するオマージュとして(前スレ)」とお仰せの件、分かるような気がします。その昔、新米(院生、都立高非常勤)の私としては伝統文法や指導要領からよい指針を得たように思います。特に、生徒の質問に答える場合などには大いに助かった記憶があります。時に変った質問もありました。thatにはなぜこんなにいろいろな品詞と機能があるのか、進行を表さない進行形があるのはどういうことか、分詞はなぜ「分ける」詞なのか、「形容詞構文」と言えるものがあるのではないか等、今にして思えば、その後出会う大学生よりよほど鋭いと思うこともありました。このような質問への回答のために伝統文法や指導要領から多くの示唆を得たものです。この経験はその後英語との直接的関係がなくなってからもいろいろな意味で役立ちました。ということで、確かに、正当性の根拠や論理的整合性において問題を含むものであっても、現下のような受験等の制約下にある状況に鑑みれば、伝統文法をもってよしとする・せざるを得ない面があることはよく理解できます。 @根拠をどこに求めるかということですが、私としては、時間及び空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見てみようと思います。言いかえると、伝統文法の根拠づけを伝統文法の内部から行おうというわけです。すなわち、三次元空間と時間という認知形式において伝統文法を照らし出してゆくわけですが、学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。 ⇒「時間・空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見る」のは斬新なアプローチですね。少なくとも私には思いもよらぬことでした。「学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できればそれでよしと」するだけでも、それはそれで一つの礎石になり得るかも知れないと思います。ですから今は、○○とは何ぞやといった定義づけを問い質すことは控えます。いずれ後ほど直にそういう問題と直面することがあれば、その時話題としましょう。 @語の分析においては中核的な要素に焦点を当て、周縁的な要素は分析対象から外すことにします。ただし、I drank water.という風にカテゴリーの部分、すなわち実体を表す場合は分析対象とします。分析に当っては、文中で使われる主要な語・句・節にどのような空間性・時間性が見られるかを分析することになりますが、その際、空間性・時間性を直接的に発見しようとするだけでなく、空間メタファーも活用します。要するに、文中の語・句・節がそれなりの空間性・時間性を持つことを示すことで、存在論的基礎を示そうとするわけです。 ⇒このような新しい試みは、仰せのとおりまずはなるべく単純なものに収めてみるに越したことなさそうですね。例えば、メタフォリックな仮想空間と現実の経験的空間とが言語対象にいかなる制約を与えるかなどは、今のところあまり頓着せずに、とりあえず基本的な原理にまとまりをつけるということに集約するのがいいでしょうね。ということは、この段階では、パラダイムや意味場との関係、共起関係による変異などにはあまり頓着しないことにします。 @名詞は文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、形や姿を現すものとして空間的制約が与えられます。その制約の存在を示すのが限定詞です。実体であっても空間的な制約が存在しない場合は無冠詞で使われます。つまり、空間において一定の位置を占めるわけですが、これが名詞が文中で使われることの存在論的な意味です。同様に、動詞の場合も文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、過去・現在・未来を表すものとして時間的な制約が与えられます。その制約の存在を示すのが時制です。実体であっても時間的な制約が存在しない(時間を持たない)場合は原形で使われます。つまり、時間(または空間)において一定の位置を占めるということですが、これが動詞が文中で使われることの存在論的な意味です。名詞と動詞が存在論的基盤を持つということは、必ず空間と時間の両方において一定の位置を占めることを示しますが、両者の性質上、空間と時間のどちらかにウェートが置かれます。今後は名詞は空間的性質を、動詞は時間的性質を持つものとして話を進めます。 ⇒「名詞は空間的性質を、動詞は時間的性質を持つものとして話を進める」ことや「品詞分類において名詞と動詞を上位に分類し、それ以外の品詞を下位に分類する」とのこと、まずは総論概略として承っておきます。直近の段落で述べたとおり、名詞の空間的性質における仮想時空や、さらには動詞の時間的性質における時制と相(完了・不完了という別の「時」の形式)などの問題は後々の各論での検討課題であり、今は留保し、記憶にのみ留めておくも吝かではありません。 @限定用法であれ叙述用法であれ、形容詞が表すものを属性だと定義して、その属性に空間性や時間性があるかを考えてみます。形容詞の有り様からして、名詞とのからみで見ていかなければなりません。よって空間性のみを見ることにします。例えば、He is tall. / He is a tall man.においてtallは段階を持つ形容詞です。各段階の差異は空間性を示します。また、比較級・最上級の存在も空間性を示します。上の2文の状況を図示しただけでも空間性が示されます。supremeといったような段階を持たない形容詞の場合、段階を持たなくても度合いを持ちます。supremeが内包する度合いを数直線上に表した時、supremeという語は数直線上の最右翼に位置します。空間的に位置を占めているわけです。次に、副詞を動詞との関わりで見ていきますが、場所や時や頻度や数量を表すものはそれ自体空間性や時間性を持つと言えます。又、程度や様態や確実性を表すものは形容詞の場合と同じく度合いのレベルとして空間性が見て取れます。ただし、yes, noなどの肯定・否定を表す場合や、文副詞のように話者による評価や態度を表す場合は空間性や時間性の発見は困難です。 ⇒形容詞や副詞は、本来名詞と同じく「実詞」の部類ですので、それ自体で空間性を伴う、もしくはある種の空間を想定してその中でのみ意味機能を持つとも言えるでしょうね。ただし、yes, noなどの、いわゆる、「機能語化」したものは、空間性とは関わりませんね。そのように定義づければいいだけの話だと思います。 @前置詞については、そもそも名詞との絡みでしか考察することができませんから、空間的性質があるのは自明のことです。例えばin the parkが形容詞用法であろうと副詞用法であろうと、「中」を表すことに違いはありません。また、The book is still in print.におけるように補語として使われた場合でも、刊行されている状態の範囲内にあるわけですから、やはり「中」を表します。ただし、「中」を表すとする判断はin / the / parkという風に要素に分解することに意味を認めた場合の話です。(…)because he had a cold that day という節においてbecauseを一つの単独の品詞として分析対象とすることに意味がありません。節全体を分析対象にするのでなければ有意な分析は行えません。そのことは前置詞句にも当てはまるのと思います。だとすると、in the parkは形容詞用法の場合は空間的基盤を持ち、副詞用法の場合は時間的又は空間的基盤を持つと言えます。 ⇒前置詞は本来、空間関係を規定する語として発生してきたわけで、空間・時間関係を規定することに機能特化しているのであって、それ自体に時空性が含まれるわけではない、と言えるでしょう。その意味では、接続詞などについても同じことが言えると思います。つまり、それらは単なる関係規定のための単なる「機能語」である、と。 @代名詞は空間的性質を持つ名詞の代理表現ですから、言わずもがなです。接続詞はどうかと言うと、これは語と語を、及び文と文をつなぐものなので、それ自体は空間的・時間的性質とは無関係と考えるべきです。だとすると、名詞と動詞を核とする品詞の集まりにおける周縁的なものと位置させるのがよいと考えます。重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません。 ⇒代名詞と言えば、否定を表す不定代名詞(の非空間性)は考えあぐねてしまいそうな問題ですね。例えば、There is nothing new under the sun.(旧約「伝道の書」)のnothingはどう考えたらいいのでしょうか。「無いモノの空間性」とは何か。もっとも、古代ギリシャの哲人ゴルギアスなどはこんなことを言っているようです。「einai (= to be)を使って非存在『である』と言う限り、それは『ある』のだ」と。なお、接続詞を節単位で考えるなどの気づかいは、上述(機能語)のとお
お礼
残りです。 I know who he is. においては、空間は無限定です。時間も無限定ですが、今だとも言えそうです。 that節はthatが文についたものです。that節中に主語と動詞がありますから、節は内容的に事実・出来事・状況を表すはずです。それが反復や習慣を表すものであれば不定冠詞的状況です。そうでなければ定冠詞的な状況です。当然、時間と空間を表すと言えるはずです。 以上ですがいかがでしょうか。 ついでにカテゴリー表現にも触れておきます。それについては投稿文中でこのように言いました。<Water is a clear thin liquid. といったようなカテゴリー表現は分析対象としません。カテゴリーは三次元空間と時間という認知形式の外にあるものだからです。> でも、現実にこうした定義文が文として使われるからには、空間性と時間性が何らかの形で見て取れるのではないかと思います。それを考えてみました。 waterは確かにカテゴリーを表すもので、時間・空間と関わりを持ちません。でも、人間は姿形が明瞭でないものや抽象観念を誰かに説明する時、明瞭でないままで説明することをしません。必ず具体的なものとして説明します。実際、ここに挙げた定義文ではa liquidというふうに可算名詞が使われています。これはwaterを説明する際に、特に定義する際に、そのものの上位語を使ったためです。不可算名詞の上位語はたいていは可算名詞です。抽象観念もそうです。Love is a very strong feeling of affection towards someone --- Cobuild だったら、waterもloveそれを扱う際の観点を上位の場所におけば空間的性質を持つものと見なすことができます。でも、こじつけっぽい気もします。いかがでしょうか。
補足
回答ありがとうございました。 ●<このような新しい試みは、仰せのとおりまずはなるべく単純なものに収めてみるに越したことなさそうですね。例えば、メタフォリックな仮想空間と現実の経験的空間とが言語対象にいかなる制約を与えるかなどは、今のところあまり頓着せずに、とりあえず基本的な原理にまとまりをつけるということに集約するのがいいでしょうね。ということは、この段階では、パラダイムや意味場との関係、共起関係による変異などにはあまり頓着しないことにします。> -私も全く同様に考えています。今回は、お世話になった、というか飯の種にさせてもらった 伝統文法に対してオマージュというか感謝の念を表明しようと思いました。そうであれば、正当性の根拠や論理的整合性において問題を指摘されている伝統文法に対して、いささかなりとも基盤のようなものを提供したいと思ったわけです。これは私としては、伝統文法の指導現場から去りゆく者のつとめだという気がしたわけです。いろいろ考えたあげく、基盤が可能だとすればおそらく存在論的なものしかないだろうと結論が出ました。 もちろん、Nakayさんのおっしゃるとおり<まずはなるべく単純なものに収めてみる>ことにしました。一応の原理的なものを示すだけでも十分なオマージュになると考えました。後の細かい仕事は、興味のある方がやってくれればよいと思います。もちろんそれは私の仕事ではありません。ですから、私の議論には不十分な点はいくらでもあると思います。それはそれでよいとしようと思います。存在論的な観点を優先するといっても、結局は統語論や意味論とも関係するわけで、手を伸ばしすぎないうちに引き上げようと思います。 ●<yes, noなどの、いわゆる、「機能語化」したものは、空間性とは関わりませんね。そのように定義づければいいだけの話だと思います。> -たしかにそうですね。通常の意味での空間性をもともと持たないものにまで空間性を見て取ろうとすると、どうしても不自然な形でメタファーの助けを借りることになるし、こじつけとしか思えないですね。ですから、副詞の中にも空間性と関わるものと関わらないものがあるとするしかないのでしょうね。 ●<代名詞と言えば、否定を表す不定代名詞(の非空間性)は考えあぐねてしまいそうな問題ですね。例えば、There is nothing new under the sun.(旧約「伝道の書」)のnothingはどう考えたらいいのでしょうか。「無いモノの空間性」とは何か。もっとも、古代ギリシャの哲人ゴルギアスなどはこんなことを言っているようです。「einai (= to be)を使って非存在『である』と言う限り、それは『ある』のだ」と。> -実は、それについても(ついでにnotとnoも)考えました。かなり難しいですね。ゴルギアス のように、本格的な存在論(例えばハイデッガー)を使えばすんなり説明できそうですが、最初に断ったとおり、ニュートン物理学の範囲内に収めたいのでこの問題は解決不能としておきます。 それでも一応がんばってみました。nothingは空集合ですから、意味レベルではなくnothingという語の有り様に注目してみました。nothingというカテゴリーの成員(外延)は{nothing new, nothing old, ----}です。この集合は空間性を表すと思います。成員の集合の一つなので空間性を持つ、というふうには言えないものでしょうか。でも、実質的には空集合なのでやはり駄目でしょうね。とんだ空論だと思います。 でも、代名詞の多くが名詞の代理として空間性を持つと言えると思います。nothingは何の代理でもありません。nothingはthingにnoがついたものですが、おそらくnoやnotは論理の構築に資するために作られたものだと思います。 ●<前置詞は本来、空間関係を規定する語として発生してきたわけで、空間・時間関係を規定 することに機能特化しているのであって、それ自体に時空性が含まれるわけではない、と言えるでしょう。その意味では、接続詞などについても同じことが言えると思います。つまり、それら は単なる関係規定のための単なる「機能語」である、と。> -確かにその通りですね。実は、当初は内容語(名詞、動詞、形容詞、副詞)にだけ空間性を見いだし、その他の品詞は空間性を内在的に持たないものとして十把一絡げに扱うつもりでした。でも、それだけのことなら、私以外の誰かが同じような試みをすでにしていると思うし、私自身も物足りないという気がしました。 そこで、機能語に関しては、内在的な空間性を持たず、他の品詞との絡みにおいて空間性を示すものであると位置づけ、代名詞と前置詞と接続詞を分析することにしました。接続詞以外は何とかなりそうでした。間投詞は文中で使われるものの、文の構成要素にならないし他の品詞との連携もありませんから時間的・空間的性質も持ちません。よって、例外的なものとして扱うことにしました。 残ったのは接続詞です。時と場所を表すものは後続する文との関係において明確に時間性や空間性を示しますが、それ以外の接続詞については説明困難です。何とかしようとすると相当の工夫が必要です。 そこで、一計を案じました。話を少し戻します。形容詞の場合、He is tall. においてtall自体が内在的に空間性を持つことが見て取れました。投稿文に記述したように、程度の図示によってそれが可能になりました。 ところが、He is a tall boy. においては少し異なる見方が可能でした。He is a boy. におけるboyをtallが修飾していると見る時、カテゴリーのboyに対応する成員(外延)はa boy以外にa tall boyも存在します。a tall boyは成員(外延)の集合の一部を占めるわけですから空間性を示すと言えると思います。つまり、修飾という機能がtallとboyとの関係において空間性を生じさせたと言えるのではないかと思うのです。 ということは、形容詞用法の前置詞句や関係詞節にもこのことが当てはまるはずです。例えば、前置詞句のin the parkの場合、inはthe parkとの関係において空間性を生じさせます。でも、One day, a boy in the park was playing with his dog. において、a boy in the parkはa boyというカテゴリーの成員と見なすことができると思います。空間性が生じています。制限用法の関係詞節の場合も同様です。 私が文構造分析において、語レベルに留まらず句や節レベルにまで手を広げようとしたことの真意がここにあります。 そうすると、接続詞も何とかなるのではないかと思いました。すなわち副詞節と名詞節(that節)があるわけですが、まず、副詞節から攻略することにしました。その際に副詞の分析を参考にする必要があります。 He walked slowly. において、slowlyはそれ自体で時間を表しますから時間的性質を持つと言えると思います。また、ゆっくりさの程度を表すことができるので、それを図示することで空間的性質を表すこともできます。 ところが、walk slowlyはwalkというカテゴリーの成員でもあります。よってその意味でも空間性が生じます。他の成員としてwalk merrily, walk in the rain, walk outside in spite of rain ---などが考えられます。 この時、walk in the rainの代わりにwalk while it rainsが使えるのではないかと考えました。同様に、walk outside in spite of rainの代わりにwalk outside though it is rainyが使えるような気がしました。つまり、副詞節が動詞を修飾する時、その動詞の外延の一部を構成するのであれば、動詞とのあいだに空間性を生み出すと言えそうな気がしたわけです。でも、自信がありませんでした。 以上のようなことをすべて書き連ねるのは字数制限のため不可能でした。ところで、ここまで述べてきたことは正しいのでしょうか。仮に正しいとしても、こじつけに近いようであれば、あるいは不自然なものであれば撤回します。無理をする必要はありませんから。 節構造については、空間と時間の性質を持つ文に関係詞、接続詞、疑問詞がついただけなので時空の性質を持つのは当然だと考えました。でも、この考えだけだと何か物足りないというか舌足らずのような気がしました。そこでいろいろと考えてみました。 名詞節(that節と疑問詞節)については考えがうまくまとまりませんでした。これらが名詞として働くものであって修飾機能がないためです。 that節と疑問詞節は主語として、あるいは動詞や前置詞の目的語として使われます。一般に<モノ>を表すものと<動き>を表すものとで、この世の主たる出来事や状況が言い表されますが、この2つが文中で意味のあるものとして使われる時、<モノ>は必ず空間的性質を持つはずです。 疑問詞節から分析します。I know where she went yesterday. において従属節中の出来事は特定の空間と時間を持ちます。 残りはお礼に回します。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
どうもハナっから逆なので、申し訳ありませんが。言葉は「話し言葉」が基本で、普通独り言はあっても何か目的があって相手と二人、すなわち話し手と聞き手がいます。 でその場合二人が声に出して意思を伝えるのが基本ですから「文」にする必要もなければ、「主語」「術後」もいりません。「これ誰のスマホ?」「あいつの」でじゅうぶん目的が果たせます。 じゃ一体なぜ「文法」が生まれたのか、という質問には、何かの目的で読めないものが発見され、その死語の解読が必要な時だったのでしょう。『カンタベリー物語』に clerke of Oxenford が出てきますが、当時は坊さん製造所だったので、聖書のラテン語、古典ギリシャ語を読み解くのが仕事だったわけです。 事実、人の教養はこの死語の知識の有無で決まり、シェイクスピアは little Latin, less Greek 「碌にラテン語も知らず、ギリシャ語はもっとダメ」と評されています。当然、文法はラテン文法の Word and Paradigm 「単語と活用形式」で、20世紀まで続きます。 日本の学校文法もそのうちですが。死語でなく、生きてピンピンしている魚を料理するように一度殺さないと都合が悪かったりして、お仕事も大変だと思います。 #1さん。おかえりなさい。また優れたご意見が伺えて本当に嬉しいです。
補足
回答ありがとうございます。ご意見は参考にさせて頂きます。
- Biolinguist
- ベストアンサー率69% (354/513)
コメントを思いつくままに。 1.伝統文法に自然科学もニュートン物理学もない。 その基盤はラテン語文法であり、さらに遡ればアリストテレス哲学である。その点、イエスペルセンはかなり特殊だけど。 2.<モノ><動き>は一般に entity および event と呼ばれる。もとは哲学用語だけど、論理学を通して、意味論でも用いられる。 3.主語や目的語が名詞とは限らない。 To drive a car can be dangerous. That the Earth is flat is clear. 動詞や節も<モノ>で、空間的なのだろうか? 4.名詞も述語になるが、どう扱えばいいのだろうか? I believe him a genius. しかもこの構文は I believe him to be a genius. I believe (that) he is a genius. とも関係する。 どのように結びつければいいのだろうか。 5.節には名詞節・形容詞節(関係節)・副詞節・主節がある。 存在論的にはどうなるんだろう? 6.前置詞は動詞との絡みも考えるべきではないのか? look for, depend on, speak of とか、名詞とはあまり関係なさそう。 7.論理学や言語学の入門書を読んだ方が、回り道をしなくて済みそう。今になって微分や積分を「発見」してしまうことの無いように、先人が通った道を知っておくことは無駄ではないと思う。
お礼
残りです。 例えば、Because he is rich, he can buy anything he wants. という時、従属節と主節の時間的関係は同時です。Before he reached the station, the train had already left. においては同時ではありません。といったような時間的なずれを指摘することができます。これらは時間を表す接続詞を使った文ですが、そうでない文においても何らかの時間的関係が見て取れると思います。文次第ではこじつけに近い解釈しかできない場合もあると思います。 重文の場合は、A and Bにおいて、A、Bの2文が持つ時間的/ 空間的性質が組み合わさったものと考えればよいのではないかと思います。語の接続の場合、例えばa dog and a catにおいてはa dogだけの時より空間的に占める分量が大きくなります。came and sawにおいては経過した時間幅が増えます。文の接続の場合はもっと複雑になるだけだと思います。 形容詞節(関係節)の場合は簡単です。先行する名詞句に空間的・時間的限定を与えるわけですから。 名詞節の場合、例えばthat節の場合を取り上げてみます。例えばthat the Earth is flatは、空間的・時間的性質を持つThe Earth is flat. という文にほとんど意味を持たないthatがついて名詞化したものですから、空間的・時間的性質を持つのは明らかです。疑問詞節の場合も同様のことが言えると思います。 ●6.前置詞は動詞との絡みも考えるべきではないのか? look for, depend on, speak of とか、名詞とはあまり関係なさそう。 -私には関係があるとしか思えません。He looked for. という文は成立しません。 ●7.論理学や言語学の入門書を読んだ方が、回り道をしなくて済みそう。今になって微分や積分を「発見」してしまうことの無いように、先人が通った道を知っておくことは無駄ではないと思う。 -一応、入門書の類は読んでいますが、まだまだ理解が及ばない部分があると思います。そのうち暇が出ればもっと読んでみようと思います。
補足
回答ありがとうございました。 ●1.伝統文法に自然科学もニュートン物理学もない。 その基盤はラテン語文法であり、さらに遡ればアリストテレス哲学である。その点、イエスペルセンはかなり特殊だけど。 -言語を空間と時間という2つの形式によって論じるにはニュートン物理学で十分だと考えました。ラテン語文法はあまり関係ないと思います。空間と時間という2つの形式がラテン語文法に由来するわけではありませんから。同様にアリストテレス哲学までさかのぼる必要があるとは思いません。ニュートン物理学を基礎づけようとしたカント哲学で十分だと思います。 ●2.<モノ><動き>は一般に entity および event と呼ばれる。もとは哲学用語だけど、論理学を通して、意味論でも用いられる。 -ご教示ありがとうございました。 ●3.主語や目的語が名詞とは限らない。 To drive a car can be dangerous. That the Earth is flat is clear. 動詞や節も<モノ>で、空間的なのだろうか? -3,4,5のご指摘はごもっともだと思います。それらを網羅しようとすると投稿文の字数(4000字)を軽くオーバーしてしまいます。それほど周縁的だと見なせない事象に関しては、これからそれなりの説明をしなければなりません。 To drive a car can be dangerous. におけるdriveは原形です。これは概念なので時間的な制約を持ちません。ということは、to drive a carという名詞句が時間的な制約を持たないものと見るしかありません。(当然ながら同様に空間性な制約も持たないと考えられます)。つまり、不特定の場所で不特定の時間において成立する事象だと思います。よって現実の動きではなく、カテゴリー的な動きだと言えます。 回答者さんによるto drive a carは空間的なのだろうか?という疑問についてですが、この疑問に答えるためには、空間と空間的と空間性をそれぞれ定義することから始めなければなりません。そして、空間の制約を持たないものは空間性を持たないとするのかを決めてから議論しなければなりません。当然、原形が使われる種々のパターンについて検証しなければなりません。そうすると長大な記述になります。私としてはそこまでしようとは思いません。よって、次のように述べました。 <カテゴリー表現は分析対象としません。カテゴリーは三次元空間と時間という認知形式の外にあるものだからです。ただし、I drank water. というふうにカテゴリーの部分、すなわち実体を表す場合は分析対象とします> このように議論の対象を絞らないと、議論が多岐にわたり、膨大な分量の記述が必要になると思います。ですから今回の私の議論はおおざっぱなものでしかありません。ご了承下さい。ただ、空間性等の定義は必要だったかも知れません。議論をおおざっぱに進めましたがどうしても厳密な定義が必要になればそうするしかないでしょうね。 また、to drive a carについて言うと、これは動詞を名詞として転用したものです。この種の転用まで分析すると、同種の議論があちこちが生じます。おそらく1冊の本ができあがるのではないかと思います。それゆえ、分析の対象外とさせて頂いというのが本音です。今回の議論においては、こういうふうに私にとって(議論の射程を狭めるために)好都合な設定をいろいろおいているわけですが、やむを得なかったと思います。 とはいうものの、そうした問題については、当然、私自身も考えてはいます。この文においては、原形のbeや形容詞のdangerous(概念)も使われていますから全体がカテゴリー的な表現になっていますが、とりあえず、to drive a carにのみ考察の焦点を合わせます。to drive a carは現実にTo drive a car can be dangerous. における主語として働いているわけですから、何らかの説明が必要だと考えます。周縁的事象ではないと考えます。 <文というものが成り立つためには、主語と動詞がなければなりません。一般に<モノ>を表すものと<動き>を表すものとで、この世の主たる出来事や状況が言い表されるわけですから、これは当然のことです。> というふうに投稿文中で述べました。では、カテゴリー的状況を表す文としてWater is a clear pure liquid. を取り上げます。この文が成立しない空間と時間はありません。つまり、時間的・空間的に不定だというだけのことで無時間的・無空間的とは言えないわけです。これをもって空間性と見ていいのかということですが、すでに空間性と時間性は有限の空間・時間を持つものとして定義したと思うので、この言葉は使えません。あらためて定義直すか、それともよくある手口ですが、メタ空間性なる用語を作り出すかということになりますが、いずれにしても空間的性質をもつことには違いないと思います(空間的性質という言葉には幅と柔軟性を持たせたつもりです)。 to drive a carも同様に考えたいと思います。to drive a carが全く空間性と時間性を持たないのであれば、この世での車の運転は不可能です。 次に、That the Earth is flat is clear. ですが、私としては次のような考え方を持っています。 <重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません> この記述で十分だと思うのですがいかがでしょうか。でも、節内をもう少し丁寧に分析した方がよいことは認めます。the Earth is flatについては、Water is a clear pure liquid. における分析が適用可能だと思います。<the Earth is flat>is clearについても同様だと思います。この命題(言明)が成立しない空間と時間はありません。 この考えでよろしいでしょうか。なお、私は論理学には詳しくないので、間違った議論をしている可能性はあります。 ●4.名詞も述語になるが、どう扱えばいいのだろうか? A: I believe him a genius. しかもこの構文は B: I believe him to be a genius. C: I believe (that) he is a genius. -それぞれにA,B,Cと符号を打たせて頂きました。A,B,Cは話者の信念が依拠する体験が直接的なものか間接的なものかということを除けば同意味のものと考えられます。よって、A、B空間性・時間性はCの空間性・時間性を示せばすむことだと思います。 Cにおけるhe is a geniusは先ほどのthe Earth is flatとWater is a clear pure liquid. の分析結果がそのまま当てはまります。I believe <(that) he is a genius>. は私の習慣的行為あるいは状態を表しますが、こうした状況が成立するには何らかの時間と空間が必要です。 A,Bについては言わずもがなだと思います。 ただ、Bの場合、問題になることがあるので少し触れておきます。I believe him to be a genius. におけるto be a geniusと、To drive a car can be dangerous. におけるto drive a carは全く異なる働きと意味合いを持っています。to drive a carは時間的・空間的に不定だと言えるはずです。カテゴリー表現です。 一方、to be a geniusにつてですが、話者は彼がgeniusであることをかなりの確度で想定しているわけですから、カテゴリー性が弱くなると考えます。例えば、I ordered the boy to be quiet. においては、be quietが現実化する、すなわちその少年が次の瞬間にもおとなしくなる可能性が高くなるのと同じことです。ということは、時間・空間的性質が強まると思います。 A: I believe him a genius. についてですが、him a geniusという形はhe is a geniusという形の変形として存在すると考えられます。Jespersen流に言えばネクサスですね。というわけで問題ないと思います。 ●5.節には名詞節・形容詞節(関係節)・副詞節・主節がある。 存在論的にはどうなるんだろう? -たしかに細かく分析する必要があるとは思います。そうなると、長大な分析結果が出るでしょうし、分析すればするほどさらなる分析が必要になります。一冊の本ができあがると思います。誰も読まないと思います。 <重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません。> -というだけでは不足でしょうか。たしかに舌足らずという感はあります。これ以上分析するとこじつけっぽいものになるような気がします。 残りはお礼に回します。
お礼
再々度の回答ありがとうございました。 ●<「ある語に修飾語がつくことによって、その語の外延が作られると考えるのは正しいか」についてはこう考えます。これらの副詞句、前置詞句、接続詞などを使って膨らませた名詞句・名詞節表現もその名詞の外延と見なすことは、「不可能ではないと思いますが、その必要はない」かも知れませんね> -たしかにそうですね。<正しいか>でなく<可能か>と問うべきでした。おそらく、私自身も可能だと思います。何かの機会にこの考えが利用できることがあるかもしれません。 ●<ところが、補語の場合は、本体から離れた述語部分をもって、すなわち、S=NP+VPのVPをもってNPの外延と見なすことになるわけですから、これはいささかきついと思われます。もしこれもありと認めるなら、無限に外延を拡大できることになってしまうからです> -そりゃ、そうですよね。実は<無限に外延を拡大できる>のであれば壮大な存在論ができあがるのになあ、という思いがよぎったのです。そんなことがあるはずないと思いつつ、一応ご意見を伺ったわけです。 ●<ということで、「範疇カゴ」の分類は、「範疇カゴA」や「範疇カゴB」は変わりませんが、「範疇カゴC」の成員は少し増えて、《「機能語(前置詞・接続詞・関係詞・疑問詞など)の「媒介素」―自身は空間性と関わらないが、空間性と関わる他の語句や表現を媒介するグループ》となりますので、このカゴだけがかなりの「大所帯」になりますね> -たしかに「範疇カゴC」はかなりの「大所帯」になりましたね。でも、ことを片づけるにはそうするしかなさそうですね。 ●マク=タガートの提唱する時間の実態3形態ですが、全く同感です。これならニュートンだけでなくライプニッツの考えも網羅していますね。 ●文構造を空間・時間的性質から俯瞰するという初志は曲がりなりにも、一応果たされたように思います。そろそろ兵の引き時です。ありがとうございました。 ●今回の投稿を切りにしてしばらくこの投稿コーナーからお暇させて頂こうと思っていたのですが、大事なことを忘れていることに気づきました。私のそもそもの投稿意図は、実際面での指導と自分の勉強の基礎固めを目指すものでした。主たる議題は冠詞を中心とする限定詞にまつわるものでした。それゆえ、冠詞について一定の確固たる見解を持つに至っていなければ基礎固めが終了したとは言えないのではないかと思いました。 というわけで、次回、そのようなテーマで投稿したいと思います。タイトルは<冠詞の発達と言語意識の変遷について>です。近日中の投稿を予定しています。冠詞の具体的な用法についてではなく、無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や思考とどのような関わりを持ったかということについてです。私が冠詞について真の理解を得ているかどうかが試されるような話題にします。よろしければおつきあい下さい。 今回もありがとうございました。 ●追伸です。前回の<定冠詞は「全体」を指し示すか>における議論の中で、The whales can die out in the near future. において定冠詞が使われる理由は、こうした定名詞句を要求するような先行文脈が存在するはずだと述べました。すなわち、鯨の話とか、絶滅危惧種の話とか、食糧資源の枯渇の話とかがすでに出ているはずだと言いました。 もちろん、そうしたことがこの文中で定冠詞が使われる理由の一つであることはたしかです。でも、もっと本質的な理由があることを思い出しましたので、遅まきながら記させて頂きます。以前、the United Statesにtheがつく理由として、そのような集団として共同体に承認されているからという理由を述べましたが、これは敷衍すると、アメリカを構成する州という特性を共有する集団は一つしかないと認められるので容易に同定可能であるということです。 上で取り上げたthe whalesもそうです。鯨が持つような属性を備えた集団が全員すっぽりと入る入れ物は一つしかありません。よって定冠詞がつくわけですが、先行文脈の有無に関係なくtheがつきます。もちろんthe whalesが全体だからということではなくて、the whalesがそうした属性を備えた集団の全員を収めたただ一つの入れ物だからということです。他に、the Beatlesやthe youngやthe Japaneseにも当てはまります。 以上です。失礼しました。