- ベストアンサー
暗殺理由の説明
織田信長は、実の弟である信勝(信行)を 仮病を使い呼び出し、見舞いに来た信勝を 家臣に殺害させました。 信勝は最初、見舞いを渋ったとの事ですが、 母の土屋御前に説得され、渋々、出向いた との事。土屋御前はいよいよ最期を迎えそうな信長の病と素直に信用していたのでしょう か。そして容姿端麗、人望もあり頭の切れる 信勝を溺愛していたといわれる土屋御前に、 この出来事をどう説明したのでしょうか。 罠にかかった信勝ですが、用心はしていなかったのでしょうか。 信勝の乱心の為、やむ無く?とでも愛する 母上に説明したのですか。 教えて下さい。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
似たような話は戦国時代にはゴロゴロ転がっているので、よくあることといえばよくあることだったでしょうね。 とはいえ「暗殺されるのが怖いから行きたくない」といってばかりもいられませんから、いろんな口実で「行かないわけにはいかない」というふうに持っていくことはあるでしょうね。 また信勝側としても「本当に病気なのか、死にそうなのか、この目で確認しておきたい」という思惑もあったかもしれません。もし本当に死にそうなら「次はお前に任せる」という言質をとっておくのはとても大切なことです。 母親に対する説明は「殺しちゃったよ。しょうがないよね、アイツ危険だもん」だったでしょうね。当時は女性の社会的地位は低く、戦国大名の娘でも「女」と名前さえも記録に残してもらえないケースがよくありました。当時の武士、特に大名レベルのような上級武士の世界では女性はそれこそ「産む機械」にしか過ぎなかったでしょう。 なにしろ信長は、妹の夫も殺しただけじゃもの足らず、頭蓋骨に金箔を貼って盃にするなんて趣味の悪いことやってんですから。
その他の回答 (1)
- gunsin
- ベストアンサー率32% (416/1291)
一番信頼出来る、信長公記にも詳細に記されていないので、 信長自身による記録でも見つからない限り不明です。 当時の奥方は世継ぎを産むのと家と家を繋ぐ道具でしかないので、 殺されてしまっては後の祭りで泣いて我慢するしか、なかったと 思いますが。 北政所みたいに、一声掛ければ、10万の兵が馳せ参じる様な チカラがあれば別の話ですが・・・
お礼
回答ありがとうございます。 信長公記、しんちょうこうき と読むの ですね。知りませんでした。 筆者の太田牛一は、『正直に書いた』と 言っていたそうですから、真実なのでしょ うね。そうですね。あの時代に女性に発言権 も、何の権限も無いですね。 それより、信長の気に障れば自分の命が危ぶまれます。身内にも容赦ないヤバさです。 重ねてありがとうございました。(^o^)
お礼
回答ありがとうございます。 分かりやすい解説に感謝致します。 『アイツ危険、だって領主の座狙ってるし、 御袋殿もアイツ推しでしょ?』という感じでしょうか。 そうそう、小学生の時の先生のお話で、真実かは不明ですが、とある日、信長は城から見ていてお腹の大きな女を連れて来させ、腹を かっ裂かせたととか……。好奇心が勝ったの でしょうね。立ち会い出産など無い時代、 赤子は腹の中でどんな状態なのか知りたかったのか。なんせ、長男に『奇妙丸』と名付け てしまうおヒト。キラキラネームを越えています。わたしは思うのですが、彼は、最愛のきつ乃を失ってから、何をしていてもつまらなくなってしまったのかしら、と。 他人の命は勿論、自分の命にさえ執着して いないような。 信長に接見した外国人が彼の似顔絵を描いたものをご覧になった事はありますでしょうか あの信長の肖像画とはまるで違い、写実的なのです。こういう顔だったのだー、と目から鱗が落ちました。 あ、何か、脱線してしまい、ごめんなさい。 重ねて、ありがとうございました。(^o^)
補足
回答、感謝です。