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谷口正乗が就任した物の地位や身分はどれぐらいの高さ
- 谷口正乗が就任した地位や身分について、『小普請』から『番頭』まで昇進したことが記載されています。
- 『谷口正乗』は、最初は『小普請』となり、次に『小性』となり、その次に『小性頭』となり、最後に『番頭』となりました。
- 『小普請』や『小性』などの地位はどれほどの高さか疑問として提起されています。
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正乗がなった「小普請」は、3000石以下の旗本・御家人の無役の者が所属する組織で、一口に「小普請」といってもいろんな身分・地位の人がおり、役職についていた人が小普請になるのは懲戒処分を意味したりしますが、ここで重要なのは小普請になったことよりも、300俵の家禄と将軍吉宗の拝謁をたまわったことです。これによって京都の浪士だったであろう正乗が旗本として召抱えられたわけです。300俵という禄高は下級旗本の部類です。 その後になった小五郎君の「小性」(小姓)の御定高は金20両。このように規定の給料が低いのは遊び相手として子どもがなる場合も多い役職だからだと思います。後に家老にまで出世した田沼意誠(田沼意次の弟)が小姓になったのは12歳。意誠は小五郎君と同い年です。 正乗は小姓になった当時30歳。翌年には小姓と同じく側近として使える役職で、より重要な秘書的な業務をする「用人」になっていますから、もともと用人に取り立てる予定で小姓にしたのかもしれません。用人は家老などとともに「八役」と称される一橋家の上級職で、御定高は400俵です。 さらに、小姓になってから1年4ヵ月後の元文元年12月には「布衣」を許されています。「布衣」を許されることは、官位でいう六位相当の身分を与えられたことを意味し、身分・地位を表すものとしては禄高や用人などの役職よりも重要です。跡継ぎの正熙が内蔵助を名乗ることができたのもこれのおかげで、下級旗本から一段上の中級旗本になったといえます。 5年後の寛保元年11月になった「小性頭」という役は、一橋家の八役のなかにはありませんが、200石を加増され禄高500石となったことからみても、小姓を統括するかなり重要な役職だと思います。500石は中級旗本としては低い石高です。 その後になった番頭は八役の一つで役料500俵。戦国時代でいうところの侍大将にあたる軍事部門のリーダーです。
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- ithi
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ruwmkさん、こんばんは。 番筋では両番筋。家格から言うと平士です。でも、役職を出世して、最後は布衣になっていますね。詳細は下記のURLを参照ください。 平士・布衣 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A1%A3 両番 https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E7%95%AA-659519
お礼
御回答ありがとうございました。 よくわかりました。
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