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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:秀吉の書状「信長は生きている」。)

秀吉の書状「信長は生きている」

このQ&Aのポイント
  • 秀吉がウソをついた理由は何だったのか
  • 秀吉が中川清秀にウソをついたことの理由について、想像してみましょう。
  • この手紙の詳細な内容や全文が読めるサイトを教えてほしいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.1

戦争のときというのは、様々な不確かな情報やデマが行き交うものなのです。 天安門事件のとき、確かNHKのニュースだったと思うのですが、記者が「香港のある信頼できる情報筋からによりますと、学生を支援する第9軍が学生たちを救うために北京に向かい、北京の人民解放軍部隊と銃撃戦が発生しているとのことです」と報じていて「えっ、内戦じゃないか」と驚いたことを今でもよく覚えています。結局これは誤報でした。 湾岸戦争のとき、まだ多国籍軍が空爆をしている状況で「イラク軍戦車部隊が反撃に出てサウジアラビア領内に侵入して戦闘状態に入っている。これにより多国籍軍地上部隊に大きな損害が出ている」という情報もありました。これも誤報でした。 また戦後「イラク軍は多国籍軍に対して毒ガスを使用したのではないか」という疑惑が持ち上がりました。詳しくは割愛しますが、戦争中はその噂もチラッと出ましたが早々に「誤報であった」と打ち消されました。戦後に「いや、やっぱりどうやら使ったのではないか」という話が持ち上がったのです。 かようにそういう状態となると、意図的な偽情報も含めて様々な情報が行き交うカオスな状況になります。 秀吉が「信長さまは生きている」と高らかに宣言すれば「重臣である秀吉の情報だから、信頼できるのでは?」と考える人は多いでしょう。そうなれば当然「じゃあ、光秀の味方をするのはやめるか」とか、少なくとも真偽がはっきりするまでは中立でいようということになります。秀吉からすれば、光秀優位の流れを止めることができますし、光秀陣営に揺さぶりをかけることもできます。なにしろ(当時そのことを秀吉は知らなかったと思いますが)信長の遺体は見つかっていません。「もしかして、取り逃がしたのか?」と疑心暗鬼にもなるでしょう。 「情報戦」というのは、そういうものなのです。意図的に偽情報を流すことも必要なのです。 中川清秀らもそんな戦国時代を生き抜いてきた人たちですから「あのサルめ、ウソをつきやがったな」とはいちいち考えないのです。「騙したやつは狡猾で優れている。騙されるやつが愚鈍」そういう時代です。正直は美徳でもなんでもない時代なのですよ。だまし討ちをしたとしても、殺された相手から訴えられることも復讐されることもないですからね。 言葉は悪いですけど、斎藤道三も毛利元就も人を騙して騙してあそこまでビッグになったのです。戦国武将っていうのは、任侠の親分ですからね。仁義なき戦いだと思えば、何の不思議もないでしょ?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答真にありがとうございます。 質問文で肝心なことを書き漏らしていました。お詫び申し上げます。 「膳所に逃れて無事」という箇所で、膳所を挙げている点です。 「本能寺を脱出して」とか「京を脱出して」とかでも十分伝わると思います。 また、この内容ならウソをついたことになりませんね。 まだ遺体が見つかっていないのですから。 光秀の本拠地である坂本城に近い膳所を示したのは、秀吉としては、中川清秀に早く信長様の許に駆け付け、身辺を警護せよとの意味だったのでしょうか。 6月2日に信長親子を討った光秀は、その日の夕方には坂本城に入っていますが、おそらくそうするだろうと、秀吉他の武将たちも思っていたはずです。 であるのに、膳所の名を挙げているのが疑問です。

その他の回答 (3)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

>膳所を挙げている点です。 「本能寺を脱出して」とか「京を脱出して」とかでも十分伝わると思います。 京を東に脱出して最初に出る場所が膳所です。当時は大津上がなかったので大津市を代表する地名が膳所です。 信長様は無事京を脱出した、それを一番もっともらしく表現する場所が膳所です。西に脱出したとなると清秀は信長の確保に飛び出すことになり秀吉にとっては都合が悪い。だから東にしたのでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 なるほど! こんな報せがあったと、もっともらしく書かねばなりませんからね。 しかも西方では具合がわるいから膳所だと。 書状の日付は天正10年6月5日ですが、5日であれば秀吉は、通説によればまだ高松城攻めの陣中です。 京からの情報は、摂津衆の方が早くて、多いはずです。 その摂津衆に「信長・信忠父子は膳所に逃れて無事」と具体的な地名を挙げた秀吉の判断はさすがだなと思います。

回答No.3

当然です 清秀が光秀に味方するのを防ぐため 「御館様(信長)は近江の膳所ヶ先(大津)まで落ち延びた」と送っていますね 清秀はのちに「秀吉に騙された」と憤慨し 散々に秀吉の悪口を言い散らしました そのせいで賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍の先方に立たされ 柴田軍の囮にされて殺されました

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答真にありがとうございます。 質問文で肝心なことを書き漏らしていました。お詫び申し上げます。 「膳所に逃れて無事」という箇所で、膳所を挙げている点です。 「本能寺を脱出して」とか「京を脱出して」とかでも十分伝わると思います。 また、この内容ならウソをついたことになりませんね。 まだ遺体が見つかっていないのですから。 >清秀はのちに「秀吉に騙された」と憤慨し散々に秀吉の悪口を言い散らしました あり得る話ですが、出典を教えてくださいませんか。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.2

>秀吉は、なぜウソをついたと考えられますか。 信長が生きている事になれば、光秀側につく武将が減りますよね。 「秀吉は嫌いだが、光秀に味方するのは・・・」と考えている武将は、信長が生きているのなら光秀を討つ側=秀吉側につきます。 武田信玄も、「3年間は死を隠せ!」と遺言を残しています。 >この手紙のもう少し詳しい内容か、またはこの手紙全文を読むことができるサイトがあれば教えてください。 HPで検索するしかない!?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答真にありがとうございます。 質問文で肝心なことを書き漏らしていました。お詫び申し上げます。 「膳所に逃れて無事」という箇所で、膳所を挙げている点です。 「本能寺を脱出して」とか「京を脱出して」とかでも十分伝わると思います。 また、ウソをついたことになりませんね。 まだ遺体が見つかっていないのですから。 光秀の本拠地である坂本城に近い膳所を示したのは、秀吉としては、中川清秀に早く信長様の許に駆け付け、身辺を警護せよとの意味だったのでしょうか。 6月2日に信長親子を討った光秀は、その日の夕方には坂本城に入っていますが、おそらくそうするだろうと、秀吉他の武将たちも思っていたはずです。 であるのに、膳所の名を挙げているのが疑問です。