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織田信長と豊臣秀吉

織田信長と豊臣秀吉のの関係ってなんなんでしょうか…。 織田信長って全国を統一したんでしたっけ? それとも豊臣秀吉でしたっけ? もしよければ、織田信長と豊臣秀吉のおこなった事をくわしく教えていただけませんか?

みんなの回答

回答No.7

1.織田信長公と豊臣秀吉公の御関係は、主君と侍です。 2.織田信長公はモンゴル大帝国に続く、文字による世界史上二度目であり、古今東西にモンゴル大帝国と北方ユーラシア無文字文明以外に例のない「世界帝国」を目指していらっしゃいました。 織田信長公は南方の海づたいにヨーロッパを落とす戦略をお持ちでした。 織田信長公は、それゆえに、ローマ教会の命令で宣教師の謀略で暗殺されました。 つまり、当時の日本とヨーロッパ全体が戦争すると、日本が勝っていたということを示すということです。 3.それに対して、豊臣秀吉公は、織田信長公の遺志を継いでいるつもりでいらっしゃいましたが、支那文化圏という狭い範囲で「皇帝」になることを目指していました。 それゆえに、豊臣秀吉公は「明出兵(「朝鮮出兵」ではありません。朝鮮になど何もありはしなかったのですから。)」という陸上戦略をとってしまいました。 飛び石戦略で織田信長公の戦略通りに南方の港港を抑えて、陸上戦はヨーロッパ大陸でヨーロッパ諸国とだけ行えばよかったのです。

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  • kazutatu
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.6

織田信長は、戦国時代でもっとも天下統一を志した人です。 三大武将で最年長であり、豊臣秀吉はその家臣です。 信長が上司で秀吉が部下。 「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」 上記の詩は 織田信長が天下を取るための勢力の準備をして(織田がつき) 豊臣(羽柴)秀吉が天下を取って(羽柴がこねし天下餅) 徳川家康が二度と戦国の争いが起こらぬように総仕上げとして幕府を開く(座りしままに食うは徳川) 質問でいくと、天下を取ったのは、秀吉でしたが、実質最終的には徳川が今の世を作りだしたというのが簡潔な答えでしょう。 信長の統一事業は 簡単に言うと、数々の末恐ろしい大名を後の乱にならないように滅ぼした。 秀吉は それを引き継いで天下を統一した後、戦乱でぼろぼろになった農家や商業を復興させ、農民一揆が起こらないよう、刀狩を行っています。 (徳川家康は武士の総取締役である征夷大将軍になり、幕府を開きます)

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  • manaki
  • ベストアンサー率14% (5/34)
回答No.5

織田信長は天下を目前にして本能寺の変で家来の 明智光秀に殺されました。 信長は1560、桶狭間の戦いで今川義元を殺した。 安土城を建てて楽市楽座の令を出しました。 山城の国一揆や、延暦寺の焼き討ち、3千挺の鉄砲の 長篠の戦い、室町幕府を滅ぼす。のようなこと をしました。 豊臣秀吉は信長の使いになり太閤というところまで 出世しました。 高松城の水攻め、墨俣の1夜城、山崎の戦いで光秀を殺す 小牧、長久手の戦い、大阪城建築、太閤検地、刀狩り  文禄、慶長の役(朝鮮半島を攻める) 千利休を殺すっということになります。

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  • seapapajp
  • ベストアンサー率27% (43/155)
回答No.4

織田信長と豊臣秀吉の関係はみなさんが書かれている関係です。  織田信長が行った最大の偉業は、戦いの方法で、兵隊の大半は農民であったため、田植えや稲刈りの時期は戦いを止めていましたが、信長は初めてお金を払って兵隊を雇う制度を採用し1年中戦いをできるようにしたため強かった事です。(職業の世襲制度をなくした)  豊臣秀吉が全国統一を行ったのですが、最大の失敗は、大名への報酬を土地のままであったため、戦争がなくなったことで報酬を与えることができなくなり、新しい領土の確保のため朝鮮に攻め入ったことです。  その後、大名を止め商人となったのが三井や住友のような財閥が生まれた事です。

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  • kuma56
  • ベストアンサー率31% (1423/4527)
回答No.3

信長・・・戦国武将。天下を目指したが志半ばで謀反に会い自刃 秀吉・・・戦国武将。信長の配下の武将としてドンドン出世して、最後は天下を統一した。 室町時代は長く続きましたが、その晩年はやはり勢力が衰えてきて、今川・毛利・武田・上杉などの勢力が天下を治めんと、近隣諸国を攻め取り始めました。 そんな戦国時代の中で、最新鋭兵器だった鉄砲を有効に使い、また柴田・前田・明智・羽柴などの有能な武将を配下に持っていた織田信長は、尾張の所領をドンドンと広げていき、天下を取らんばかりに勢力を拡大していきました。 室町幕府も終焉を告げ、いよいよ信長の天下統一の野望が達成されるかと思われたとき、信長は部下の明智光秀の謀反に会い、本能寺で討たれます。 羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉は、初めは木下藤吉郎と名乗り、信長の部下の中でも身分の低いものでしたが、やがてその才能を発揮して戦やその他もろもろの事で成果を挙げ、ドンドン出世して織田家の重臣になりました。 信長討たれる!の報を聞き秀吉は、すぐさま軍勢を率いて明智光秀を討ち、主君信長の敵を討つと共に、信長亡き後の世で各地を平定し天下を統一して、太閤の位に上り詰めました。 この辺は歴史的にもなかなか面白い時代なので、いろいろな書物などに取り上げられています。 代表としては"太閤記"などがありますので、イロイロ探して呼んでみると良いのではないでしょうか

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  • liar_adan
  • ベストアンサー率48% (730/1515)
回答No.2

信長が主人で、秀吉が家来です。 信長は、全国統一を進めており、 現在の愛知県あたりから始まって、 関東から中国地方くらいまで攻略しました。 日本全国ではありませんが、戦国大名中最大の力を得ていたので、 そのまま生きていれば完全に全国を統一したでしょう。 しかしその途中で、家臣の明智光秀に殺されます。 その光秀を討ったのが秀吉です。 秀吉は当時は、 「信長を社長とすると、何人かいる部長の一人」 くらいの立場だったのですが、 かたきを取ったことで一目置かれるようになり、 やがて最高権力を得て、北海道・沖縄を除く日本を統一します。

rzeocnceos
質問者

お礼

前半わかりやすかったです。 回答ありがとうございます

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  • kl6t
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.1

あまりよくわからないのですが・・・ 小学校の教科書にのっていたことで 織田信長は鉄砲を広めた人で他にキリスト教を保護したり南蛮文化を取り入れた人です。若いころは織田の若者はおおうつけ(大ばか者)だと呼ばれていたそうです。豊臣秀吉は全国を統一し、刀狩や検地を行ったそうです。大阪城を築いたのも豊臣秀吉です。

rzeocnceos
質問者

お礼

ありがとうございます

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