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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「手取川の戦い」における秀吉の離陣)

秀吉の離陣理由と信長の逆鱗について

このQ&Aのポイント
  • 手取川の戦いでの秀吉の離陣は、羽柴秀吉と勝家が不仲であったため起こりました。
  • 秀吉が無届けで離脱したため、信長の逆鱗に触れ、太田牛一は迷惑だったとされています。
  • 秀吉が戦線から勝手に離れ、大敗したことは信長にとって非常に問題でした。しかし、秀吉が信長から信頼されていたことも事実です。

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  • eroero4649
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回答No.1

残る資料が少ない上に、主な当事者である柴田勝家は後に羽柴秀吉によって滅ぼされ、一方の秀吉は天下人になったわけですから、秀吉にとって都合の悪い事実は隠蔽・改竄されている可能性を否定することはできません。 そもそも合戦そのものがあったかどうかもはっきりしていません。ウィキペディアにもあるように、合戦の記述がない資料もあります。 またこの当時の組織というのは、現代社会の企業のように体系化されていません。織田家は当時としては非常に近代的というか中央集権的で現代企業に近いような組織ではありましたが、当時は基本的に各武将は独立採算制となっています。 つまり羽柴家は羽柴家で自前で家臣団と軍隊を持っており、これはいってみれば独立企業といってもいい存在でした。当然羽柴家の人事には柴田勝家はもちろん織田信長とて口出しはできません。羽柴家の家臣は、羽柴家の社員なのです。 本能寺の変で、明智光秀の家臣から誰も織田信長に密告した人が出なかったのは、彼らにとっての「殿様」は明智光秀でありその忠誠心の揺らぎがなかったからです。「これから織田信長を討つぞ」といったら「はい分かりました。殿のご命令とあらば」だったのです。 中世の武士にとって最も大事なことは「我が家を存続させること」です。戦国大名はその家臣たちに「この大名についていけば我が家の存続が担保される」という信頼があればこそ存在しうるわけであって、その信頼が失われたら、簡単に捨てられる(裏切られる)存在にしか過ぎなかったのです。 その典型が武田家の滅亡のときですね。木曾義昌が武田家を裏切って信長に内通して織田軍が攻めてくると、ドミノ式に武田家の家臣団が信長に降伏して武田勝頼を見限っていくわけです。 あれは戦国時代の武士の価値観からすると「求心力を失った頼りにならない勝頼が悪い」のです。 手取川合戦のときの羽柴秀吉の動きがどうであったかの歴史的事実はさておき、当時の武士団の忠誠心というのはまあそういうものだったんですよ。一枚岩にまとめられるかどうかはそのリーダーの資質にかかっていたといえますね。厳しい時代ですね、部下から「使えない上司だ」と思われたら容赦なく逆リストラされるのです。武田信玄の父である武田信虎がそうだったといえるでしょう。 しかしそれだとコロコロ主君を変えられてしまうので(実際、戦国時代はみんなコロコロ主君を変えました。主君を変えるのは、アルバイトが仕事先を変えるくらい当たり前のことだったのです)、世の中が安定の時代になった江戸時代には朱子学っていうのを中国から輸入して「武士は二君に仕えず」みたいな価値観を広めていくようになったのです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご回答の一つ一つが、どうも「戦国時代」や「武士」というものに対してこれまでに持っていた観念を捨て去らないと、この時代を理解するのは難しいということが分かりました。 部下から「使えない上司だ」と思われたら容赦なく逆リストラされるのです。……厳しいですね。

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