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江戸初期までの武士の名誉と事件
- 江戸初期までの武士社会では、私的名誉心が旺盛で、主人に対する忠誠心と共に賞賛されていました。
- 名誉が傷つけられた場合、武士は堂々と戦うことが許されており、そのような行動は犯罪とはされませんでした。
- 江戸初期には、名誉のために籠城しての戦闘が頻発しましたが、これらの事件は正当な行動とされていました。
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No.2の回答者です m(__)m そうですね‥‥‥槙島城に籠った足利義昭氏なんかの人々の場合は,やはり,征夷大将軍としての矜持や誇りなんかが あったと思うのですが,例えば,豊臣秀吉氏に 最後まで屈しなかった,千利休氏なんかは,やはり,茶道家,茶人(聖)としての矜持などがあったと思いますし,なんだかいいタイミングで 謀反の疑いで 捕らえられ,最終的に,近習達と,寺で自害(切腹)した,関白豊臣秀次氏など,理由などは,よくわかりませんが,最後は,まさに 潔さなどが 感じられますし,豊臣秀吉氏も けっこう 怖い 部分がある人物ですよね‥‥‥古参の家臣,神子田正治氏を追放,切腹させ,晒し首などにしたり,パワハラで有名なのは,やはり,織田信長氏のようですが,突然 謀反を起こした 荒木村重氏なんかも,裏切った理由は,諸説あるようですが,なんせ 織田信長氏の怒りやパワハラは,すごかったようですので,三木城の別所氏の籠城もそうですが,配下に入ったり,与しても,織田信長氏についていくのは,いろんな意味で,普通の武将などには,大変だったんでしょうね‥‥‥‥
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- kitsunetoneko
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(1) (3) う~ん 例えば,中世的な位階や官職,身分制度,家格や家柄(出自)などに基づいた名誉ですかね‥‥‥‥例)『御舘の乱』→後北條氏のプリンス,上杉景虎(本名;北條三郎)氏 vs 上杉景勝氏とか,『本能寺の変』で有名な,清和源氏土岐氏庶流,明智光秀氏 vs 越前忌部氏出身の織田信長氏 とか,清和源氏河内源氏支流出身の足利義昭氏 vs 同じく織田信長氏の,『槙島城の戦い』とか,清和源氏河内源氏支流足利氏の支流,今川氏のプリンス(馬鹿息子)今川氏真氏 vs (元人質)徳川家康氏 とか,自称桓武平氏(平清盛流)伊勢平氏出身の,後北條氏 vs 農民or足軽出身の関白,豊臣秀吉氏の,『小田原征伐』とかですかね‥‥‥‥‥他にも,浄土真宗本願寺派門主,顕如 vs 織田信長氏の,『石山合戦』とかも 有名ですね‥‥‥‥‥ (2) 身分制度上の正当防衛という意味でしょうか‥‥‥?大坂の陣も,摂関家の豊臣氏 vs 元家臣の徳川氏ですしね‥‥‥‥
お礼
ありがとうございました。 う~ん 例えば,中世的な位階や官職,身分制度,家格や家柄(出自)などに基づいた名誉ですかね……いろいろと例をあげていただきましたが、私には歴史的な知識がないので分かりません。申し訳ありません。<(_ _)> 要は、「自分の名誉のために主人に抵抗した」ということの内容が知りたいのです。 身分制度上の正当防衛という意味でしょうか……私は、「違う」ような気がします。現代人の感覚からすれば、むしろパワハラに対して抵抗した「その意識」は何なのか???それが知りたいのです。
- eroero4649
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司馬先生がどの件を指しているのか分かりませんが、有名な事件といえばなんといっても忠臣蔵で知られる赤穂浪士討ち入り事件でしょう。 事のきっかけは、浅野内匠頭が例の松の廊下で吉良上野介に対して刃傷事件を起こしたからです。なぜ浅野内匠頭が吉良に斬りかかったのか、その理由は今も明らかになっていません。忠臣蔵ではワイロが足りなかったとかイビられたとかそういう理由にされていますが、どうやら事実ではなかったといわれています。 近年では、浅野内匠頭が元々エキセントリックな性格であったことが明らかになってきて、理不尽な理由でブチ切れたか、逆恨みでもしたんじゃないかという説が有力になっています。 ちょっとヤバいお殿様が、公式の場でキレて騒動を起こしたんだから現代なら当然浅野内匠頭が悪いとなることでしょう。実際、ときの将軍徳川綱吉(←こっちもエキセントリックな性格で有名)は激怒してその日のうちに浅野内匠頭を切腹させています。 ところが当時の決まりでは「喧嘩両成敗」となっています。トラブルが発生したら、どっちが悪いとかではなく、双方に責任があると双方の責任が追及されるのが当時のしきたりだったわけです。ところが松の廊下事件は喧嘩両成敗ではく、浅野内匠頭が一方的に悪者にされて切腹させられたのです。 これが当時の人々にとっては「浅野家は武士の体面が傷つけられた。つまり恥をかかされた」と映ったのです。だから当時の人々にとっては「討ち入るのが武士のプライドやろ」だったのです。武士から町人に至るまで仇討ちを楽しみにしていたのです・笑。 忠臣蔵では、赤穂浪士が討ち入ったときに隣家の武家が提灯を掲げて弓を用意し、吉良藩の武士が逃げようと乗り越えてきたら射ってしまえと命じる場面があります。ドラマや映画などでは竹竿につけられた提灯が掲げられますね。 どうもこの話は事実だったみたいなのです。でも不思議に思いませんか。急にそんな提灯なんて用意できないし、弓道は当時でも誰もができるものではありません。そもそも弓矢も用意しなけりゃいけない。てことは、提灯や弓矢や弓道を心得た武士たちは準備して待っていたと考えるのが自然です。騒ぎを聞いて「おおっ、いよいよ始まったぞ!」となったわけですよ・笑。 また当時の江戸は夜になると木戸が閉められて自由に移動できなくなります。移動したいと思ったら木戸番という木戸の管理をしている人に頼んで通用口を開けてもらう必要がありました。 赤穂藩は武家火消をやっていた関係もあって、火消の格好をして何人かに分かれて「火事の見回りだ」とかいう口実で木戸をくぐり抜けて吉良邸に三々五々で集まってきました。木戸番は、不審な人物が夜中にやってきたら速やかに通報する義務があります。 いくら武家火消の格好をしたというところで、槍は火消にはいらない・笑。怪しい。どう考えたって怪しいです。でも、それを通報した木戸番は誰もいなかったし、咎めた木戸番もいなかったのです。みんなしれっと「ご苦労様でございます」とかいって通しちゃった。内心「いよいよ今夜かあ」って思いながら・笑。 討ち入り後の浪士たちは、泉岳寺に向かう道すがら、回向院で休息をとろうとしますが、後のトラブルを恐れた回向院は浪士の入場を断ります。その後、永代橋を渡ったところでちくま味噌という味噌屋の主人が浪士たちに甘酒粥を振舞ったという記録が残っており、この主人は江戸っ子たちの間で男を上げたと評判になったそうです。 なにしろ赤穂浪士討ち入り事件、一番迷惑をこうむったのは「討ち入らなかった赤穂浪士」です。討ち入った浪士たちは武士の本懐を遂げたと評判になったぶん「アイツらは討ち入らなかった」といわれてしまったわけです。隠れるように暮らしていた赤穂浪士も多かったといいますね。現代のネット炎上にも匹敵する「討ち入らなかったやつらバッシング」が起きたそうですよ。
お礼
ありがとうございました。 討ち入った浪士たちは武士の本懐を遂げたと評判になったぶん「アイツらは討ち入らなかった」といわれてしまったわけです。隠れるように暮らしていた赤穂浪士も多かったといいますね。……「人間の本質」が見えるような気がしますね。 司馬先生がどの件を指しているのか分かりませんが、……それが質問の主題なのですが、「忠臣蔵」のようなものではないような気がします。というのは、確かに忠臣蔵も、「武士の名誉」ということが背景にはありますが、「主君の仇を討つために他家の殿様を討つ」ということであって、「直属の殿に辱められて、その殿に反抗する。」というのとは性格が全く異なるような気がして、このような世界があることを知らなかったので質問しました。「殿は絶対」という中でそれ以上に「武士の名誉」というものを重んじた世界を知りたかったのです。 質問の一節の続きを下記に紹介します。 江戸中期以後、そういう異常事態のもとでの私的名誉心の昂揚は、かげをひそめた。ただ薩摩藩に濃厚に遺った。薩摩藩にあっては他藩の藩士が単に俸禄生活者の意識に堕して行ったとき、なおも鎌倉・戦国の武士の倫理的古俗をのこし、そういう気分の者をむしろ積極的に珍重し、そういう者でなければいざというとき物の役に立たないという藩精神をつちかった。 この藩では、幕末においても戦国武士のような倫理上の事件がおこっているのである。文久二年(一八六二年)の寺田屋騒動がそうである。藩士有馬新七、田中謙助らが公武合体主義の島津久光の方針と一致せず、浪士とともに伏見寺田屋に集合して志士的一揆をおこそうとした。久光は手もとから奈良原繁ら八入の討手をさしむけた。有馬新七らはその討手を迎え討って堂々と戦い、闘死した。この有馬らを久光も倫理的には不忠とはしなかったし、藩士一般もその潔さと勇敢さを公然とほめた。そういう藩風であった。 た。 ただ、「寺田屋騒動」も、私の知りたいことではありませんし、「江戸初期までの武士の名誉」ということとはそんなに関係しないというか、むしろ、「表現に無理がある」、あるいは「無理にこじつけている」いるような気がしています。 質問の趣旨は、「直属の殿に辱められて、抵抗した」ということに関心を持ったのです。現代では珍しくもないことだとは思いますが、(*^_^*)
お礼
再度、ご回答いただきありがとうございました。 質問していながら、ご回答の意味が分からないという情けない状態ですが、最初のご回答も含めて、読み返しているうちに、ご回答の趣旨が少し理解できるようになりました。 中世的な位階や官職,身分制度,家格や家柄(出自)などに基づいた名誉ですかね……そのようなことでしょうか???本来の「武士の姿」というのは、位階や官職,身分制度,家格や家柄(出自)にとらわれない、例えば「意地」とか「恥」といったようなプライドがあったのではないか???という気がして、その「プライド」とは何だろうか、そのプライドの「根源」は何だろう???江戸の安定期には失ってしまった「プライド」というのは何だろうか???という疑問だったのです。 司馬遼太郎が何を言いたかったのか、私には分かりませんが、ご回答にあるようなことを想定していたのであれば、私の考えすぎだったかも知れません。