- ベストアンサー
江戸城の名称。
徳川幕府の江戸城は、ある時期から正式には、「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになったそうです。 「千代田城」も「舞鶴城」も私は聞いたことがないのですが、何か記録はあるのでしょうか、教えてください。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 bunngetuです。 ★oska2さんの回答は支持します。 ★fumkumさんの回答の中での『大江戸ものしり図鑑』は、私も持っています。 ただ、「正式名称は舞鶴城、またの名が千代田城で、江戸ではふつうお城と呼んだ」、これは、私は逆で「正式名称は千代田城、またの名を舞鶴城」と言うのが正しいと考えます。 ★「千代田」という名の出典ですが、 *「将軍の宴 公家武者 松平信平9」(佐々木裕一著)の中に、 ”・・・ちなみに、飯田喜兵衛という者は、このあたりが千代田村と言われていた戦国時代、新領主として入国した徳川家康に土地の案内をした者で、その後名主を命じられ、町名にもなった人物である。・・・」 *次のサイトの上から20段目に「千代田の花」という薄ぼけた紙があります。 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8F%B2%E6%96%99&hl=ja&rlz=1T4SNJB_jaJP799JP799&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwiJuMbEofTeAhXqHjQIHX2-BBEQsAR6BAgAEAE&biw=1633&bih=892 *次のサイト。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772935 *次のサイトの「千代田神社」にも縁起があるようです。 https://tesshow.jp/chuo/shrine_kodenma_chiyoda.html まあ、まだまだありますが、省略させていただきます。 これらにより、「千代田城」と呼ばれていたことが確認できるかと思います。 なお、「舞鶴城」(ぶかくじょう)はoska2さんの言われるように、城の形状からきていると考えられます。 そう、真っ白なので「白鷺城」、真っ黒なので「烏城」とおなじ考え方だと思います。 ★次に、いつ頃から「千代田城」(舞鶴城)と呼ばれるようになったか? 「千代田城」は、これは、あくまでも、私見ですが、 2代秀忠の正室「お江」(おごう、お江与・おえよ)が慶長11年(1606)に国松(忠長)を千代田城西の丸で産んだ。この4ヶ月後の9月に本丸が完成をし、先にできていた西ノ丸から、将軍一家は本丸御殿へと移った。なお、城の細部の建築は、およそ、5代綱吉の代あたりまで続いた。 恐らく、この引っ越しを契機として、縁起の良い「千代田城」と呼ぶようになったのではないか、と、考えます。 ただし、将軍秀忠が発案したか、あるいは、お城勤めをする者たちが口にするようになり、それが、次第に市井にも伝わったか、ですが、当時の秀忠は駿府に隠居した家康の「いいなり」だけでしたので、私は、将軍も知らない間に広まっていったように考えます。 また、「舞鶴城」の呼び名は、5代綱吉の代あたりからではないかと考えます。 なぜなら、綱吉は長女鶴姫を溺愛していた。溺愛のあまり、貞享5(1688)年2月1日に「鶴字法度」を出し、庶民が鶴字・鶴紋を使用することを禁じた。 その結果、これまた縁起の良い「鶴が舞う」「舞鶴城」と呼ばせたように推論しています。 なお、この「千代田城」「舞鶴城」の呼び方について、以前、知己のあった「徳川美術館」の学芸員の方も、そのように呼ばれたことは「確か」ではあるが、「いつ」「だれ」が呼び始めたかは、全くの「不明」と言われたことがありました。もちろん、それを「裁可」した史料等は、まだ見つかっていない、とのことでした。 このURLもよろしく・・・。 http://bungetsu.obunko.com/
その他の回答 (7)
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
bungetsuです。 fumkumさんへ。 私の記載が悪かったのかもしれませんが、勘違いしないでくださいね。 私が述べた、 「・・・ちなみに、飯田喜兵衛という者は、このあたりが千代田村と言われていた戦国時代、新領主として入国した徳川家康に土地の案内をした者で、その後名主を命じられ、町名にもなった人物である。・・・」 は、城の付近が「千代田村」と呼ばれていた。・・・ということを述べただけで、 飯田喜兵衛は、あなたのおっしゃる通り、後の「飯田町」の起源となりました。
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
江戸時代は、粋人とか好事家が多く、大名にもそのような人物が多く存在します。そのような粋人とか好事家が、個人的に江戸城の雅名として「舞鶴城」と言い出したのではないでしょうか。このようなことは、他の城でも見られ、粋人とか好事家が個人的に雅名を付け、それが人々に支持され、人口に膾炙し、正式名称ではなく、別名ともいえる存在に成長することがあります。しかし、江戸城の「舞鶴城」の名は大きく成長せず、oska2さんのおっしゃる通り、『「舞鶴城」は聞いた事が無いですね。』という状況です。 今まで「舞鶴城」と言い続けてきたbanngeteさんが、oska2さんの回答を支持しているぐらいですから、「舞鶴城」の名称は、一部の人たちの間で用いられただけで、実際にはほとんどの人の知らない雅名だったと想像します。 桜田村ですが、江戸郷と同じく、平安時代末には桜田郷として存在したとされます。いつ郷から村に変わったかは不明ですが、江戸城の*西の丸・吹上付近から、桜田堀の西側一帯を言ったようです。ただ、桜田・宝田・祝田村は、江戸城の築城に伴って、住民・神社・村名を移転させられていますが、千代田村だけは住民・神社の移転はあってもどうも村名の移転はなかったようです。仙台の前名が読みは同じでも「千代」だったことから考えても、千代に続く田という名が「嘉名」だったために、千代田の地名は残したのではないかと思います。 *西の丸=前回二の丸としましたが、思い違いでした。 なお、日本史の図録ですが、私の持っているのは少し古く、『山川 詳説日本史図録(第3版)』 2010年山川出版社発行 詳説日本史図録編集委員会編集です。都内の書店では見かけたので、最新版(毎年新版が出ます)は出ているはずですが、図書館では置いているところは少ないのではないでしょうか。書店の方が見ることができると思います。 『図録』、『大江戸ものしり図鑑』に関しても画像を送りたいと思っているのですが、画像添付がうまくいかないので諦めました。ごめんなさい。
お礼
度々のご回答ありがとうございます。 かなり前のことですが、私は、姫路城を「白鷺城」と呼ぶ根拠を姫路城城郭研究室に問い合わせたことがあります。 お殿様(酒井?榊原?失念)の日記にたった一行「鷺」についてのくだりがあるだけだそうです。 江戸時代に「白鷺城」と呼ばれていた記録はないとのことです。 また、白い鷺もいるそうですが、「白鷺」という鳥は鳥類にはないそうです。 私は、白鷺城という愛称は、戦後の観光産業が生みだしたものでは、と思っていました。 しかし、ネットで調べてみますと、明治31年刊の「日本百景之内 姫路白鷺城(はくろじょう)」という絵葉書を見つけました。 もしかすると、江戸時代でも白鷺城と呼ばれていたかも知れません。 「しらさぎ」ではなく「はくろ」なんですね。 調べてみると、姫路市には「白鷺中学校」があり、「はくろ」と呼んでいます。
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
★「千代田」という名の出典ですが、 *「将軍の宴 公家武者 松平信平9」(佐々木裕一著)の中に、 ”・・・ちなみに、飯田喜兵衛という者は、このあたりが千代田村と言われていた戦国時代、新領主として入国した徳川家康に土地の案内をした者で、その後名主を命じられ、町名にもなった人物である。・・・」 飯田喜兵衛云々は、飯田町の町名由来で、千代田村の町名由来ではありません。千代田区のHPにも乗っている話です。このHPの「町名版由来:飯田町(いいだまち)」にも次のようにあります。 「天正(てんしょう)十八年(1590年)、江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛(きへえ)でした。「所(ところ)の巨細(こさい)とも申上(もうしあげ)(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた」(『新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)』より)という喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じたのです。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈(かいわい)に武家屋敷がひしめくようになっても、飯田町という名前は残りました。ただし江戸時代の武家地は町名をもたなかったため、飯田町は通称として使われていました。 飯田町が正式な町名となったのは、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目~六丁目に再編された明治五年(1872年)のことです) https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/idamachi.html このHPにも、「家康は、千代田村とその周辺を視察します」とあるように、もともと「千代田村」存在していたのであり、徳川家康の江戸築城に伴って、千代田神社と住民が移転を命じられて、小伝馬町付近に移転します。 江戸の地名も、もともとこの地が武蔵国豊島郡江戸郷という地名だったことからで、そこに平安時代末に秩父氏の系統の武士が住み、江戸氏を名乗ります。ですから江戸郷は、平安時代の末にはあったことになります。 ともかく、千代田城・江戸城は地名・村名・郷名に由来するとの史料は、たくさんあります。
お礼
度々のご回答ありがとうございます。 千代田村が存在していたこと、よく分かりました。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7250)
舞鶴城というのは、鶴が舞う形をした建築物だからそういうのであって、型の名前であり固有名詞ではありません。雲龍型だとある横綱のことをいってもその横綱名ではないのと同じです。 千代田城というのは千代田という地域にあるからそういうのであって、江戸城も江戸にあるからそう呼ぶわけです。まあ正式名称としては千代田城だと思います。フォーカスが狭いですから。「日本国政府」と呼ぶ場合と「霞が関」と呼ぶ場合の違い程度です。 太田道灌がつくったばかりのころは平山城と言っており、これは平山つまり小高い丘に作ったから軽くそういったものです。この時代には住民がいたことはいましたけど、都市部でもなんでもない農村でしたが、家康が赴任して都市計画をたて整備し出したとき、この一帯の地域を江戸と呼びましたので、江城とか江戸城と略称し始めたのです。 名前がはっきりするほど、進化しているということになります。 舞鶴城というのがいちばんおおざっぱでどうでもいい上固有名詞ではありません。平山城は状況を言っただけでありアイデンティティはありません。 江戸城は役割をいったもので、千代田城は明確に場所までいったものだということになります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 うまくまとめてくださったので、おおよそのことは分かるのですが、今一つしっくりこない箇所があります。 できれば教えていただけませんか。 1.「千代田城というのは千代田という地域にあるからそういうのであって」ということは、 家康が入部したころ、千代田という地名があったのですか。 続いてのご説明で「家康が赴任して都市計画をたて整備し出したとき、この一帯の地域を江戸と呼びましたので、江城とか江戸城と略称し始めた」とあります。 2.「太田道灌がつくったばかりのころは平山城と言っており」とのことですが、私の記憶では、平山城という名称は、城郭研究が進んで城を分類するときに、付けた名前だった気がします。 よろしくお願いします。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>江戸城は、ある時期から正式には、「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになったそうです。 「千代田城」は分かりますが、「舞鶴城」は聞いた事が無いですね。 ただ「舞鶴城」は、城の形態・外観から呼ばれる名称ですよね。 確か、全国各地の約15の城が「舞鶴城」と呼ばれています。 烏城・白鷺城なども、同一です。 >何か記録はあるのでしょうか、教えてください。 江戸時代の地図とか古文書・絵図には、千代田城・江城との記載がありますね。 幕末旗本の日記では「千代田のお城からの使いが来て・・・」と書いています。 歴史図書社から発行している城郭関係の本では、「千代田城」となっています。 ※千代田城が存在するから、千代田区が存在する様です。^^;
お礼
ご回答ありがとうございます。 「千代田のお城」と幕末旗本の日記にあるのですね。 “千代田の”とはどんな意味があるのか、またなぜ“千代田の”とわざわざ付け足したのか、つまらぬ想像をしていますが、これも楽しみの一つです。
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
「舞鶴城」については、たった一例だけ刊行された書籍に記載があります。ただし、根拠は示されていません。 それは、2000年発刊、主婦と生活社編、江戸風俗研究家 花咲一男監修、『大江戸ものしり図鑑』の、「第一部 町と名所」の中の、「世界一の大都市」の中の、「江戸城」にある次の一文です。 「その中心をなすものは何といっても将軍家居住の江戸城だが、正式名称は舞鶴城、またの名が千代田城で、江戸ではふつうお城と呼んだ。」という一文です。 これ以外に江戸城を「舞鶴城」と呼んだものが見当たりません。この五年ほど根拠となる史料を探しているのですが見当たりません。江戸時代の地誌関係の随筆に限らず、江戸期の史料、明治以降の江戸城に関する書籍は大分あたってはいるのですが見つけたのは上記の一文だけです。「千代田城」については、「千代田のお城」を含め江戸時代の史料にはあります。 ともかく、「舞鶴城」については五年ほど調べているで、海外まで内容をスキャンして持ってきているほどです。根拠が分かればうれしい限りで、質問したわけでもないのに期待しています。関心のある質問をしていただき、ありがとうございます。回答ではありませんが、感謝まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 『大江戸ものしり図鑑』に出ているが根拠は示されていないということですね。 私にとっては重要な情報です。 fumkum様も関心があるとのこと、質問した甲斐があります。
- okok456
- ベストアンサー率43% (2746/6352)
私も知りませんでした。 「千代田城」で検索すると確かに https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%9F%8E&ei=UTF-8&fr=mozff 「舞鶴城」はチョット違うようです。 https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%9F%8E&ei=UTF-8&fr=mozff
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 質問前に検索して、少しだけでも調べておくべきでした。(反省) 確かに「舞鶴城」はチョット違うようですね。
お礼
うるさくつきまとう私に快く答えてくださって真にありがとうございます。 江戸城の呼称についての“文月説”はよく分かりました。 質問したいきさつは、私の質問に寄せてくださった回答に興味をもったからです。 核心部をコピペします。 江戸城について。徳川家康が江戸へ入府してから一時は、「江戸城」または「江城」(こうじょう)とも呼ばれることもあったが、やがては、正式名称を「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになりました。 正式名称としたのであれば、(正式名称でなければ何の興味もわきません)その根拠を知りたいと思いました。 根拠はともかく結論は、 「千代田城」「舞鶴城」の呼び方について、「徳川美術館」の学芸員の話では、そのように呼ばれたことは「確か」ではあるが、「いつ」「だれ」が呼び始めたかは、全くの「不明」で、それを「裁可」した史料等は、まだ見つかっていない、ということですね。 これにはちょっとがっかりしました。 江戸は、穢土に通じるからとか、単なる河口の意味でしかないとか、というような訳で、縁起の良い千代田の名を徳川家が創出し、正式に「千代田城」としたのではないかと思っていました。 しかし、千代田の地名が徳川以前からあること、また千代田城と呼ばれていたこともよく分かりました。 何を以て正式名称とするかはさておいて、 大棟梁であった甲良家伝来の多数の絵図面を無視できないと思います。 そこで、千代田城と記した絵図を探しましたが見つかりません。 江戸城と明記している絵図は多々あって、例えば幕末の「江戸城御本丸万延度御普請絵図」などです。 かなり前のことですが、私は、姫路城を「白鷺城」と呼ぶ根拠を姫路城城郭研究室に問い合わせたことがあります。 お殿様(酒井?榊原?失念)の日記にたった一行「鷺」についてのくだりがあるだけだそうです。 江戸時代に「白鷺城」と呼ばれていた記録はないとのことです。 また、白い鷺もいるそうですが、「白鷺」という鳥は鳥類にはないそうです。