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江戸の町のし尿処理。

肥料として利用していたそうですが、供給の方はほぼ一定かも知れませんが、季節によっては需要少なくて、有り余ることもあったのではないでしょうか。 沖合へ捨てることを幕府は禁止したと、小説で読んだ気がするのですが、こんなことはなかったのですか。 教えてください。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.8

江戸近郊農業は、江戸の後背地として、江戸の人口急増に伴って蔬菜栽培が盛んになり、それに伴って肥料の需要も急増し、商業的農業が発達します。そのような中、需要はますます増え、蔬菜価格も上昇し、近郊農家に金銭を落とし、肥料にも金をますますかけるようになります。現在江戸野菜として有名になった物も、江戸の蔬菜の価格高騰と、郷里の蔬菜に愛着を持つ勤番藩士の要望などにより、大名家の下屋敷で栽培されたものが源流となった物が多くみられるのは、このような事情によります。 蔬菜の大部分は、米と違って日持ちがせず、全国流通することができず、消費地の近郊で栽培し、流通する作物です。NO3で回答したように、房総(千葉県)で担ぎ屋のおばさんが活動できたのも、鉄道が開通し、消費地の東京へ数時間で行けるという条件があってこそで、江戸時代で房総から蔬菜を江戸まで運ぶとなると、日数もかかり、商品価値も下がります。NO3では、昭和40年代と、江戸時代を書き分けたつもりですが、子供時代の回想が混じったため、分かりずらかったかもしれません。 さて、江戸の肥料というと、人糞が有名ですが、それ以外では馬糞、灰などがあります。また、それらに関係もしますが、江戸の北西部から西部(多くは武蔵野台地)、南東部にかけて江戸から離れるにしたがって刈り敷き、堆肥利用が中心となっていきます。ただ、人糞を使わないのではなく、割合が低下するということです。 これに対して人糞(下肥)の利用が盛んなのは、江戸の東部(掘割地区)、北西部でも荒川水系、特に新河岸川に沿った地域より北部、東部(旧利根川・江戸川水系)になります。これは、下肥の輸送が、水運・舟の利用によるところが多いことによります。 ところで、『明良帯録』に次のような記述があります。 葛西権四(九)郎 御成先の不浄を掃除す。辰之口へ船三艘を繋置て。御成先不浄を日そろ河岸へ送る。 ちょっと不思議な文で、「御成先」?という感じですが、これは他の史料からも、江戸城中の「不浄を掃除」することを言っているのだとされています。この「不浄を掃除」は、便所の汲み取りの事を言い、くみ取る者を「下掃除人」と言います。「船三艘」とあるのが、俗に「葛西舟」または「肥舟」「糞舟」と呼ばれた船で、下掃除人は肥桶を担って城中に入り、肥を汲み取り舟に運びます。一舟で肥桶50桶(荷)運べるそうですので、一回三艘で150桶運べることになります。『甲子夜話』の中の噂話に、大奥の便所の汲み取りを終え、肥桶を担いだ下掃除人が門で止められ、肥桶の中に嬰児が浮いているのを咎められたとされます。これはこれで問題でしょうが、肥桶には蓋はしていなかったのだろうかと思います。 さて、葛西舟を所有して便所の汲み取りをしていたものは葛西家に限りません。足立区に佐野新田という地区がありますが、この草分百姓の佐野家の文書によると、この家では葛西舟3艘を所有し、1年に3780荷の肥桶を回収し、180両を支払ったとされます。一両4000文で計算すると、肥桶一桶あたり約190文ほどの計算になります。葛西舟一艘あたり2.375両となります。他の史料からすると高いようにも思いますが、それでも利益が出たのでしょう。また、一艘50荷で計算すると、三艘で延べ75日稼働したことになります。三艘同時に稼働すると、年に25日の稼働になります。月にすると2回程度になりますが、一艘50荷で常時効率よく回収できるとも思えませんので、月に3回の回収と考えると、後に書きますが、滝沢馬琴の家の回収頻度の月三回、10日に1回のペースにも合致します。回収以外に下肥の輸送販売にも船は使用されたと考えられます。 さて、このように大規模に人糞を回収し、農家に販売する業者とも呼ぶべき者が登場すると、下肥にも相場が出現します。その相場も江戸からの距離により高下がありますが、文久3年(1863)の中川流域の相場は、以下の通りです。 1月20日まで=1両3分3朱 4月1日=2両3分 5月15日~6月15日=2両1朱200文 7月1日から=1両2分 別の史料では、 1月=1両2朱 5月=2両2分400文 7月=3分2朱400文 11月=1両 最も高値が付くのが、4月~6月の*稲作の農繁期で、最も低いのが、刈り入れ前になる7月頃から12月頃までになりますが、稲作がなくなっても蔬菜の栽培があるために、購入がなくなることはありません。それだけ、江戸の蔬菜需要は高く、それに伴って栽培意欲、肥料需要も高いのだと思います。 なお、この相場は河岸相場で、単位は葛西舟一艘ということで、江戸東部の下肥が舟運に頼っていた実態が分かります。 *稲作=畑作は年中耕作されますが、稲作は季節性があるため、稲作の農期に影響されます。 このように、大規模、商業化が進行する東部に比べて西部は、舟運に適した河川が少ないために、人が担うか、馬に振り分けるかが主流でした。滝沢馬琴の『馬琴日記』によると、便所の汲み取りは、おおよそ月に3回、10日に1回の率になり、練馬の百姓が汲み取りに来たようです。馬琴の家族は、大人は男2女3名の計5人、子供は男女1人づつの計2人(大人一人に勘定)で、肥の代金?は、夏にナスを50個×6人=300個、冬に干し大根50本×6人=300本。ただし、納品時に昼食を出すという条件でした。信濃町の馬琴の家は、土地を旗本に借り、その上に自分で建物を建てた持ち家で、便所は家族と女中だけの使用ですが、それでも月3回です。西部と言えども武家屋敷も長屋もあるわけで、1回の汲み取り量も多い中、舟運も使用できないと人馬がかかることになります。コストも東部に比べて高いのではないかと思うのですが。その分現物給付で補っていた感じです。 今はデーターベース化された文献が多く、海外にいても調べることが楽になり、『史籍集覧』『寛政重修諸家譜』等も見られるようなので、あちこち回答したので、いったん休止して明日にでも追記します。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 具体例を読むと江戸時代がぐっと近くなる気がします。 馬琴はこんなことまで書き残してくれたのですね。 ナスや干し大根を300個も(これ以上も以下もあるでしょうが)一軒ずつ配るとなれば、重労働だと思います。 これだけの対価を払っても人糞は肥料として値打ちがあったということ、よく分かりました。 また、下肥にも相場があって、「最も高値が付くのが、4月~6月の稲作の農繁期で、最も低いのが、刈り入れ前になる7月頃から12月頃まで」ということですね。 “なるほど”という陳腐な表現しか思い浮かばないですが、参考になりました。

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  • fumkum
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回答No.10

ところで、長崎出島のオランダ商館の医師で、ドイツ人のケンペルの『江戸参府旅行日記』というものがあり、その中に次のような一文があります。 「街道を管理する者は、‐略‐道路を清潔に維持することについては、ほとんど苦労することがない。毎日落ちてくる松葉や松かさを彼らは焚物として集め、それで多くの土地でみられる薪の不足を補っている。百姓の子供たちは馬のすぐ後ろから付いていき、まだぬくもりのあるうちに馬糞をかき集め、自分たちの畑に運んでいく。‐そればかりでなく旅行者の糞尿さえ同じ目的で拾い上げ、またそのために百姓家近くの街道脇には、便所として作った小さな粗末な小屋があり、その中にも糞尿を溜めてある。すり切れて投げ捨てられた人馬の草鞋も同様にこの小屋に集められ、焼いて灰をつくり糞尿にまぜるのだが、これはどこでも肥料として使われる。田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。」 この記述は、ケンペルが見ることができた街道筋の情景ですが、糞尿・馬糞・灰が肥料の原料として利用されていることがわかります。これに堆肥・刈敷きを加えると、江戸近郊農業の主要肥料原料がそろうことになります。すぐ近くに干鰯の産地の千葉県の九十九里浜がある割には、その顕著な利用は見られません。 馬糞=江戸でも馬糞拾いという職業があります。路上で馬糞を広い集め、農家に売るという職業です。これは小規模な馬糞回収業です。大規模なものには、大名・上級旗本は屋敷内で飼っている馬をめぐるものがあります。馬の肥育には、飼葉や馬屋内の敷き藁を大量に必要とし、有力農民に納入を委託するようになっていきます。それと引き換えに、馬糞と使用済みの敷き藁を回収し、自家消費、売買をするものが現れます。 灰=焼き畑農業時代から知られ、草木灰は鎌倉時代から用いられた方法です。江戸の職業にも「灰買い」という職業があり、灰を集められるのですが、灰は日常生活でも多種利用される品で、そちらの需要も多い物でした。まず、媒染剤。染色の時に、色を定着させるものとして灰汁を利用します。灰汁はさらに、髪の洗髪剤、食器などの洗剤としての需要があり、自家消費もされました。 そのため草木灰を使うことの方が、自家製造もでき、大量に得ることもできるなどのメリットがありました。田で籾殻・藁を燃やすのは、ごみを燃やしているのではなく、肥料としての灰を作っているのであり、雪国では*融雪剤も兼ねています。 堆肥・刈敷き=埼玉県南部(武蔵野としては北部)に三富地区という場所があり、この地区の「武蔵野の落ち葉堆肥農法」が、日本農業遺産に指定され、さらに世界遺産を目指しています。この地区は、屋敷地、平地林、農地(畑地)と整然と区画され、平地林の落ち葉、下草を堆肥にし、それを肥料とする農法を実施しています。これほど整然としたものではなく、入会山を利用した堆肥農法が江戸の北西部から西部にかけての武蔵野の南部でも実施されていました。江戸に近いために開発が進んで、今では見る影もありませんが。開発の過程で入会山(地)をめぐる「山論(やまろん・さんろん)」が発生し、初期には入会地の帰属争いが、中期以降は入会地の草木等の用益権をめぐって争われ、そのために開発が行きつ戻りつした地域も存在します。 武蔵野の南部は江戸近郊で、街道筋の地域も広く、馬の飼葉や馬屋内の敷き藁を通じての馬糞と使用後の敷き藁の取得、馬・人による人糞の汲み取りを行う者が出ます。江戸、街道からの距離などにもよりますが、馬糞・人糞を単独で用いるだけでなく、落ち葉に馬糞、人糞を混ぜ合わた堆肥つくりも行われます。用水に苦労する地域ですので、水田よりは畑地の多い地域です。 最後は、下肥ではなく、肥料としての馬糞・灰・落ち葉などの話になってしまいましたが、江戸の近郊は、江戸という大消費地が突然出現し、年々拡大、巨大化し、それに伴って近郊の農民の生き方も変わってきます。蔬菜栽培が盛んになり、商業化していきます。また、稲作を含め、蔬菜栽培を効率化するために、江戸で出る人糞・馬糞・灰などを取り込み、肥料化します。当時の人は意識していないでしょうが、リサイクル社会を構成します。 江戸のリサイクル業 https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu3.html 江戸時代の農業 https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/7042f8ad66cb3c3b8035a8849e827b95 武蔵野の開発 https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/koho/documents/2013/miyoshi_koho_201312_P02-03.pdf 三富地区 https://www.pref.saitama.lg.jp/b0902/santome/300nennsanntome.html *融雪剤=特に籾殻は半灰状態にすると黒色で、太陽光を受けやすくなるため。 「舞鶴城」については、以前同じ音の「武鶴城」も可能性があるかと調べたのですが、これもありませんでした。なお、江戸城の中心部分は、千代田村、宝田村、祝田村の三村が太田道灌の築城時から存在したようです。桜田村を含め、宝田村、祝田村は家康の築城以降、村域を移動させられますが、もともとは、桜田村は二の丸・桜田門・桜田堀付近、宝田村は現在の東京駅周辺、祝田村は日比谷公園から北西の祝田橋周辺に存在したと言われています。 江戸期の朝廷の組織については、『公卿補任』を見て、想像がついた一面があります。この時代の公卿補任の内容が、儀式・行事関連で埋まっており、儀式・行事を通じて、日本国の平安・清浄を祈ることが、朝廷の大きな仕事であるという学説はこの面でも確かめられるかと思います。また、この精神が、条約勅許不許可につながる鎖国攘夷に結び付くのだろうと思います。なお、朝廷の組織に関しては意外にも、高校の日本史の図録(山川出版社)にありました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 ケンペルの『江戸参府旅行日記』は、書名は知っているのですが、まだ読んでいません。 ケンペルの観察眼が鋭いですね。 当時の日本人は見慣れた、ありふれた情景でしょうから記録しておく気にならなかったでしょうが、ケンペルのおかげで様子が目に浮かびます。 URLはどれも読みやすくて、理解し易かったです。 >なお、江戸城の中心部分は、千代田村、宝田村、祝田村の三村が太田道灌の築城時から存在したようです。 千代田村という村がやはりあったのですね。 理屈の上では無ければおかしいですね。分かりました。 >なお、朝廷の組織に関しては意外にも、高校の日本史の図録(山川出版社)にありました。 手元に浜島書店のものがあるのですが、平安時代の組織は出ています。 図書館でゆっくり調べてみます。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.9

びっくりすることですが、「平成9年3月末をもって、東京都は屎尿の海洋投棄を終了」とした記録があり、調べてみると本当の事でした。下のURLにある品川清掃作業所の紹介記事には、平成11年3月の予定で海洋投棄を終了する計画だったようですが、実際には平成9年3月末をもって終了したようです。 東京都の海洋投棄は、農家の下肥使用が減った昭和初年ごろから始まり、戦前はどうやら東京湾内で投棄したようです。戦後、東京湾外に投棄場をかえ、昭和48年3月31日までは、品川清掃作業所の紹介記事にある東京湾口(北緯34度58分、東経139度32分)で投棄します。その後より沖合に移っていき、平成9年3月末で投棄を終えたということですが、つい最近まで投棄をしていたことになります。 https://www.tokyo-23city.or.jp/publish/ku_dayori/document/344_10.pdf https://blog.goo.ne.jp/tukemaru/d/20060320 なお、江戸時代でも糞尿を川に捨てた話があって、小伝馬町の牢屋敷の糞尿については誰も引き取り手がなく、石出帯刀の下屋敷まで運び、そこで川に投棄されたとする話があるのですが、真偽は不明です。 もう一つ驚きを。 江戸時代も末期になると、汲み取り料金、下肥料金が急騰し、農民側から町奉行所に値下げの嘆願書が2度提出されます。寛政元年(1789)と、天保14年(1843)です。この時に江戸の下掃除代(汲み取り代)の総額が示されています。何と、2万、3万両という金額です。 寛政元年=25398両 天保12年=35490両(天保12年は値下げの基準年として) また、このときに問題になったのは共通しており、価格が高いだけでなく、高値の原因となる汲み取り場の競り合い、下肥に川の泥水を混ぜての水増しの横行ということでした。肥舟と呼ばれた葛西舟は、船腹がプールのようになっており、肥桶で運んできた糞尿を投入する構造のために、覆いはあるものの、簡単に泥水を混ぜられる構造でした。 ところで、先日の葛西舟の説明で、「一舟で肥桶50桶(荷)運べるそうです」としましたが、正確には「一舟で肥桶50荷運べるそうです」です。肥の「一荷」は肥桶二桶で、天秤棒で振り分けに担う数です。ちなみに、馬の場合は振り分けに二荷(4桶)にします。 汲み取り場の競り合いの背景には、下肥の需要が高く、便所の所有者が強気になっていることがあるのですが、その中でも*長屋の大家は、収入の3割程度を汲み取り料に依存していたため、執拗に値上げを求めたことがあります。 さらに、下肥が2万両、3万両もの産業・ビジネスに成長すると、中間に多くの人が入り、中間マージンを取る構造が自然に出来上がり、その分価格が上昇します。100桶分の糞尿が入る舟を持てるとなると、名主、豪農クラスで、江戸近郊ではその下の自作農も含めて、商業活動に従事する者が多く見られ、盛んに活動します。ただ、これらの人たちが実際に汲み取りをするわけではなく、雇用・請負の関係はともかく、下掃除人を使って汲み取りをさせます。また、河岸で下肥を買い取り、仲買に従事する商人・農民も出現します。さらに、今まで関東では見向きもされず、どぶに流されていた尿にも需要が出てきたりします。このような状況の中で、名主、豪農クラスは、下肥や馬の飼葉・敷藁の納入などの関係を通じて、幕府・大名・旗本などの有力武士と関係を築いていきます。 *長屋の大家=実態は地主から建物の管理、店賃の徴収を任された管理人。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 首都東京が平成の時代に海洋投棄していたとは!!! 昭和40年代、牡蛎の名産地近くでこれをやっていたと先輩に聞いたことがあります。 以後、牡蛎はほとんど食べていません。 しかし、よく考えてみれば、下水網と下水処理場ができるまでは、どこの都市でも同じだったのだろうと気づきました。 どんな工夫をして馬の背に振り分けて運ぶのか、画像検索したところ長野県の例がすぐ見つかりました。 一人では作業できそうにないです。 近くに民具館があるので訪ねてみたいです。

回答No.7

こんにちは。 bunngetuです。 あなたの疑問にお答えします。 >>一つは、「お城、特に 大奥お女中は贅沢な食べ物を食べていたので、最上級の下肥として自らの田畑で使用するとともに高値で取り引された。」とありますが、「自らの田畑で使用する」とは、城内に田畑があったのですか。 葛西の権左衛門は、元々は葛西村(現・江戸川区南部)の農民でした。 一説には、親戚の女(姪?)が大奥に入り、異例の出世をし、その「コネ」により千代田城(注・参照)の下肥を集める「独占権」を得た。とも言われていますが、実際のところは不明です。まあ、人の嫌がる仕事でしたので、幕府も安易な気持ちで許可を出したのかも知れません。 “文化12年(1815)、「葛西権四郎、日々辰の口に舟2艘懸りて、御城内塵芥を積みて葛西へ送る”(明良帯録) 「舟2艘懸り」とありますので、一人で回ったわけではなく、使用人を同道したり、使用人だけに収集を任せたりしたと考えます。 権左衛門は「御城御用達」とはいっても、元来農民ですので、葛西村に田畑(主に畑)を所有しており、その田畑を人に貸してその収入の一部(小作料)を貰ったり、自ら雇った下男、下女に田畑の仕事をさせ、自らは下肥の収集と自らの田畑で使用する分以外の余り分を販売し、また、お城の御膳所(勝手場)などから出た「灰」なども集めたようですね。 「灰」はご存じかとは思いますが、「アルカリ性」で土壌改良に役立ちました。 当時は広告などもありませんでしたが、「お城の上等(上質)な下肥」と、口から口へと評判になったのでしょうね。 >>白菜は日清戦争で日本兵が持ち帰ったものではないでしょうか。 江戸時代にも「白菜」はありました。 すでに、あなたもお調べのようですが、「ツケ菜」とも呼ばれていたようです。 しかし、当時は一代制野菜でしたので、「タネ」を採取して、翌年同じような大きさや結球をしたとは限りません。が、葉を広げたような菜でも、一応は「白菜」と呼ばれていました。現代からみると、かなり「貧弱」な菜っ葉だったと想像します。 そして、幕府は中国(隋)からオランダ貿易を介してタネを輸入したり、「朝鮮通信使」などが献上品に人参(朝鮮人参と思われる)などと共に白菜のタネなどもあったようで、幕府からタネが庶民(主に農民)に下げ渡されて、江戸周辺の農家などで栽培されたようです。 大量生産は困難だったと思います。 まあ、こうして見ると、「農家から白菜などをお礼として・・・」は削除した方が良いかも知れませんね。ごめんなさい。 注:江戸城について。 徳川家康が江戸へ入府してから一時は、「江戸城」または「江城」(こうじょう)とも呼ばれることもあったが、やがては、正式名称を「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになりました。 通常は、武士も庶民も、ただ単に「お城」と呼んでいた。また、庶民は親しみを込めて「千代田のお城」などと呼ぶこともありました。 「江戸城」という呼称が復活したのは明治に入ってからです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

私の疑問に早速お答えしてくださって真にありがとうございます。 よく分かりました。 白菜は、今、広く出回っている白菜ではなく、「つけ菜」「白菜(しろなと呼んでいたかも)」と呼んでいた野菜があった、ということですね。 以前から気になっていたのですが、江戸城は、正式には「千代田城」または「舞鶴城」と呼ばれていたのですね。 その根拠について別途質問しますので、教えてください。 お願いします。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.6

 #1です。補足です。 >>「下肥」の”下”の意味が分からなかったのですが、下は「下ごしらえ」の意味だったのかな、と思いました。  ここの下は、下ネタ、などと同じく「下」半身の意味で、屎尿そのものの婉曲表現です。 >>URLは、面白かったですが、内容は「29 Indian States And Their Dress Codes」でした。  失礼しました。下記です。  https://www.youtube.com/watch?v=POPSbHkNmeA >>野崎詣りは、淀川の話ですね。大坂も同じ事情だったのですね。  農家(需要)と非農家(供給)が分かれるようになってからは、日本各地で行われていました。  それだけでなく、中国などで広く利用され(というか中国に留学した僧侶などが、農作物と一緒に持ち帰った土壌の肥やし方でしょう)ています。  残念ながら、日本のお百姓さんよりずっと上手でした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 下半身の“下”ですか! なるほど、納得しました。 野崎詣りの屋形船は淀川の話と思っていましたが、落語を聞くと寝屋川でした。

回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸の街のし尿処理。 川、海などに捨てる。 「おお~、勿体ない。勿体ない」 昔は、農薬などの地質改良剤、化学肥料などがありませんでしたから、し尿は農家の人たちにとっては、大切な「下肥」でした。 また、川へ流す・・・などは、例えば、玉川、神田川、などは江戸の街の飲料水などにも使用されましたので、上流で大量に流したりしては、とんでもない大事件になりました。また。川魚やウナギなどが獲れなくなったりしても一大事でしたので「厳禁」でした。 海も同じように、魚はもちろんのこと、海苔、あさりなどの貝類、などが死滅してしまっては一大事でしたので「厳禁」でした。 ★将軍家の場合。(千代田城の場合)。 *便壺の深さはおよそ6尺。汲み取り式で横穴があった。葛西村の百姓でもあった権左衛門に独占権が与えられており、お堀伝いに「葛西舟」(別名「汁こぼし」)という小舟をあやつって定期的に汲み取りに回った。 お城、特に 大奥お女中は贅沢な食べ物を食べていたので、最上級の下肥として自らの田畑で使用するとともに高値で取り引された。 その御礼として、権左衛門はお城で消費される「沢庵漬け」を無償で一手に納めていた。ただし、御台所さまだけは別。下記参照。 *御台所さまのトイレ事情。 御台所さまの「ご用場」は2畳で畳が敷かれてある。ご用場へ入られる時には必ず御中臈1人が供をする。中央に長方形の木枠があり御台所さまは御中臈の介助を受けながらまたがって用を足す。 介助に入った御中臈は御台所さまの小便の色とおおよその量を見届け、また、大便も色、固さ、おおよその量を見届けて、一日の回数なども細かく帳面へ記載する。翌朝の奥医師の診察の際にこの帳面を見せることとなっていた。 拭き取る紙は「吉野紙」(よしのがみ)で、庶民が使う「浅草紙」(再生紙)とは違ってふっくらとしておりゴワゴワとしたものではない。 木枠の下、約1寸(30cm)のところに金網がある。これは、用足しの際に誤って櫛(くし)や簪(かんざし)などを落とされた時、御中臈が手を差し入れて拾い上げるためである。しかし、糞便などで汚れてしまっている場合はそのまま捨て置かれた。何せ、御台所さまの年収は「使い放題」であるから、また別の新しい物を買えば良いからでした。 便壺の深さは、およそ6尺~7尺であり、汲み取り用の横穴はない。通称「万年穴」とも呼ばれた。 ご用場には常に臭い消しのため「お香」がたかれていた。 将軍が代替わりをすると、当然、御台所さまも御殿向の居室での入れ替わりがある。 前御台所さまが使用していた便壺には土を平になるまで入れて、分厚い板で蓋をされる。そして、前御台所さまが使用していた御用場の部屋も閉鎖された。 新しい御台所さまには、また、新しい穴を掘り、御殿向の別の場所に御用場の部屋が新しく造られた。 ただし、13代将軍家定の継々室であった篤姫(天璋院)は、幕末も近い頃であったため、大奥内の序列や部屋割りなども崩れており、14代将軍家茂の正室和宮には他の部屋を与え、御殿向には天璋院が住んで権勢を振るっていた。 ★大名家の場合。 大名の多くは、「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」を持っていた。 小藩の大名あたりでも、「上屋敷」、そして小さいながらも「下屋敷」あたりを持っていた。 この「中屋敷」または、小藩の「下屋敷」には必ず”田畑”がありました。そして、農民も召し抱えており、夫婦共々(子どもも含めて)「中屋敷」の長屋に居住し、農村の暮らしと同じ農作業をしていました。 この、”田畑”は、大名(お殿さま)に百姓の苦労、つまり、主に年貢米として取られる「米」がどのようにして収穫できるか、などを解ってもらうために必ずありました。 ちなみに、この農民たちは大名家じきじきのお抱えでしたので、「〇〇殿百姓」と呼ばれました。 従って、大名屋敷でのし尿処理はこのお抱え農民が年1回、または、随時に汲み取り、中屋敷などにある田畑で下肥として利用しました。 もし、その年に余った場合には「下肥小屋」というものがあり、ここには、深さ6尺余りの大きな樽に入れて貯め置きました。現代でも酒蔵などのTV映像で大きな樽が放映されますが、ほぼそのような大きな樽でした。 ★武家の場合。 主に、現代で言うと、中野区、練馬区、豊島区、板橋区、などは農地でしたので、このあたりの百姓が個々に武家と契約(申し合わせ)をして、およそ、年1回の汲み取りをしていました。 その見返り(お礼)としては、季節ごとの野菜類(大根、人参、ごぼう、白菜 etc)を武家に届けていました。あるいは、沢庵、なす漬、きゅうり漬 etc)を届けていました。 ★町民の場合。 これも、前述の地域や房総(千葉県)あたりの農民が特定な個人契約はなく、空の下肥桶を両天秤に担いで「下肥や~、下肥」と触れ回り汲み取りをしていました。 ある程度大きな商家(三井越後屋)などの場合は、特定の農家と個人契約をし、そのお礼としては、野菜や沢庵漬けなどを受け取りました。 こうして集められたし尿は、自分の田畑で下肥として使うと同時に、江戸時代中期頃から「五人組制度」なども発展し、また、母子家庭だったり、働き手の少ない家庭、などのために「肥溜」を設けて、その近所の人であれば自由に汲み取って使用しても良い、と言うような「共助」の精神が生まれました。 ★長屋の場合。 この場合は、「大家」が代表して特定の農家と契約をし、そのお礼としては「沢庵漬け」が主流で、多少のし尿の量が多くても少なくても、年に「〇樽」と契約をしていました。そして、大家は長屋の住民に、ほぼ均等に沢庵漬けを分け与えていました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

面白い話をいっぱい教えてくださって真にありがとうございます。 流石に、作家さんだけあって、史実に裏付けされた色んなネタをお持ちだと感心しました。 お礼に、ご存知かも知れませんが「紀ノ国ミカン船」の話を書きます。 江戸っ子が「ご隠居、ミカンは黄色なんだね」と言うと、ご隠居が「そうだよ、高野山の坊主どもの〇〇で育ってるのだ」。 ところで疑問があります。 一つは、「お城、特に 大奥お女中は贅沢な食べ物を食べていたので、最上級の下肥として自らの田畑で使用するとともに高値で取り引された。」とありますが、「自らの田畑で使用する」とは、城内に田畑があったのですか。 もう一つは、「その見返り(お礼)としては、季節ごとの野菜類(大根、人参、ごぼう、白菜 etc)を武家に届けていました。」とありますが、白菜は日清戦争で日本兵が持ち帰ったものではないでしょうか。 日本で育てると丸くならず、結球させるのに苦労したそうです。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.4

 下記の『野崎詣り』の2:40あたりに「肥え取り船」という表現がありますが、肥料とし使われました。  https://www.bumppy.com/28-state-28-dress-code/  供給側と引き取る農家側との間は、約束があり、各家から集めたのを「肥溜め」に溜めたので過不足はありませんでした。  稲作では代掻きが終わった時点で、肥桶から柄杓で田んぼに撒きました。畑でも植え付け前に、土壌の育成に使いました。  江戸時代から変わらないこの習慣は、占領軍が非衛生的だと禁止する1950年代まで続き、以後地方自治体の手に移るまで、続きました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >稲作では代掻きが終わった時点で、肥桶から柄杓で田んぼに撒きました。畑でも植え付け前に、土壌の育成に使いました。 「代搔き」の意味を調べて納得しました。 「下肥」の”下”の意味が分からなかったのですが、下は「下ごしらえ」の意味だったのかな、と思いました。 URLは、面白かったですが、内容は 「29 Indian States And Their Dress Codes」でした。 野崎詣りは、淀川の話ですね。 大坂も同じ事情だったのですね。

  • fumkum
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回答No.3

尾籠なはなしですが、「肥溜め」という言葉をご存知のことと思います。個人的ですが、私は千葉の漁師町に育ったのですが、昭和40年代にはまだ肥溜めが残っていました。漁師町はどこでもそうですが、本当は半農半漁で、男は漁へ、女・老人は自家消費に毛の生えたような農業に従事するスタイルが多く見られました。漁港の後背部はまず畑地で、その奥に小さな田があり、丘陵部にのぼれば畑地と水田が広がる風景でした。漁港から遠ざかるにつれて、専業農家が増える構造でもありました。 その畑地の端に、ところどころ肥溜めが埋まっていました。トイレから汲み出して直ぐの糞尿を、そのまま畑にまくと作物が枯れるので、肥溜めに入れて、発酵熟成させて下肥にしてから肥料として利用するのです。肥溜めは大きな甕で、地中に口まで埋めてありました。中には屋根をかける肥溜めもありましたが、その地域ではほとんどの肥溜めは屋根がないスタイルでした。昆虫採集をしていたので肥溜めもよく見ましたし、下肥を柄杓の大きいようなものでまいている光景も見ました。まいた畑は、独特のにおいがするもので、肥溜めに落ちないように、まいた場所に近づかないように(作物を踏むこともあり)していた記憶があります。下肥を使うのは、野菜類であったように記憶しています。 そこで作られた作物は自家消費以外に、背負い籠や背負子に担いで早朝の汽車に乗り、東京まで売りに行っていたおばさんもいました。野菜類だけではなく、魚なども背負っていくおばちゃんもいました。 東京近郊では、戦後の20年代まで私鉄による糞尿の輸送があったそうですが、40年代では買い入れなどということはなくなり、寄生虫への認識も高まり、化学肥料の普及も相俟って、下肥の使用も急激に減ったことでしょうが、農水産物を通じて、都会と農水村が、直接につながっていました。 江戸時代も江戸での話になりますが、初期はともかく、糞尿の売買はシステム化され、くみ取る場所により相場ができ、買取側が複数であったり、武家屋敷などの大口などの場合には入札が行われていました。需要が供給を上回っていたことになります。糞尿を買って野菜類をつくり、江戸で売る。そこで糞尿を買い、野菜類を作る。このようなサイクルが江戸では出来上がっていました。 京都御所の組織について 『公卿補任』を見ると、現任公卿―(関白)・三公・*大納言・中納言・*参議に、行事(政務・公事・儀式)の主任、副主任としての上卿(しょうけい)、内弁、外弁(げべん―副主任格)、検校などの役職を割り振り、一部の散位の公卿に、それも中将・衛門督・式部大輔などの官職を兼任する公卿にも外弁を割り振ります。さらに、散位の公卿、現任・散位の公卿以外の堂上公家は行事の参加者として割り振られ、弁官と、局務・官務・出納の地下官人は、行事の実務を担当します。 さらに、堂上公家には*公家衆法度に「昼夜之御番」と規定される禁裏小番(御番)があり、輪番で宮中の詰所に詰めました。小番には摂家だけでなく、左右内大臣、同経験者、高齢の者は除き、堂上公家のすべてが入ることになっていました。堂上公家家の嫡子も元服後15歳になると番に入ることになっていました。 この小番は、堂上公家を5組(番)に分け、各番に番頭を置き、統制させます。この番頭は、現任公卿の内の、大納言・中納言から選ばれ、6月、12月に小番の編成替えが行われます。 さらに、江戸時代には院政が復活したため、院に奉仕する院参衆(いんざんしゅう)が編成され、禁裏小番と同様の奉仕をしました。また、さらに院には院伝奏(2名)、院評定(3名)による院評定衆が存在し、禁裏の両役の役割を持ち、院両役と呼びました。 また、親王家にも伝奏が置かれました。 伝奏には、禁裏・院・親王家以外にも置かれます。その一つが寺社伝奏で、特定の寺社と天皇を結び、寺社の奏請を天皇に奏上する役割を持ちます。武家にある申次の役割ですが、奏請に伴い、それ相応の礼金があるようになっています。知られている限り、特定の寺社との伝奏関係を世襲的に持っていた堂上公家は40家近くになり、全体の1/4以上になります。また、当道座支配の久我家のように、当道座から検校などの官職の申請の仲介(申次)をし、礼金を受け取ります。このように特定の団体(家業に関連するものが多い)と朝廷との申次を世襲的に持っている公家もありました。 横道に逸れますが、武家官位の授与でも礼金が朝廷の天皇、公家、地下官人、女官などに入るようになっていました。伝奏などの役職に就けば役料が出ました。さらに、家業により礼金、束脩料等が入ったり、娘が大名家に嫁入ったりした場合、家計扶助の金品が送られたりします。以前調べた限りでは、堂上公家は石高は低くても、それ以外の収入もあり、多くの公家は言われるほど貧困ではなかったと思われます。幕末、明治になってからのプロパガンダではないかとも思います。 *大納言・中納言=江戸時代の大納言・中納言の任官は正官ではなく、権大納言・権中納言のように権官であり、幕府・将軍に遠慮して仮の意味を持つ権官としたとされます。 *参議=令外官。唐名は宰相。太政官の議政官の中で最下位で、名のように議に参ずる=オブザーバー的で、行事の責任者である上卿などになることはほとんどありません。副責任者の下弁か、重要度の落ちる行事の上卿などが多い。 *公家衆法度に「昼夜之御番」=この規定に続き、勤務を怠ける者は、摂家、武家伝奏からの届け出による罰するとあり、摂家の公家に対する統制権が明示されています。 朝廷の組織の流れを見ると、次のようになります。 天皇からは、「天皇」-叡慮→「議奏」-叡慮→「関白」-指示→「公家」 逆に公家から、「公家」-報告→「関白」-奏上→「議奏」-奏上→「天皇」 武家との関係では、次のようになります。 @「京都所司代」-指示→「武家伝奏」-指示→「議奏」及び「関白」(→「天皇」) @(「天皇」→)「議奏」及び「関白」-叡慮・報告→「武家伝奏」-報告→「京都所司代」 一般の公家に対しては、 @「京都所司代」-指示→「武家伝奏」-指示→「公家」 @「公家」-報告→「武家伝奏」-報告→「京都所司代」 江戸時代の朝廷の中心は、摂関及び摂家、三公、両役(武家伝奏・議奏)ですが、三公はほぼ摂家で占められます。これらが朝廷の執行部であり、権力の中心です。次に行事の主任を分担する現任公卿がおり、その下に散位の公卿、平堂上がある構造です。そのまた下に、三催に率いられる地下官人のグループがあることになります。 摂関、両役は毎日参内し、摂関は両役と協議しながら政務を遂行します。摂関及び摂家、三公、両役の相互や、天皇との間を連絡調整するのがこれもまた毎日勤務の蔵人、特に蔵人のトップの蔵人頭2名になります。この下に五位蔵人3名、六位蔵人五名になります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 肥溜めは一度か二度見た記憶がありますが、発酵熟成させる”装置”とは思いもよりませんでした。 また、江戸百万人のし尿の量を想像すると、需要が供給を上回っていたという事実にもびっくりしています。 京都御所の組織について、丁寧に、詳しく書いてくださってありがとうございます。 図書館で探したのですが、御所に関しては専門的な本が多く、入門書は見つかりませんでした。 平安時代のことばかり書いてある感じでした。

  • bunjii
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回答No.2

>肥料として利用していたそうですが、供給の方はほぼ一定かも知れませんが、季節によっては需要少なくて、有り余ることもあったのではないでしょうか。 畑の隅に肥溜めが有り熟成させてから使いますので季節による需要の増減は肥溜めで吸収されます。 他の回答者が言うように堆肥にも使われていたと思いますが、堆肥は主に牛馬の糞と敷き藁を積み上げて発酵させたものが使われていました。 人の糞尿は肥溜めで熟成したものを直接撒いたようです。 戦後の復興で化成肥料が量産されるようになって糞尿を肥料に使わなくなり汲み取り式便所も水洗便所に置き換わったと推測します。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「肥溜め」は、昭和30年代初め、京都嵯峨野の風景を撮影しに行ったとき見たことがあります。 あちこちにあって、どれも長雨になれば溢れそうでした。 ただそれだけの知識なので、そこで熟成させているとは全く知りませんでした。 季節による需要の増減は肥溜めで吸収されるのですね。 なぜあんなに大きかったのか、今、分かりました。

  • oska2
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回答No.1

> 江戸の町のし尿処理。肥料として利用していたそうです その通りですね。 長屋では、共同便所ですから「大家の収入」になっていました。 人糞は、百姓が直接若しくは業者が定期的に回収していました。 武家屋敷でも、同様です。 昭和40年頃までは、この制度が地方では残っていましたよ。 >供給の方はほぼ一定かも知れませんが、季節によっては需要少なくて、有り余ることもあったのではないでしょうか。 農業の知識があれば理解できるのですが・・・。 農地は「作物を育てていなくても、土地改良が必要」なのです。 稲藁と人糞を発酵させて、堆肥を作っていました。 また、海草と人糞で堆肥を作っていた地方もあります。 江戸時代は、人工堆肥がありませんよね。 ですから、農家は人糞集めに必死だったのです。 ※農地分の人糞が集まらない。 需要と供給よりも、「安定した人糞確保」が重要なんですね。 定期的に、人糞を回収に行きます。 定期的に来る者と、一元さんでは対応が異なりますよね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 需要と供給よりも、農家は、農地分の人糞が集まらず、人糞集めに必死だったのですね。 よく分かりました。

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