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武士の行方(維新)
- 徳川家800万石で養われていた武士の数とは?
- 維新により9割の人が失業したが、その行方は?
- 武士の行方は徳川家の9割の武士たちと同じ運命をたどった?
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各藩がどうであったかは個別のことなのでわかりませんが、江戸城に通っていた侍は1000人はいたはずです。 無血開城するときにその名簿が必要だったのですが、これを4人がかりでまる3日徹夜でやったという話があります。 ただ、この中でも自分は江戸幕府の人間であるというプライドを持っていたものは、彰義隊という名前の自主構成軍団を作り新政府に立ち向かおうとしました。これが上野にこもったのでここから上野戦争というものが発生するんです。大村益次郎がここに大砲をぶっ放して、ほとんど虐殺を行い、半日で片付きました。これで死んだのは侍は150人ぐらいだったと思われますが、通行していた民間人や女子供が巻き込まれてその辺にころがりましたので、いつか大村を殺してやろうと思った人間はいたはずで、それは実現するわけです。 官軍には尾張徳川家みたいなもと幕府の人間もいて、この辺はあらたな官職を得たかもしれませんが、それ以外は失職し、新たな就職活動をしたか、百姓になって自分の里に帰ったようです。尾張のような出身でなければ新政府の下級官僚なんかになるわけにはいかないのです。薩長か尾張だけです。水戸だったら最初から就職口はなかったと考えられます。 薩長側に見方した地域はそれほど問題なく農業に移行しましたけど、徳川方として戦った地域は所払い、追放になりました。会津はその典型で、北方に移れという命令で皆が引っ越すことになりました。蝦夷の手前に斗南藩というのが新設されて今の岩手青森あたりに追放されたんです。 本当に蝦夷に移ったものは函館郊外で開拓の仕事につきました。 函館に五稜郭事件というのがあって、ここで最後の旧幕と新政府の戦争がおわったわけで、ここで生き残った者が近隣に移ったわけです。名前としてちょっと異様かなという「伊達」なんていう地名はその痕跡です。 江戸にいた下級武士は、刀とか暴力しか能のなかったのは警察に雇われました。 政治とか社会への目をもっているやつは新聞社に行き、羽織を着て取材しましたから羽織ゴロというごろつき扱いされましたが職を得ました。 歴史やなにかに詳しいやつは講釈師になり、武士時代のいかにも偉そうな話しかたで歴史を語るようになりました。また、易学の知識を持っているものもいましたから易者になったものもいます。 偉そうにするのが抜けない人間は寺子屋の先生とか、剣道道場の師匠をしました。しばらくは刀剣は取り上げられませんでしたから、辻斬りや辻強盗に走った人間もいるようです。 士農工商といいますが、侍はなかなか商人にはなれなかったしなろうという発想もなかった。 しかし、そろばんが得意なのもいましたから、そろばん指南なんていう新たな職に就いていた人間もいるようです。これはいまでいえばファイナンシャルプランナーですね。帳簿を見て、伸びない理由なんかを指南したんです。 あとは、工ですが、江戸時代から貧乏侍は傘を張ったり釣り針を磨いたり小さな仕事をしていた経緯があり、その方向で貧乏をつづけた侍もいたようです。
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- E-1077
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士農工商という言葉があるくらいに、武士の次の位は農家ですからね。商売を始めるというのはいきなりはないでしょうね。 ただ、坂本龍馬のように輸入に手を出すなど斬新な考えを推奨して、上手く開国に関連する仕事を見つけられた場合は、武家から豪商などになったケースもあったようです。 江戸時代は武士そのものは形だけの物ですからね。戦国時代ならともかく。
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ありがとうございました。 士農工商……用語は知っていますが、実際に階級制度として何か運用されていたのですかねぇ? 武家から豪商などになったケースもあったようです。……岩崎弥太郎のことですか? 江戸時代は武士そのものは形だけの物ですからね。戦国時代ならともかく。……???
- Osric
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江戸にいる侍は別にすると、地方の侍はほとんど(身分の高い人以外)畑仕事もしていました。ですから、侍のうち、百姓になった人が一番多いのだと思います。ただ最初は百姓しながらが、段々職を得て、先生、軍人、官吏、商売へと移る人もいたと思います。太平洋戦争の頃は、薩長土肥以外の国出身の高級軍人が多かったですものね。
お礼
早速、ありがとうございました。 侍のうち、百姓になった人が一番多いのだと思います。……そうですか。意外でした。 商売へと移る人もいたと思います。……そういえば「武士の商法」なんていう成句がありましたよね。(*^_^*) 太平洋戦争の頃は、薩長土肥以外の国出身の高級軍人が多かったですものね。……そうなんですか。西南戦争が一つの転機になったのですかねぇ?
お礼
ありがとうございました。 これを4人がかりでまる3日徹夜でやったという話があります。……1000人規模なら、何となく分かりますね。(*^_^*)しかし、江戸城に入る武士の名簿なんて作っていなかったのですかねぇ。 通行していた民間人や女子供が巻き込まれてその辺にころがりました……そうだったのですか。知りませんでした。戦略家にしては配慮が足らなかったですね。司馬遼太郎の「花神」を読んでから、好きな人物のひとりだったのですが、維新に貢献しながらも、所詮は消えていく人物のひとりだったようですね。 官軍には尾張徳川家みたいなもと幕府の人間もいて、……徳川家から裏切り者が出たということですか???何のための「尾張」なのか???家康もさぞかし嘆いていたでしょうね。もっとも、尾張に限らず、慶喜自身もいかがなものか、という気もしますが。 百姓になって自分の里に帰ったようです。……他の方のご回答にもありましたが、武士にも「百姓になる」という道があったのですね。 水戸だったら最初から就職口はなかったと考えられます。……いつの時代も体制に逆らうとしっぺ返しを喰らうということでしょうか?(T_T)(T_T)(T_T) 会津はその典型で、北方に移れという命令で皆が引っ越すことになりました。蝦夷の手前に斗南藩というのが新設されて今の岩手青森あたりに追放されたんです。……会津が一番貧乏籤を引いてしまったということですかねぇ。記憶が定かではありませんが、私の住む蝦夷地にも、会津の人々が入植した歴史が、あちらこちらにあるようです。 刀とか暴力しか能のなかったのは警察に雇われました。……(*^_^*)(*^_^*) 政治とか社会~~その方向で貧乏をつづけた侍もいたようです。 ……いろいろと紹介していただきありがとうございました。時代に翻弄されて、就活に苦労した武士もいたのですね。「武士」という階級が消えてしまったのですから、武士にとっては想像を絶する出来事だったのかも。