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キリスト教の「遺体」観についての疑問
こんにちわ 昨日、インターネットの世界びっくりニュースで、ロシアにあるという人骨で華麗なインテリア装飾を施された教会の紹介がありました。 これは咄嗟に、ヒッチコックの映画「サイコ」の原案となった1950年代の「エドワードゲイン事件」と同じ所業を教会が実施したことになるのでは?と思ってしまいました… 数年前にも、スペインにあるというミイラ(檀家信者たちの遺体)が陳列装飾された教会の紹介、というニュースも見たことがありました。 これも、民間(キリスト教の教会は「民間」ではない「特殊機関」だから許されるのでしょうか?)で実施されたら長年月にわたる大変な大規模大量猟奇事件の大犯罪になってしまう訳ですよね… いずれも「美しく遺体を飾る」という、エジプトやインカ文明等からみられる共通の理念ですが、「教会(宗教組織)や国家が実施した場合は供養」で、「個人が実施した場合は犯罪」という位置付けになりますでしょうか? ソビエト連邦時代のレーニンの生きミイラも、このごろは「もうソビエトではないんだから、普通の墓に埋葬すべきだ」との世論と保存派の世論が対立している、ということも聞きました。 世界中に広がって、いろいろな宗派に分派してしまって一概に「キリスト教では…」といいきれない状況かもしれませんが、これらの事実をうまく納得する概念を教えて頂けましたら幸いです。
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#2です。ご指名のようですのでちょっとだけ。 あの後少し調べたのですが、インターネット上で有名な骸骨寺院はチェコのクトナ・ホラ Kutna Hora にある寺院で、日本では通称「ドクロ寺院」と呼ばれているらしいです。 私がインターネット上で見た写真も、このドクロ寺院の写真に典拠があるようです。説明をしているHPを二つ、↓に挙げておきます。尤も、世界各地に小さいものはありますので、ロシアにもあるでしょう。 ただ、このチェコの例は、聖遺物とは少し事情が異なっているように思います。というのも、チェコのクトナ・ホラ Kutna Hora にある寺院で使われている(野ざらしのものも含む)人骨は約4万体ともいわれ、聖人の数としては多すぎます。 実はこの人骨は、ペストでの死者を埋葬するために昔の墓から人骨を教会内部に移した際、多くの(大きめの)教会では地下に納骨所のようなものを設置しますが、中にはクトナ・ホラのような小さい教会では、装飾として用いられているところもあるようです。そういうわけで、クトナ・ホラ寺院の人骨は、残念ながら大多数が一般人のそれです。 ロシアの一部(東欧付近)でもペストが流行しましたから、このような人骨の用いられ方もないわけではないと思います。 勿論、#4の回答にある、一点ものの展示(といって良いのかなぁ)である聖人の遺骸を聖遺物として尊ぶことは、充分にあり得る話であります。
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- machirda
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ロシアには大規模な骸骨寺は無かったと思うのですが…(チェコのクトナー・ホラのことでしょうか)。 人骨を飾るのはキリスト教カプチン派の教会に多いのではないかと思います(この点、自信なし)。 カプチン派はフランチェスコ会から派生した修道会ですが、人骨を飾るのは「人間のはかなさ」と「神の永遠性」を対比させるためであったと言われています。 また、飾られる人骨の多くは修道士であり、一般の人ではなかったと思います。 キリスト教(カトリック)では「聖遺物」という考え方があります。イエス、使徒、聖人にまつわる品だけでなく、遺骸も聖遺物とみなされます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%81%BA%E7%89%A9 以前、ウクライナ・キエフの洞窟修道院(東方正教会)に行ったことがあるのですが、そこには修道士の遺骸がガラスの棺に安置されていて、熱心な信者はすがりつくようにして接吻をしたり、涙を流したりしていました。これは人骨を装飾とした教会とは違いますが、遺骸=崇拝という構図は近いような気がします。 こういう概念はキリスト教だけでなく、仏教でいう仏舎利も共通点があるのかな、とも少し思います。 レーニンのミイラは私もモスクワに住んでいたとき見たことがありますが、これはやっぱり政治的理由が強いのではないかと思います。今は毎日長蛇の列ができていて、完全に観光名所といった感じです。国内の世論としても埋葬すべきだという人は多いです。
補足
おつきあい頂き誠に感謝いたしております。 >ロシアには大規模な骸骨寺は無かったと思うのですが…(チェコのクトナー・ホラのことでしょうか)。 そうでしたか。私もニュースを何気なくクリックして出会った記事でしたので原文は読まずに「ロシア」との邦文脚注をそのまま信じてしまっていました。 今改めて、当該ニュース欄を遡ってどこだったか探してみたのですが、ちょっともうわからなくなってしまいました。 エキサイトかgooかライブドアのニュースでのリンク先のいずれかだった記憶なのですが… ※この辺、#2さん、ご記憶ございましたら助太刀お願い出来ましたら幸いです。 >人骨を飾るのはキリスト教カプチン派の教会に多いのではないかと思います そうですね、カタコンベはカプチン派の特徴である点について、以前建築学の授業で習った記憶があります。 これは人骨によるインテリア装飾芸術の美的構築よりも、ミイラ陳列のほうかと思います。 >また、飾られる人骨の多くは修道士であり、一般の人ではなかったと思います。 なるほど、教会に仕えた牧師や神父が死後に特別与えられる栄誉としての遺骸のインテリア装飾への喜捨、という位置付けですね? これはなかなか門外漢の私にもなるほど、と説得力を感じました。 この古い教会は代々、現実に礼拝堂から見上げるとそこに人骨として見えるこれら聖職者たちの尽力によって成立発展してきたのだ、という歴史を生物学的に非常に分かりやすく信者にプレゼンテーションしているという訳ですね。 >ウクライナ・キエフの洞窟修道院(東方正教会)…遺骸=崇拝という構図は近いような気がします。 >仏教でいう仏舎利も共通点があるのかな、とも少し思います。 そうですね、私は少々勘違いしていたかもしれません。 いずれの教会も、キリスト教を根幹とする以上は、陳列されるなきがらは「聖職者」のなきがらであり、決して「檀家信者の一般人」ではない、というのが基本精神ということでしょうか…。 (中には日本で言う所のお布施戒名料次第で死後の地位が上がって陳列に参列可能、などという現代に残る一種の宗教腐敗的抜け道もあるのかもしれませんが) >レーニンのミイラ 私も埋葬が決定になる前にぜひロシア旅行をして、人類史に残るソビエト連邦の最高技術、を純粋に科学の検証として見学してみたいと予々思っています。 本当ならば北朝鮮でも金日成が亡くなったら政治的意図としては同様な保存をしたかったのかもしれませんね…。 朝鮮の儒教がこれを許さない哲学だったのか、単に予算の問題だったのか、その辺も実に興味のある哲学観です。 もしご存じでしたら、また宜しくお願いします。
- at9_am
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#2です。 ちょっと私に誤解があったようなので再度回答します。 エドワードゲインの場合は、墓から死体を掘り起こしているので、日本で言うところの墳墓発掘死体損壊等の罪に当たります。これは、日本の感覚でいえば、安らかに眠っている故人を傷つける行為だからです。 しかしながら教会の場合は、死体を(日本風にいうと)供養する場所であり、死体の聖化そのものも供養になると捉えられるので、全く問題はないでしょう。 それからレーニンの生きミイラですが、レーニンの反対勢力(とレーニンに思われた人)が幽閉(投獄)され餓死させられ、それが見せしめのためのさらされたという事例がありまして、レーニンの遺体ではなくそちらを思い浮かべていました。 たしかにその死体は残っていないはずですね。失礼しました。 それで、レーニンの遺体ですが、これは彼の部下達がレーニンの独裁を継ぐための道具の一つとして用いているので、キリスト教会のそれともエドワードゲインのそれ(個人的趣味)とも、やはり異なっています。
お礼
どうも再度のおつきあいを頂き大変感謝いたしております。 >エドワードゲインのそれ(個人的趣味) たしかに、個人的な趣味は罪、宗教機関の施した陳列は供養、という遺体への観念は納得出来ました。 世界中のびっくりニュースになる教会ですから宗派としては異端なんでしょうが、一応、国家の公認で亡骸の陳列供養を施す特殊な信者を檀家とする教会、ということになりそうですね…。 >彼の部下達がレーニンの独裁を継ぐための道具の一つとして用いているので そうですね。ゆえにもう生きミイラ保存ではなく普通のお墓に埋葬し直すのが筋だ、という世論が起きている訳ですよね。 他人の亡骸を勝手に飾って私供養?してしまうゲイン事件とは違って、今捜査中でまだわからないことですが平塚五遺体事件のように母親が「私の子」を肌身離さずに自宅に安置している例は、私は野生の類人猿の生態ドキュメンタリーで見たことがあるのですが、「情の観念」を持つ高等生物のめすであれば、自らの子供は自分の手から絶対に離したくない、という本能的発想、行動が起きてもおかしくないだろうな…と思う所がありました。 これが仮に幼児の突然の自然死であったとしても、日本は死亡の届や埋葬に関する法律(ほとんど一般人はそれを知らず病院や葬儀屋さんしか知らない状態?)にふれるため罪になってしまうのですよね。 …たとえば、私の両親の郷里へ行きますと、お寺の境内ではなく、各家の敷地内に非常に古いお墓があったりするんです。 現行法の施行前は日本でも自宅に自分で埋めて供養する、ということが当然の是としてあったと思われる証拠かな?と受け止めています。 (墓標も読めない多分明治以前の可能性が高そうですが)遺体をお寺に捧げるのでなく、自宅のお墓で他人の霊と交わることなく安らかに眠る、という観念があっても当然だろうと思う例でした。 キリスト教諸国では、こういった肉親によるなきがらの所有(犯罪行為の隠匿というより、純粋にわが肉親のなきがらは自分で責任持って保持したい、という欲求)は、やはり神様に対する罪悪と位置付けられていますでしょうか? なきがらは必ず神に捧げなければならない、という宗教観でしょうか?
- at9_am
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ロシアの人骨の教会の写真は、私も見ました。 一つ言っておかなければならないのは、それらの遺体は教会が殺した人間の体ではなく、普通に亡くなった人の遺体であるということです。遺体に手を加えて聖化するというのは洋の東西を問わずあるわけでして、日本で言えば例えばちょっと違いますが即身仏などはこれに該当するでしょう。 またスペインの例は、日本で単純にいえば、納骨堂を公開しているということに相当するでしょう。なにしろ火葬しない地域ですからね。 その背景には、質問文にもあるような文化的なものがあるでしょう。 ただ大抵は、この種のことは誰にでも許されるものではなく、立派な人にのみ許されるので、大変な栄誉なのではないのかと思います。 因みに、レーニン時代の生きミイラは、レーニンの独裁政権に反対する人を見せしめのために残酷に扱ったものなので、事情が全然違いますね。
お礼
おつきあいありがとうございます。 ちょっと誤解がありそうですので、相互再確認よろしくおねがいします。 >それらの遺体は教会が殺した人間の体ではなく、普通に亡くなった人の遺体であるということです エドゲイン事件も、逮捕に繋がった被害者だけが殺害されたのであって、それ以外の遺体は隠亡のゲインがお墓から掘り起こして綺麗に飾ってあげたのではなかったでしょうか? (個人がしたことだから異常犯罪で、教会の儀式ならば栄誉…なんですよね?) 遺体に手を加えて聖化することを私は否定論を唱えたいのではないんです…。 エドゲインが殺人をしたのは最後の一人で、それまではお墓の中でミミズやモグラと出会って可哀想、私が綺麗に飾ってあげる、と(狂気からですが)行なっていたのですよね。 骸骨教会の装飾の意図とそれほど差が無いように思うんです。 ゲインの犯罪は、殺人をしなくても墓を掘って遺体を飾ったことで充分重罪が成立するものだと聞いていますので、この辺の教会が行なうことと信者が個人で行なうことへの待遇の差がどのような哲学によって区別されているのか? …というのが質問の主旨です。 >因みに、レーニン時代の生きミイラは、レーニンの独裁政権に反対する人を見せしめのために残酷に扱ったものなので、事情が全然違いますね。 レーニン時代の生きミイラ?ですか? ミイラになったのはレーニン自身の遺体でレーニン廟に飾られているのではないでしょうか? 自信ありご回答の背景としての事実はレーニン廟に民衆の生きミイラが見せしめとして飾られているのですか? この辺、大変驚いています。 ぜひ、事実の再確認をお願いします。
誰がやったって犯罪は犯罪です。 でも時効も成立してるでしょうし(外国の時効は分かりませんが)、犯罪として裁くことは難しいんでしょう。 被害者にとっては不運なことですが、歴史的価値というのも出てきてしまってますからね。
お礼
おつきあい頂きどうもありがとうございます。 > 誰がやったって犯罪は犯罪です。 これは、日本の「ひかりごけ」が犯罪で、「アンデスの聖餐」は法王が許した、という件をどう考えるか? と、中高生によく課せられる夏休みの宿題と同じく悩ましい問題ですよね…。 西欧諸国に時効の制度がある国は少ないと聞きましたが、ロシアやスペインは時効のある国でしょうか… (檀家信者の亡骸を飾り続けているスペインの教会の例は現在進行形なのでは?) > 被害者にとっては不運なことですが この辺がポイントになりそうに思います。 果たして、「不運な被害者」なのか、「教会に美しく飾られる栄誉」なのか、 信者が自らの亡骸を喜捨している精神であればこれは被害でなく、この上ない幸福でしょうし…。
お礼
どうもたびたびにありがとうございます! >そういうわけで、クトナ・ホラ寺院の人骨は、残念ながら大多数が一般人のそれです。 なるほど、ペストのような疫病大量死で埋葬に困った挙句に教会が結論とした「妙案」が聖なる装飾としての骸骨利用、という訳だったのですね。 (単純にお墓に入り切らないというだけでなく、おそろしい病原菌を絶やす為例外的に火葬したからこんなに多数の骸骨が生じた、ということですね。英語の解説はちょっと敷居が高かったのですが、ペスト根絶の祈願をかけた骸骨装飾、という意味も含まれているんでしょうか…) >約4万体ともいわれ、聖人の数としては多すぎます。 そんなに使われているのですか! 日本語にある人柱、とは本当にスケールが違いますのでこの哲学的な理解には今回皆さんから頂けたような説明が必要ですよね。 お陰様で「キリスト教世界の遺骸装飾の謎」が解けました!