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蘇我氏なんて本当は居なかった?
日本書紀は藤原不比等が書いたものですがどうも藤原氏の偉業…特に父の鎌足を英雄化させるためのものだったように思えます 実際は大化の改新なんてものはなくてそのために登場させた蘇我氏も実際は居なかったのでは? と思うのですが… 日本書紀は実際は歴史書ではなく藤原不比等の書いた歴史小説だったって事もありえるとおもうのですが?
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帝紀・旧辞を基に記紀が書かれたわけですが、 それって国の大本の大事な書物です、 それが現存しないというのは、消されたということです。 政権与党にとって都合の悪い事が書かれていたのでしょう。 天武王朝です。 天皇に就く資格のない人が天皇位に就いた、 その正当性捏造に記紀をこしらえたのでしょう。 天武はどういった人物だったのか? 本当に天智の弟だったのか? なぜ天智は娘を天武に嫁がせた? それに、ほぼ同じ時期に記紀が成立するのは、おかしい。 国史の編纂って莫大な予算がかかるはずだから。 そして天武王朝は、聖武天皇とその娘称徳天皇で絶滅し、 桓武天皇から天智王朝に戻りますね。 皇室の菩提寺の泉涌寺には、 天智、光仁、桓武、嵯峨...という順で位牌が祀られてあり、 天武系の天皇は入っていない。 つまり天武は余所者だったのに、どさくさに紛れて政権奪取し、 つじつま合せに家系図の書き換えをやったということです。 それが古事記・日本書紀です。
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- moto_koukousei
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日本書紀は実際は歴史書ではなく藤原不比等の書いた歴史小説だったって事があったとしても、日本書紀の完成は720年頃、蘇我馬子の後裔で、中納言石川名足または名足の叔父にあたる中納言石川豊成の子である石川真守が生まれたのが730年頃で参議になったのが787年なら、当時蘇我の子孫を名乗れたのですから、蘇我氏が存在なかったとは、当時の人も思わなかったでしょう。 何だって、物語の要素はあるので全てを細部まで信じることはできないし、大きな創作だってあります。当然、日本書紀にスゴイものもあり、これは歴史小説にもならない創世神話もあります。 だから、全てインチキだけで終始しているとはいえないでしょう。 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_01.html 日本書紀に書かれている聖徳太子の事績は創作である可能性が高いですが、何でもかんでも噓と思うのはおかしいです。 ここの中にも、事実とか事実の簡略な記載はあるとみる方がまともでしょう。 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_28.html
お礼
そうですね 入鹿と蝦夷は創作 聖徳太子も藤原不比等が作った架空の人物で 面倒だから厩戸皇子で良いや ってことだったかもしれませんね
- EFA15EL
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多かれ少なかれ時の政権が作らせた歴史書というのは、自己正当化を含みます。 現代でも世界的には日本は第二次世界大戦の悪役であるのと同じ構図ですね。 古い時代になると人物の存在自体が疑わしいというのもよくある話です。 で、蘇我氏はどうかというと、 他の歴史書にも名前がある事、日本書紀以降もしばらくは存続している事などから考えると、 全く居なかったというのは無さそうです。 ただし、日本書紀にある様な一族であったかどうかは定かではありません。 (当時有力豪族のひとつであった事は間違いないでしょうけどね)
お礼
事実と創作を織り交ぜた小説みたいな書き物ってことでしょうか ありがとうございます
- mpascal
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そのあたりは、関 裕二さんの本ですかね。 居なかったのは、聖徳太子?
お礼
蘇我馬子も怪しいものですぜ旦那
お礼
やはりそうですか ありがとうございます