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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:東大寺二月堂で行われる修二会(お水取り)に関しての)

東大寺二月堂の修二会(お水取り)についての質問

このQ&Aのポイント
  • 東大寺二月堂で行われる修二会(お水取り)に関しての質問です。
  • 東大寺二月堂で行われる修二会(お水取り)において、別火とは日常と忌みの状態の間で穢れが伝播するのを防ぐために用いる火を別にすることを指します。
  • 具体的には、松明の火を別にする方法について詳しく知りたいです。松明の火を炊事用や風呂焚き用、ゴミ焼き用などに分けるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • tak7171
  • ベストアンサー率40% (77/192)
回答No.2

No.1の回答者様のリンクにある文章を私なりに解釈させていただきます。 修二会の本行の前段階として、その準備を行うために行われるのが「試別火・惣別火」という儀式ですが、ここでは本行の練習と、そこで使われる様々な道具を作ることになります。さて、宗教儀式の常として、本行に携わる人間と道具を全く穢れのないものにしなければなりません。神仏の代行者あるいは依代にならなければならないのですから。なので、この行を行うために別火坊という宗教的儀式によって何重にも浄められた結界を設け、そこに持ち込む全ての人・材料も同様に浄められたものにしなければなりません。更にその道具を作るための材料やそこに携わる人の飲食物を加工するのに使われる火も、浄められた結界の中で宗教的儀式に則って作られた清浄な火を用いる、穢れを一切取りこまない、ということになるかと思います。別火というのは、宗教儀式のために徹底的に穢れを排除するため、世俗の穢れた火とは「別の(清浄な)火を用いる」ということで、それ以外の炊事用や風呂焚き用やゴミ焼き用といった用途で分ける意味はなく、別火坊を無菌室に例えれば、無菌室内で使われるものと無菌室外にあるものは、同じものでも別扱いくらいの意味ではないかと思います。

yu_OKWave
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! ご指摘の説明にて、東大寺が「徹底的に」浄化された火を作ろうとしている、ことがよく理解出来ました。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

東大寺の境内に八幡様の神社があります。 この手向山八幡宮が別火と深い関わり合いがあります。 この手向山八幡宮の宮司が練行衆の別火坊入りや参籠宿所入りに先立って台所・仏餉屋(ぶっしょうノや)、浴室・湯屋のかまどの清祓を行い清めます。 これが終わるとお水取りの儀式に携わる練行衆と呼ばれる僧侶が宿所に入り火切金で燧石(ひうちいし)を打って聖観音の燈明に火を着けてその灯明から火を分けて試別火(ころべっか)と呼ばれる修行の期間中に使う火とします。

yu_OKWave
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! 手向山八幡宮と東大寺は隣同士でもあり、東大寺発足時に深い関わりがあることは存じていましたが、お水取りの別火にも関与していたとは、まったく知りませんでした。大変勉強になりました。

  • kifimi
  • ベストアンサー率72% (425/586)
回答No.1

>「試別火、惣別火」という儀式を行うとのことですが、実際どの様なことが行われているのでしょうか? 既に御覧になっているかとは思いますが、東大寺のサイトに、どのようなことを行うかの説明が書かれています。 http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie1-1.html 「別火」というのは、「世俗の穢れた火」と「清浄な火」を区別することで、精進潔斎をするということです。 具体的にどのような作法でやるのかは私は知りませんが、一般的な神事での例を挙げれば、着火のための種火を、既にある世俗の火種から取らずに、火打ち石などで清められた種火から火をおこしてそれを使う、ということだろうと思います。 前述のリンク先にも、 >「惣別火」の期間に入ると、(中略)部屋の外に一つある火打ち石で点火した火鉢以外は一切火の気がなくなってしまう とあるので、火打ち石で種火を取るのは間違いないと思います。 火打ち石を使うことは、それだけでも穢れを払う役目がありますし。

yu_OKWave
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます! >> 着火のための種火を、既にある世俗の火種から取らずに、火打ち石などで清められた種火から火をおこしてそれを使う ご指摘の様に、火打ち石で起こした火は「穢れのない火」と考えることが出来ます。しかし、その穢れのない火は「悪気のない無邪気なこども」と考えることが出来ます。 その穢れのない火を、かまどの煮炊きに用いれば美味しいごはんを炊くことが出来ますが、同じ火が家に燃え移れば家財や人の命を失わせる火にもなります。従いまして、この「別火」という作業は、その穢れのない火を「善をもたらす火」と「悪さをする火」とに何らかの方法で別けている、「別火」しているのではないか?と考えたのです。 素粒子論の世界に南部陽一郎博士のノーベル物理学賞の受賞理由になった「自発的対称性の破れ」という考え方があります。何も存在しない真空から、空間の「ゆらぎ」によって物質と反物質とが同時に同量が生まれ、この作用によって反物質だけが滅び、物質だけが残ったのではないか?という学説です。 この説の様に悪さをする火が自発的に消えないまでも、仏教が持つ(とされる)神通力によって「善をもたらす火」だけを残し、「悪さをする火」を消滅させる様な儀式が行われているとしたら、そんな美しい宗教儀式はないと考えました。 しかし、この儀式は秘儀のはずですから、その様な情報がインターネット上に乗るはずもないですね。失礼致しました。。。

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