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宗教的な魂を持たない人が例えば介護をしたってそれは

宗教的な魂を持たない人が例えば介護をしたってそれは介護でしょうか?例えば家庭の団欒を求めても、それは利己心の戯れではないでしょうか?

みんなの回答

  • yuups777
  • ベストアンサー率12% (8/64)
回答No.6

貴方が知らないだけです。

  • yuups777
  • ベストアンサー率12% (8/64)
回答No.5

介護職と宗教は関係ありません。

hatarakuzinkaku
質問者

お礼

介護は職業にはなりません。

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.4

この「宗教的な魂を持たない人?」これを説明して下さい。余りにも抽象的な言葉ですので、呑み込めません。

  • seble
  • ベストアンサー率27% (4041/14683)
回答No.3

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.2

お礼コメントを下さるのは結構ですが、コメント内容は「お礼」とは言えない内容ですね。 議論に引き込もうとする意図でもお有りなのでしょうか? 回答者は回答するだけです。 それを質問者がどう受け止めようと質問者の自由です。 「お礼」システムを利用しての回答に対する否定や反論は回答者として求めていません。 回答に対して何か知りたい事が有るなら補足にて再質問願いたい。 回答を求めながら回答そのものを否定するのは無礼千万。 再回答 …先回答は私なりの考え方を回答したものであり、考え方を変えるつもりもなく故に回答内容を変えるつもりはない。 よって、回答に対する否定コメントは回答者にとって無用のものであり、 「お礼」ではないと判断してコメント自体を拒否する。 …以上、この返答を「お礼」コメントに対する再回答とする。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.1

人も獣と同じく欲求の塊であることに変わりはないのです。 なまじ脳が他の獣より発達してしまったために感情と理性の葛藤という厄介なものまで抱えてしまっているのです。 そこから不安や悩みが生まれ、それを癒やすために心の在り方や居場所、拠り所を示す導として生まれたのが宗教ではないでしょうか。 人は欲求と感情と理性の狭間に在って宗教の導により先々死にゆく者に対しても「お互い様」の心を持つ知恵を得ています。 介護と言えば聞こえは良いですが、 「死んでからも助けてもらいたい」という甘えと、 生きてる間は身近な者を亡くす悲しみを先延ばしできるという甘えと、 その安堵感と引き替えに、身近で生きてる者は助けようという「お互い様」の心によって介護は成り立つと思います。 家庭の団欒も、一人で生きる事の難しさと孤独の辛さを本能的に知っているからこそ、 互いに自己の欲求が叶いやすい一家という単位社会の中で、団欒という形態を維持しようとするのです。 つまり自己の欲求が叶いやすい形態が目的ですから確かに利己心です。 ただし、利己心というものは単なる刹那的な戯れで成り立つものではありません。 本能に従って欲求を追い求める必死な心の現れであり、それこそが人の正直な姿なのです。 人間であるからこそ、その欲求や感情を否定しようとすると矛盾や葛藤という不幸とも言える程の苦痛を味わうことにもなります。 また、戯れによって苦痛から逃れることができるなら、それも心の逃げ場の一つとして肯定されるべきでしょう。 否定的な評価は無用だろうと思います。 質問における「宗教的な魂」が何を指しているのかは知りませんが、 人は誰しも成長するにつれ魂も成長します。 「宗教的な魂を持たない人」がいるなら、その人の魂には未だ宗教による救いの手が届いていないのでしょう。 そのような人を否定的に扱い突き放すのであれば、それは宗教の存在意義に矛盾します。 今一度、宗教というものを考え直す必要がありそうです。

hatarakuzinkaku
質問者

お礼

違いますね。利己心は解決するものです。そうしないと、人生解りません。