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江戸時代の銭湯
JIN-仁 では男女別々になっているシーンが出てきますが、当時の浮世絵などでは混浴しているシーンもあるようです。当時は男女別々のところも混浴のところもあったのでしょうか。それとも地域による差でしょうか。
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江戸にある銭湯は後の時代には原則的に男湯と女湯が分かれていました。19世紀初めに書かれた式亭三馬の「浮世風呂」は江戸の銭湯を舞台にしたフィクションですが、男湯と女湯に分かれてお話が展開しています。最初の方に「論語」をもじって「…男女風呂を同じうせず、夫婦別あるをしれるや。」という一文もあります。 また幕末の「守貞謾稿」には当時の江戸の湯屋の平面図が書かれています。入り口だけは一緒ですが脱衣場(板間)から先は確かに男女が別々です。 江戸時代には男女混浴の湯屋のことを「入り込み湯」と呼んでいました。江戸時代の初めには水が十分得られなかったこともあって、入り込み湯も相当あったようです。しかしやはり風紀上宜しくないということで、幕府は寛政の改革でその禁止令を出しました。 ただし地域的な差はあり、禁止令が必ずしも守られていたわけではなく、長い間上方では男女混浴が続いていたようです。「守貞謾稿」にもそのような記述と図があり、大坂の湯屋は浴槽だけは男女別ですがそれ以外は一緒です。 「夫婦別 あるのは江戸の 湯屋ばかり」という川柳もあります。 なお男女が分かれていた江戸でも、女湯に客が来ない朝方に与力や同心が入浴することがあり、そのために女湯に刀掛けがあるところがありました。これが「八丁堀七不思議」の一つ「女湯の刀掛け」です。
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- takuranke
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JIN-仁の舞台は幕末なので、 男女別々の湯屋もありましたが、 圧倒的に多かったのは入込湯(混浴)、 これは日本全国で同じ状況だったそうです。 江戸初期、 江戸の町は圧倒的に女性不足だったので、 ほとんどが男性客のみ。 そのため、湯女と言う色々なサービスをする女性がいました。 元禄16年の大地震で湯女が居なくなるまでは、 吉原を脅かすほどの人気があったそうです。 ちなみに、当時から湯屋には2階があり、 大広間と小部屋がつくられていて、 小部屋は当然湯女と遊ぶための部屋です。 それと、湯屋の入口を開けると、 石榴口といわれる、下がり壁まで何もさえぎるものが無く、 脱衣場と洗い場の堺もあいまいでした。 ただ、浮世絵で残されているのは、 男女別のが多いです。
- tiltilmitil
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男湯と女湯が別れていたというのは江戸時代の文化年間に書かれた式亭三馬の滑稽本に記述があるようです。これが一般的かはともかく珍しくはなかったということでしょう。 http://rakugonobutai.web.fc2.com/205ukiyoburo/ukiyoburo.html
- SPS700
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下記によると、1791年(寛永三年)以来、風紀粛正のため、混浴を禁止する御触れが出ているようですが、全部が全部守ったわけではなかったそうです。 https://edo-g.com/blog/2015/11/ofuro.html/3
ドラマは、真実や事実ではありません。 昔のシーンでも、現代の考え方に合わせて、内容を変えるなども良くある話です。
- citytombi
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資料によれば、寛政3年の「寛政の改革」以降何度か「風紀が乱れる」という理由で混浴禁止令も出されましたが、男湯と女湯に分けるのは経済的に難しいなどの理由で定着せず、明治政府の取り締まりで絶滅するまで、禁止&復活を繰り返して、混浴時代が続きました。 なおJINですが、ドラマの設定上映像的に混浴は不適切と判断したのでしょう。
- weeeho
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混浴の方が一般的だったと聞いた事があります。