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戦国時代の雪山での遠征と同盟結成
- 戦国時代から江戸時代にかけて、雪の多い地域で行われた大名の遠征に関する歴史的な話について詳しく知りたいです。特に、難しい道中や同盟の結成に関する情報が知りたいです。
- この話は、歴史バラエティ番組や映画に登場した可能性があります。記憶はあいまいですが、主人公はイケメンな大名だったような印象があります。大名の帰りを待つ正室や側室の存在も感じ取れました。
- また、思い出せないが「GOEMON」(2009年)と「仁 JIN」(TBSドラマ)にこのような話が登場したのか気になっています。しかし、これらの作品はフィクションであるため、実際の歴史とは異なる可能性があります。
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質問者が選んだベストアンサー
佐々成政が徳川家康に共闘を乞うために北アルプスを越えた出来事ではないでしょうか? さらさら越えです。 1584年、成政は徳川家康に、豊臣秀吉に対しての共闘を促すため、 居城越中富山城から厳冬期の北アルプスを越え、 遠江浜松の家康の元へ向かった。 当時の登山装備から考えても驚異的な行動であり、 「さらさら越え」の名で現代にも言い伝えられている。
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私も、既に回答がある佐々成政ではないかと思いました。 質問者さんが何となく覚えてらっしゃる話は、NHKの「その時歴史が動いた」か、それと似たような歴史番組で紹介されたのではないでしょうか。私も見た記憶があります。 放送当時の大河ドラマは「利家とまつ」だったと思います。前田利家の正室まつは、佐々成政の妻と仲がいいという設定だったので(史実かどうかは知りません)、NHKの番組でも、大河ドラマの流れを汲んだ展開だったような記憶があります。私も漠然とした記憶ですが…。
- lions-123
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佐々成政の「さらさら越え」 ・・・ウィキペディアより引用 敵対勢力の包囲下にあった危機的状況を打破する為に、北アルプス・立山を戦国時代の装備で乗り越え浜松の家康に窮状を訴え助力を頼る為の決死の山越え「さらさら越え」のエピソード(史実)ではないでしょうか? 天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点・魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった(魚津城の戦い)。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。 明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。合戦中に起きた前田利家の寝返りや、勝家の敗死後は上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った利家と敵対して末森城の戦いが起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。 翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、羽柴の名字を与えられる。[ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF