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江戸時代の日本人の喪服は白服が正装だった。

江戸時代の日本人の喪服は白服が正装だった。 室町時代も喪服は白だった。 明治時代になると喪服が現在の黒色に変わった。 何があったのでしょう?

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  • pringlez
  • ベストアンサー率36% (598/1630)
回答No.3

明治政府がそうしたのです。欧米は黒だからそれに倣おうと言って。 明治政府はそれまで260年続いた徳川の文化、700年続いた武士の世を徹底的に否定するために、日本の文化をいろいろ破壊してまわりました。 徳川が支配する国から、薩長が支配する国に作り替えました。 仏教弾圧をすすめ、歴史あるお寺を何十万という単位で破壊しまくりました。 日本の国教を仏教から神道に改めました。 天皇は人間ではなく神だとしました。 戦争で政府軍側として戦って死んだ人は、神様になれるというルールの国にしました。 暦を変更しました。 そうした明治政府による日本文化の破壊の一環です。

america2028
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回答No.8

多分,いわゆる喪服が,白色基調というのは,朝鮮半島の,李氏朝鮮王朝(白色の韓服や,チマ・チョゴリなどの衣装)とか,主に,平安時代などの,古代の日本の皇室(天皇家)などの場合ではないかと思いますが,日本の朝廷などでは,女性の出産や,貴人の崩御などの行事は,穢れとされたと思うので,いわゆる,出産(お産)や,喪中などは,周りの人達などは,白色の衣装だったと思います..多分,そういった,古代日本などの,穢れを表す行事での,白色の装束などは,儒教的な考えが,基本だと思いますが,最近は,儒教的思想などが,強いと言われる韓国でも,普通に,黒色の喪服(洋装など)ですから,北朝鮮は,知りませんが,現在の,黒色の喪服,洋装・和装(着物)などが,普通になって来たのは,日本では,昭和に入ってからかもしれません..失礼しました m(__)m 。

noname#230414
noname#230414
回答No.7

唐と新羅が高句麗と百済を破り、高句麗と百済の王族が日本に逃れてきてから。 高句麗・百済・新羅は白い喪服。

america2028
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  • tepps789
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回答No.6

そんな事実はありません。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.5

 何があったのでしょう?  明治政府の政策です。でも添付の1935年(昭和10年))の写真にあるように、即座に行われたわけではありません。

america2028
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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2327/5177)
回答No.4

倭国時代前後。 日本書紀・隋書倭国伝では、日本では喪服は「白」となっていますね。 ところが、奈良時代後期では養老喪葬令に従って「黒」に代わっています。 この令では、天皇・皇族・貴族が対象。 >室町時代も喪服は白だった。 室町時代になると、一般庶民も「葬儀」を行いますから「昔の風習通り」で葬儀を行います。 庶民の喪服は「白」です。 まぁ、生地が白色ですから「黒色に染めるだけの財力は無い」です。 >江戸時代の日本人の喪服は白服が正装だった。 室町時代の風習・風俗が、そのまま続いたのでしようね。 当時の文献では、「水色」も流行した様です。 白色・水色は、死に装束の色ですよね。 例えば、巡礼者の衣装は「白色」。罪を犯して牢屋に入っている者は「水色」です。 ※浮浪者でない者が牢屋に入る時は、持参した(色を問わない)着物を着た。 >明治時代になると喪服が現在の黒色に変わった。 その通りですね。 幕藩体制の伝統文化を、徹底的に否定しましたからね。 例えば、神仏分離令⇒廃仏毀釈。仏教の弾圧。 興福寺の坊さんは、坊主を辞めて翌日から春日大社の神官になりました。 この時点で、興福寺は無住・廃寺状態。 松尾寺の坊さんは、坊主を辞めて翌日から金刀比羅神社の神官になりました。 この時点で、松尾寺は廃寺。(今は、復興) 金刀比羅神社にお参りに行っても、金毘羅大権現は居ません。^^; >何があったのでしょう? まぁ「脱亜入欧」政策の結果です。

america2028
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noname#232424
noname#232424
回答No.2

Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%AA%E6%9C%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC によると, ーーーーーーーーーーーーー引用 明治11年の大久保利通の葬儀の際多くが黒の大礼服で出席し、上流階級において黒が喪の色として認識され、次第に明治期を通じて黒に変わっていった。 ーーーーーーーーーーーーー んだそうな。 しかし,古典落語の『唐茄子屋政談』(江戸落語)では,放蕩者の甥を行商にだすときに,白足袋と黒足袋が片方ずつしかない。甥がみっともないと不平をいうと,叔父が「祝儀・不祝儀どっちでも合うからそれでいい」とはねつけるくだりがあります。これからみると,江戸では葬式は黒だったのではないか?

america2028
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回答No.1

元々仏教など東アジア圏の喪服は白ですが、キリスト教文化圏(ハンガリーなど一部を除く)だと黒です。 文明開化で西洋文化を積極的に取り入れた結果でしょうね。 今でも一部の地域では白い喪服を着ている地域もありますし、ご遺体に着せる死装束が白なのもその名残だそうです。 生者と死者を区別しているつもりもあるでしょう。

america2028
質問者

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