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「清貧」はどこから生まれた?

清貧という言葉がありますが、起源はどこにあるのでしょうか? 近年よく労働時間の長さが話題にあがりますが、清貧の文化はその一因であるように感じます。 では一体いつからどのようにしてそういった文化が定着したのでしょうか? 武士の文化と共にでしょうか?

みんなの回答

回答No.8

労働時間の長さが,『清貧』という言葉や,文化に関係しているのかどうかは,分かりませんが,最近の労働時間の長さや,過重労働などの問題は,いわゆる,企業内の問題などで,今までの,人材確保などの問題かもしれませんが,『清貧』という言葉は,老子の,『足るを知る』という故事や教えを思いますが,老子の教え自体は,いわゆる,日本の江戸時代などの,武士道などに与えた影響というものは,少なく,やはり,孔子の教えや,儒教の朱子学などが,日本の武士階級などに浸透していたようですので,『清貧』という言葉からイメージされるのは,主に,江戸時代などに,貧しかった,日本の下級武士や,郷士,貧乏な旗本や奉行所の同心などの,下級官吏の方などではないでしょうか‥‥仏教界でも,食事は,基本的に,二食だそうですし,昔の日本人は,基本的に,二食などだったという話もあります..もちろん,太平洋戦争中などの,日本の配給制や,食糧統制,『欲しがりません 勝つまでは』,『贅沢は 敵だ!』などの標語は,清貧の最たるものかもしれません..

  • staratras
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回答No.7

No.6です。少し補足しますと、「清貧」のような人の外面内面双方にかかわる概念は一筋縄ではいきません。「貧」の方は客観的に外側から見えるのに対して、「清」が心の清らかさや豊かさを示すものなら外からは見えないからです。清貧にもタテマエとホンネがあります。 日本の古典の「大データベース本」とも言える「古事類苑」には、人部に「貧」の項目があります。その説明は以下の通りです。 貧ハ、マヅシト云ヒ、又ハトモシトモ云フ。即チ財貨ノ乏少ナルヲ謂フナリ。我国ノ俗、古来清貧ニ安ズルヲ以テ尚シト為シ、名利ノ為ニ志ヲ屈セザルヲ以テ屑シト為ス。而シテ貧ニシテ能ク其父母又ハ夫ニ事ヘ、或ハ其志ヲ立テ、業ヲ成スモノニ至リテハ、殆ド枚挙ニ遑アラズ、イマ其著キモノヲ取テ、此篇ニ収載セリ。 これが美しい「タテマエの理想」だとすれば、あからさまな「ホンネの認識」も故事類苑のこの項目にありました。江戸時代中期の国学者天野信景の随筆集「塩尻」の一節です。 つらつら看よ、不幸にして貧究し、世にあらずして卑賎に居者、良もすれば世を憤り、人を恨むが故に、言に発して濁富は清貧にしかず、不義の出身は浮雲の如し、夷齋顔富の賢豈富且つ尊やなどと口にいひ、平居亦大言して矯枉正に過ぐ。凡そ貴に登り権勢なる人を見ては、必ず白眼を以ってし、富禄豊に厚き者を聞ては必ず衰困究迫の日を待つの心あるが如し…中略…是貧賤に安んじ命に任せざる小人のすがたのみ。 世を憤り、人を恨むが故に清貧が良いと主張する者は、富裕な者が落ちぶれるのを待つ心があるようなものではないかという認識はもっともです。ことさらに「清貧が良い」と言い立て「富貴なる者を白眼視する」のは「小人の姿」であって「真の清貧に安んずる者」ではない、ということです。本当に清貧に安んずるということは「貧賤に驕りて人を謾ずる(あなどりかろんじる)」ことではないののだというのです。このバランスは難しいですね。回答者には無理です。 なお、古事類苑の「貧」の項目には、このほかにも「清貧」の用例が多数ありましたが、No.6に引用した小野篁の例のような「貴人の死亡記事のほめ言葉」としての用例が他にもありました。「自ら清貧に安んずる」というのは常套句のようです。また学者についての用例も目立ちます。これらの歴史的な変遷の分析も面白そうですが…

  • staratras
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回答No.6

>清貧という言葉がありますが、起源はどこにあるのでしょうか? 「清貧」という言葉(漢語)は非常に古くから使われているもので、辞書を調べると漢和辞典では「後漢書」(本記・列伝は5世紀)の劉陶傳や「三国志」(2世紀末)の華歆傳の用例が、国語辞典では「日本文徳天皇実録」(829年完成)の仁寿2年(851年)12月の小野篁死去の条の用例がそれぞれ挙げられていました。 ○薨時年五十一。篁身長六尺二寸。家素清貧。事(レ)母至孝。公俸所(レ)当。皆施(二)親友(一)「文徳実録 仁寿二年十二月癸未」 ○陶既清貧、而恥以錢買職…「後漢書 劉陶傳」 ○歆素清貧、禄賜以賑(二)施親戚故人(一)、家無(二)擔石之儲(一)。「魏志 華歆傳」 中国の古典にはもっと古い用例もありそうですが、興味深いことはこの日本と中国の3人はいずれも社会的地位の高い政治家・学者であり、市井に生きる庶民や隠者ではないことです。また文徳実録を書いた人は魏志の文章を参考にしたのではないかとも思われます。 いずれにせよこの3つの「清貧」は「地位の高い政治家」について「行いが正しく経済的に豊かではなかった」という意味で使われています。現代で言えばウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領のようなイメージでしょうか。あるいはまた現在の中国で進められている「腐敗摘発」キャンペーンとも無縁ではなさそうです。 >では一体いつからどのようにしてそういった文化が定着したのでしょうか? 武士の文化と共にでしょうか? 現代の日本に「清貧の文化」が定着しているようには思えません。昭和時代に経団連会長や臨時行政改革推進審議会の会長を務めた故土光敏夫氏のように、その質素な暮らしぶりが人々に感銘を与えた人物は確かにいます。また平成4年に出版された中野孝次氏の「清貧の思想」はベストセラーになりました。 それらは「今の世の中に欠けている大切なものがあるのではないか」と多くの人達が感じたからだと思います。ただし多くの人が「清貧の思想」で生きることができるかといえば、それは回答者自身も含めて凡愚の悲しさで、目刺し以外の鯛やマグロも食べたくなるのです。 「武士は食わねど高楊枝」という諺があるように、武士の世界では富よりも名誉が重んじられたことは確かです。しかし例えば江戸時代の将軍様や諸大名が「清貧」の生活だったかといえば必ずしもそうではありません。現代でもそうですが、「こうした生き方が理想だ」ということと「現実にどう生きたか」ということとの間には大きな差があります。 >近年よく労働時間の長さが話題にあがりますが、清貧の文化はその一因であるように感じます。 これは少し違うでしょう。「清貧」とは「貧乏だが心が清らかで行いが潔白であること。余分を求めず貧乏に甘んじていること」です。心が豊かでなければ清貧とは言えず、「清貧の文化」とは単なる「耐乏生活の奨励」ではありません。長時間労働で疲労困憊する(させる)ことはただの「貧しさ」でしょう。

回答No.5

 中国故事でも見かけます 二十四孝 埋兒奉母 郭巨 於是告訴妻子:「我們家境清貧,兒子又分薄了母親的糧食,何不埋了這個孩子,孩子可以再有,但是母親死了便不能復活。」 凍った川で魚を取る息子? 「清官海瑞 為給自己母親祝70大壽,清貧的長特地奢侈一把,給母親買了兩斤肉,在明朝官場引起了轟動,還為母親題狂草的壽字」  用語の意味としては日本の(拙の回りの)使い方と同じ様です    ただ、論語の説くところとは違うかもしれません。    史記にも、簾潔の士や清貧の士が出てきます。違いを読み取られるのも一興かもしれません >では一体いつからどのようにしてそういった文化が定着したのでしょうか? >武士の文化と共にでしょうか?  労働時間との関連はわかりませんが、ご指摘のように江戸期武士がサラリーマン化し、武士の教育 としての朱子学の中で二十四孝や論語の話がよく取り上げられるようになったからと考えます ではでは

回答No.4

中野孝次の造語なわけないじゃん。 平安時代から用例はある。 *日本文徳天皇実録‐仁寿二年〔851〕一二月癸未 「薨時年五十一。篁身長六尺二寸。家素清貧。」 *古事談〔1212~15頃〕二・惟成依旧妻怨為乞食事 「惟成辨清貧之時。」 *貞享版沙石集〔1283〕八・一六 「清貧は常に楽しみ、濁富は恒に愁ふと云云」 *尺素往来〔1439~64〕 「於清貧之身者、」 意味は 「心が清らかで私欲をすてて行いが正しく潔白であるために、貧しく生活が質素であること。」 「余分を求めず、貧乏に安んじていること。」 長時間労働とは関係ない。 大体江戸時代の武士なんて、ほとんど働いていない。 武士は『三勤一休』といって、三日勤務すると一日休み。 下級武士は仕事より副業の畑仕事の方が忙しいかも。 商家はほぼ休みなく働くが、職人は午前中しか仕事をしない。

noname#230200
noname#230200
回答No.3

宗教は発足の時点では開祖の多くが禁欲を主張しています

  • nekosuke16
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回答No.2

清貧という言葉で、先ず思い付くのが中野孝次の「清貧の思想」。 この本に登場する清貧にまつわる人物たちに共通するのは、心が清く、質素で私欲を持たないということと、たとえ貧しくても、貧しさの中に喜びや楽しみを持っているということ。 また、良寛さんのような本格的な貧乏所帯から、本阿弥光悦のようなお大尽様まで様々ですが、やはり、私欲というものから解放されているという意味では、ある境地に達している人達だと思います。 言葉の起源についいては、日本語ということもあり、具体的に遡ることはできませんが、洋の東西を問わす、随分昔からこうした価値観の重要性は注目されていたようですよ。 ネットでみると、パレスチナの原始キリスト教徒は「貧しい人々」と呼ばれ、それは、イエスの貧しさが由来だとする。 そして、そうした貧しい人にこそ、福音は向けられるという。 修道院の清貧、マザー・テレサの生き方の原点も、ここ辺りにあるようですよ。 そうすると、「労働時間の長さが話題にあがりますが、清貧の文化はその一因であるように感じます。」とありますが、労働時間の長さに対する対価の低さがもたらす貧困問題とは、根本的に意味合いが違うと思いますよ。 「武士は食わねど、高楊枝」ではないですが、清貧は、あくまでも精神論であり、派遣などの非正規労働環境が拡大する中で、益々拡がりを見せる格差という社会現象の中から生まれる貧困が抱える現実問題とは、そもそも出発点が違う問題です。 昔よく時代劇などに出てきた話の中に、飲んだくれの父親を抱えながらも、けなげにそれを支えながら生きる娘が、彼女を見初めた金持ちのボンボンから見たこともないような大金を示されたときに「何の所縁もない、貴方様から、このような大金を貰う謂われはありません。」といって、全面的に受け取りを拒否するシーンなどがありましたが、清貧とは、単に貧乏ということではなく、貧乏ながらも、正直で決して嘘はつかない、人様のものには手を掛けない、理由も無く他人には縋らないといった生き方の指針であり、日本として、こうした文化が発展したものとするならば、やはり、他者に配慮するという意味では、寺子屋などが発展し、儒教的教育精神が具体的に社会に拡がりを見せた江戸時代以降ということになるのでしょうか。

  • hue2011
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回答No.1

中野孝次さんの著書「清貧の思想」が一番最初にこのコトバがでてきた語源です。 単純にいうと、昔世捨て人と呼ばれた人たちは何を楽しみに生きていたんだろうかということで、兼好法師だとか西行だとか芭蕉だとかを並べて勝手にいろいろ言ったものです。文春文庫にあるはずなので読まれたらいいと思います。 この人は大正14年生まれの人で、建前論とか正義を振りかざすというのを嫌った人で、反核だの戦争反対だのというと、自分の都合のいいことを言っているほうに寝返り本質的な観点に目を向けないと批判しました。アメリカが基地に持ち込む核に反対すると、ソ連に対してお留守になるのはどういう考え方か、ということを指摘した人です。 その人が、世捨て人を、やや尊敬を込めて語ろうとしたのが「清貧の思想」です。完全な造語なんですけど、まるで鎌倉時代からあった用語のように感じるから不思議です。 武士の文化と一緒に出てきたものではありません。それらはすべて錯覚です。

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