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目で認識していないと、他人の存在を信じられない
自分で人を目の前にしていないと、その人の存在を信じることができません。 例えば、好きな歌手がいるのですが私はその人を生で1度も見たことがありません。それならその人は存在しているか分かりませんよね?言ってみればテレビに映っている人全員です。見たことがないのでその存在自体を信じることができないのです。割り切ってその人の音楽は聴いていますが、その人の声なのか分かりません。 海外のバスケも好きなのですが、動画で見ても会ったことがないのでその人達は存在しているか分かりません。しかし自分で考えても解決もしないので、割り切ってバスケは動画で楽しんでいます。 さらに奥に入り込むのですが、例えば自分がさっきまで会っていた人も、ひとたび別れれば(実際に今、目で見ていなければ)、存在していないことになりますよね? なりますよね?というかそう思うんです私は。 目で認識していなければ存在していないと感じてしまうんです。考え出したのは数年前です。考え出してから自分が変な感じがして怖いです。 人は老いますが、自分が久しぶりにあった人が勝手に老いているのが怖いです。目で認識していないので存在しているはずがないのに、どうやってその人の時間が経過したのか分からないです。パラレルワールドですか?24時間その人を監視して、老いていくのを見るなら納得するんですが。 結局は自分しか存在していないのかも と最近は思ってしまいます。 変な考えですか?私はこんな考えをする自分が怖いです。普通の人はこんな考えするはずもないですから。 哲学的な回答でもいいので、何か教えてください。助けてください。
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- Mokuzo100nenn
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現象学が説明している通りの事を自覚的に了解されているのだと思います。 現象学を研究せずにその自覚を持つ人は少ないかもしれませんが、決して稀有では無いと思います。 「存在は無い。合意があるだけ。」
- kurinal
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- frau
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この疑問「世界5分前仮説」じゃないですかね?
- kaitara1
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あなたの頭は脳の解剖学を知らなくても考えてくれます。筋肉のことを知らなくても体は動きます。更に胃腸を意識しなくても食物を消化吸収してくれます。自分の体に限っても、自分が認識できる対象というのは全体からみれば無に等しいほど少ないものです。それにもかかわらず意識あるいは認識力がそれほど支配力が大きいと思えるのが不思議です。
- 雪中庵(@psytex)
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量子論的に、物の性質は確率性を伴い(不確定性原理)、 絶対的に確定しよとすると、無限不確定(=無)に発散する。 換言すれば、物を絶対的に確定化せず、いい加減(経験的) に捉える認識において、有限な性質=存在は派生する。 つまり、認識=自我仮説(記憶(時間軸)=過去(超光速))と 環境=空間仮説(予測(空間軸)=未来(光速下))は、対発生 していると言える。 そこにおいて、他人を含む階層現象性(認識体(脳)>細胞 >分子>原子>素粒子>クォーク>超弦(量子定常波))は、 自我成立のための必要(表面的に捉える事で確定化しない) だといえ、根源的な超弦(量子定常波)の光速を、階層化 (表面的仮想)により非光速(超光速(過去)と光速下(未来)) に相補分化させるものなのだ。 その「相補文化」=自我成立のための必要の1つとして、 不確定性無限の潜在としての認識可能性の、時系列化(過去 =記憶)がある。 時間は量子的に不連続であり、また「物理法則は時間独立 である」と言われる。 物理法則は、時間的連続性を前提とせずに成立しているのだ (時間は任意の外挿要因=幾何学における平行線定理のように)。 ある意味、時空的イメージを生じている経験=記憶は、無の 潜在としての認識可能性を任意につなぎ合わせた、仮想的な ものだと言える。 実は、精神疾患の1つに、他人の痛みを自分のもののように 感じるものがあり、また健康な人にも他人の気持ちを自分の もののように感じるミラーニューロンがあり、そうした錯覚 によってのみ自我仮説が成り立ち、存在性が認識されるなら、 そちらの方が「正常」となる。 つまり他人は、自我成立のプロセスの射影(自我成立の必要) であり、それは、自己の生における環境への依存(環境との 物質循環、交配と生殖、社会的分業etc.)として射影している。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ご参考に。臨場性とか現場性ではそうですね。 偉い思想家の本を読み、切実にその存在をひしひしと判るがいざその人の前に出たら恐れ多くて委縮してしまうかもしれませんね。 大師様とか。 空気は感じます、酸素とか炭酸ガスは感じますか。でも存在は認めますね。 概念で。不可視のもので概念で存在を疑えないものって結構ありますね。 それを知覚する感覚や感覚機能が人間になければ説明と概念でしか、存在を知りえません。 だからといってそれを存在しないとはしませんね。
補足
そうですね。目で認識している分には存在を確認できます。しかし「見て」いなければ存在はしていないと思ってしまいます。 質問させてください。 あなたは、今「見て」いない人の存在は信じますか?目で認識です。
このテーマは例え納得できる答えを得られたとしても、 すぐにその矛盾や落とし穴に気付き、堂々巡りに陥るでしょう。 人との繋がりを五感に頼っていると それらが途絶えた途端に存在を感じれなくなりやすいですが、 人との繋がりを目に見えない精神的な交流寄りにしている人は、 例えその人がこの世から居なくなっても、 その人の人柄や想いがどうだったか考え、心の繋がりは継続します。 先天的な感性の差や、幼少期からどんな愛情表現に触れて来たか、 どう他者を見る価値観に長年触れて育って来たかで、 無意識に心が求める他者との繋がり方が変わり、 心が満たされているか否かが大きく変わるのではないかと思います。 >私はこんな考えをする自分が怖いです。 怖さは知る事で克服できる場合が結構あります。 あなたが他者の存在を疑ってしまう背景には 何か相応の現状に繋がる境遇や、相応の経験があるはずです。 人も物も全て過程があって今があります。 自分自身を客観的に観察してみると、 なぜその気持ちを今抱いているのか気付ける時がいずれ来ます。 幼少期に構って欲しい時期にそれが叶わなかったとか、 寂しい気持ちをずっと独りで耐えて抱え続けて来たとか、 現状に繋がる小さな無数の原因が見つかるはずです。 今に至った過程を理解し受け止め、 現状から出来る選択肢に何があるか人に聞いて自分で考え、 どうなりたいか改めて考えて、出来る事から実践して行くと 「怖さ」は具体的な、どの程度の事が起こるのか、何ができるのか? という現実に塗り潰されて消えて行きます。 例え小さな小さな悩みでも、解消できずに無数に抱えると余裕を失い、 余裕を失うほど人は何でも手当たり次第に屁理屈をこじつけて 悩み(ストレス)を吐き出してしまおうとしてしまいがちです。 人間に傷付けられた動物が全ての人間を警戒してしまう様に、 人間もストレスを受けると無意識に記号化と拒絶を起こしやすく、 頭で考える永遠に答えの出せない理屈の泥沼の裏側には、 シンプルな気持ち、不安、ストレスが隠れている事は多々あります。 >他人の存在を信じられない の裏側には恐らくそうしたストレスがあるのだと思われます。 そして現状の暮らしに至るだけの過程を あなたは抱えているのかもしれない。 現状の自分を変えたいと感じる場合は、 自分の心が今感じてるとてもシンプルな気持ちに目を向け その気持ちを解消する知恵を求める方が早い事もあります。 まぁ、早い解決を求めず回り道をしても 全てがあってこそ今があるのが人生ですから、 何事も無駄にはならないものかもしれませんが。 私にできる助言は以上です。多少でも悩みが軽減されますように。
お礼
自分は今大変な時期にいます。この考えに至る理由は、そういったことから来る不安やストレスも関係しているのかもしれません。 ありがとうございます。自分の心に問いかけてみたいと思います。
- malaytrace
- ベストアンサー率33% (349/1027)
自分が認識(視覚だけでなく聴覚や触覚も含めて)していないときには、存在していないのではなく、存在しているか存在していないかを決定できない、と考えるべきでしょう。 現在の自然科学では「普通の」考え方です。当然の帰結に辿り着いたのではないでしょうか。 「シュレーディンガーの猫」で調べてみてください。
補足
つまり自分が目で認識できていない状態の人は、 存在している状態と存在していない状態で1:1で重なり合っているということですか。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
フッサールが、私たちは自分が、また、他人が存在しているという「存在信憑・信念」を持っている、と言っていて、それをドクサ・臆見の中でも、根源的なドクサ・臆見と言っています。 そしてそれを疑うことは、根源的なドクサ・臆見があって言っているので、私や他人が存在することを否定することはできない、と言っています。 つまり、あなたは自分や他人が存在することをあらかじめよく知っていて、その上で「その人を目の前にしないと、その人の存在を信じることができない」と言っているわけです。 確かに私たちの知識は直接的に知ったものは、わずかで、ほとんどの知識が間接的な、伝聞とか、文書によるものです。 でも、だからといって、そうしたものが、存在するか、存在しないか、信じられないというのは、あたかも、右手で知っていることを左手が知らないと言っているのと同じです。 デカルトも、すべてを疑えと言いながら、思う・コギトだけは疑えないという矛盾したことを言いました。 つまりそれが信じられないということは、一つだけでも信じるものがあるということです。 ウィトゲンシュタインは「確実性の問題」で、ムーアが、ここに右手がある、これで実在がある証明である、と言ったのを取り上げていますが、それは実在の証明ではなく、人間の知識には、確実性と言う地盤があるのだ、と言っています。 これをフッサール的に言えば、疑いは「存在信憑・信念」という地盤があって可能である、ということになります。 ですから、あなたは信じられないという前に、信じるということが先行し、それを前提にして、あるいは地盤にして、信じられないということが言えるのだ、ということになります。 ラッセルは「哲学入門」で、私たちの知識は「直接知」というものの上に築かれる、と言っていますが、要するに直接知っていることの上に、間接的に知ったものの知識が積み重ねられる、と言っていますが、「存在信憑・信念」に関して言えば、そんなことはありません。 直接知であろうと、間接知であろうと、私たちの知識の基盤には、「存在信憑・信念」という確信が、ドクサ・臆見として貫徹しています! あなたは「結局は、自分しか存在していないのかもと最近は思っています」と言っていますが、ウソを言ってはいけません。 あなたは、自分が存在していること、そして他人が存在することを十分知っているはずだからです。
補足
自分は存在していると思っています。 確かにそうですね。他人も存在しているとは思っています。しかし自分の目で現在進行形で認識していない人が存在しているとは思えません。矛盾していますが。 自分が一人でいるときは私の友人は存在してないのです。しかし会おうとすれば会えるのです。目の前に現れます。狂いそうです。 他人は存在しているのに存在していないんです。
- kaitara1
- ベストアンサー率12% (1154/9141)
すべてではありませんがあなたの考えていることと同じようなことを私も感じています。私は人だけでなくモノでも同じです。なくなったことさえ忘れていたものが、ある日偶然見つかったときなど、昔の友人にぱったりあったような感じがします。むしろものに人格を感じてしまうというべきかもしれません。お陽さまはまぶしいから直視できませんがお月様などには人格を感じてしまいます。お月さまは再会するたび、どこか恐ろしい。音 もなく動いていくのが無情な感じがして恐ろしい。自分は孤独だという感じもします。話がずれてしまいましたが、自分が見ている、見ていないにかかわらず、人も物もと同じようにすべてのものが古くなると思えば納得できるのですが・・・。回答にならないかもしれません。
補足
回答ありがとうございます。 >人も物も同じように全てのものが古くなると思えば 私は自分が見ていなければ存在していないはずの人が、古くなる(老化する)原理が分かりません。 存在していないならば、そんな考え自体不要だからです
お礼
回答ありがとうございます。 しかし私にはその答えが難しくよく理解できませんでした。