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数学の証明の順序について
数学であることを証明しようとしたとします。もしそれが成立したら定理Bということになります。定理Bが成立する証明を考えた結果、定理Aを使えば定理Bが証明できたとします。そこで一件落着ですが、定理Aが成立するということの証明の必要性は残されているわけです(そこまでは一般に求めないと思いますが)。 ところがよくよく調べてみたら定理Aの証明には定理Bが使われていたとしたらおかしなことになります。数学の定理はどちらが川上でどちらが川下かを判断して、使えるものを使わないとルール違反ということになるのでしょうか。常に使える定理は川上である、ということですが。そのような考え方になるのでしょうか。何を材料にして証明したら証明したことになるかということなのですが。 よろしくお願いします。
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- ddtddtddt
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#1です。 数学理論の構成は、概ね次のようになります。 まず公理が最初に来ます。公理は「これだけは証明抜きで認めてね」というもので、数学テキストの多くでは「こんなの常識だよね」という態度でしばしば省略されます。紙数に制限なんかがあるためです。成書(専門書)と呼ばれる理論を正式に述べた本では、公理も省略されません。 公理は多くの場合、解きたい数学状況の定義になり、運用は非常に不便であり(結論を出せない)実用的でもありません。そこで公理を認めたなら、どういう事が可能かを見て行きます。成書は既に出来上がった理論を書いてるので、公理が妥当かどうかも検証済みで、どういう事が可能かで見て行った事を、定理の連鎖として述べるわけです。 数学の証明の連鎖(定理の連鎖)は、基本的に必要条件の導出です。 公理 ⇒ 定理1 ⇒ 定理2 ⇒ ・・・ です。この系列で定理nが矛盾すれば、定理n以前の全ての定理と公理がご破算になります。だからこそ数学は信用できる、と言われます。また定理1,定理2,・・・と後ろになるほど、定理の内容はわかりやすく実用的になって行くのが普通です(程度問題ですけど(^^;))。 そして定理mにおいて、それがすぐにでも計算に持ち込めるくらいにわかりやすく、かつそこから公理を導出できたなら、理論はいちおう完結したとみなされるような気がします。何故なら、 公理 ⇒ 定理m ⇒ 公理 という事は、 公理 ⇔ 定理m なので、定理mは公理と同等であり、計算に持ち込めるくらいにわかりやすからです。これが「解けた」という状態だと思います。 そういう訳ですので、「収束半径に関する定理の証明が正項級数の定理に帰着された」場合、拾い読みで納得できるかどうかは、正項級数の定理を良く知ってるかどうかにかかってきます。知らないなら、もうちょっと後戻りして読みだす事になります。場合によったら最初まで・・・なんて事もありうる訳ですが(^^;)。 線形代数の方が拾い読みしやすいというのは、例えば高校の行列やベクトルの知識があるからではないですか?。
- dice_korokoro
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こんばんは。 >>ところがよくよく調べてみたら定理Aの証明には定理Bが使われていたとしたらおかしなことになります。 これは、循環論法の事を言っているのでしょうか? いわゆる堂々巡りというやつ。 だとするなら、教育上の数学では時々見られることで、有名なところでは、高校数学での極限の公式 lim[x→0]sinx/x=0 の導出については、正当性の是非が議論されてきたようです。「高校数学」「循環論法」でググってみると良いでしょう。 一方、学問としての数学では、長い時間をかけて緻密に積み上げられてきた歴史があるので、歴代の数学者たちは議論に矛盾が無いよう「抜かりなく」調べ上げているはずです。当然、堂々巡りになることもない。 何の前触れも無しにとある命題を掲げて「この命題は正しいのだ」というようなことはまず有り得ないですし、命題を予想したりすることはありますが、それを厳密に証明していく事こそが、数学者にとっての「楽しみ」なのではないでしょうか。
- ddtddtddt
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定理Aから定理Bは証明できる(導ける)。 定理Bから定理Aは証明できる(導ける)。 こうなっても別におかしくはないです。たんに定理AとBが同等である(同値である)事が示されただけです。 よくある事態は、定理AとBは同等なんだけど、定理Aの方がわかりやすく証明もしやすそうだというのです。この時は定理Aの証明を頑張り、(Bを使わずに)それが出来たらBも証明された事になります。 なのでAの証明は「一般に求められます」。
お礼
回答ありがとうございます。例えば数学の大定理というものでなく、数学テキストによく見られる証明問題とか説明とかそのようなレベルの場合はどうなるでしょうか。つまり数学テキストのある部分だけを拾い読みして”証明する”とか”証明せよ”という場合、何を材料にしての証明なのか拾い読みしただけでは分かりません。そのため結局テキストを通読するしかない、ということになってしまうのでしょうか。 例えば、ある本で数列の収束半径に関する定理の証明が正値級数の定理に帰着されました。”えっと正項級数って何だったっけ?”という状態です。正項級数の定理が成り立つから、収束半径の○○が成り立つという風になっているようなのです。その逆が正しい論理の流れなのかも知れないとも思うのですが。たとえ初学者向きの本でも拾い読みって難しいのかなと思うのです。また、そのような観点から線形代数の方が拾い読みがまだやりやすい感じなのです。
お礼
回答ありがとうございます。”数学書は拾い読みできない、すなわち通読しなければならない”ということになりそうなのですが。 また、循環論法ですが、ある証明問題が”証明終わり”を宣言したとします。その証明問題の解法の方針は、すでに証明が確立している別の定理に帰着されることが確認された状態ですね。ここで循環論法、トートロジー? になっていないことを見抜くには、数学という学問の流れを俯瞰する必要があるということなのでしょうか。一方で数学を道具と考えておいしいところだけ便利に使いたいという考えと相いれないように思えてくるのですが。