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徳川吉宗の将軍権力の盤石化とは?
- 徳川吉宗の将軍権力は、吉宗の三男の源三が生まれた頃には既に盤石なものであったのか疑問が持たれています。
- 徳川吉宗は将軍になりたての頃は、周りの幕閣などに気を使っていたと言われていますが、源三の誕生時には将軍権力が安定していたかについては詳細は分かっていません。
- 徳川吉宗の将軍権力の盤石化について詳しい情報はわかりませんが、源三の誕生が将軍権力に影響を与えた可能性は考えられます。
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hfdcvbxさん、こんばんは。 御回答ありがとうございました。 https://bochan.exblog.jp/1824440/ (↑)この URL のページによれば、 「御用取次」には享保元年(1716)5月、紀州藩出身の有馬氏倫・加納久通・小笠原胤次の3名が任命される。 そのうち有馬・加納の両名は、将軍吉宗の側近として多大の権勢をふるった。 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。 の部分で、 『1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、吉宗が紀州から連れてきた側近が老中の権勢を圧倒していた。』というような事が書かれていますが、 それでも、源三が生まれた、享保4年3月14日(1719年5月3日)の時点では、 試行錯誤の時期で将軍権力の絶対性は緩んでいたのでしょうか? その辺りも踏まえて、教えてください。 どうやら、最初はかなり古手の老中に対して気を使ったりしていたと思います。改革がうまくいくようになってから権力基盤がしっかりしてきたと思います。
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- ithi
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hfdcvbxさん、こんばんは。 享保の改革といっても、試行錯誤の時期で将軍権力の絶対性は緩んでいました。 享保の改革 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
お礼
御回答ありがとうございました。
補足
御回答ありがとうございました。 https://bochan.exblog.jp/1824440/ (↑)この URL のページによれば、 「御用取次」には享保元年(1716)5月、紀州藩出身の有馬氏倫・加納久通・小笠原胤次の3名が任命される。 そのうち有馬・加納の両名は、将軍吉宗の側近として多大の権勢をふるった。 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。 の部分で、 『1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、吉宗が紀州から連れてきた側近が老中の権勢を圧倒していた。』というような事が書かれていますが、 それでも、源三が生まれた、享保4年3月14日(1719年5月3日)の時点では、 試行錯誤の時期で将軍権力の絶対性は緩んでいたのでしょうか? その辺りも踏まえて、教えてください。
お礼
御回答ありがとうございました。 >どうやら、最初はかなり古手の老中に対して気を使ったりしていたと思います。改革がうまくいくようになってから権力基盤がしっかりしてきたと思います。 よくわかりました。 ありがとうございました。