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井伊直弼は良い政治家だったか?

幕末当時は、開国派鎖国派、他南紀派一橋派などにわかれてややこしいですけど。 井伊直弼は開国を推進したものの安政の大獄をして、桜田門外の変で暗殺されます。 その後、島津久光が公武合体で上京してなどと続きますが。 井伊直弼の後は安定したのでしょうか? 良い政治家だったのでしょうか?

みんなの回答

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.6

「良い政治家」の定義にもよりますが、日本の伝統的な「良い政治家像」から見れば、幕末当時の考え方でも現在の考え方でも「良い政治家」とは言えないと考えます。「安政の大獄で反対派を弾圧したのみならず、幕府の中でも独断専行していた」からです。 もともと日本の伝統的な「良い政治家(リーダー)」像は、聖徳太子伝説に象徴されるように、「多くの人の声に謙虚に耳を傾けたうえで熟慮の上で決断し、その責は自らが負う」というものです。その意味では、諸外国が開国を要求してきた際に、大名や朝廷に意見を求め、いわば「オールジャパン」で難局に対処しようとした当時の老中首座阿部正弘の政治手法の方がこれに近いと考えられます。 いくら優れたリーダーであっても「黙って俺についてこい」というような「独裁型」は、日本では昔のスポーツの監督ならばともかく、政治家としては昔も今も好まれません。たとえ非常時であっても権力者に謙虚さを求めるのが日本の特徴です。 ただし、非情な言い方をすることを許していただけるならば、井伊直弼は国の一大事にあたって誰かが決断しなければならなかったことを、周囲の恨みを買うことは知りながら大老として敢えて強引に断行した「乱世には必要な政治家」ではあったと考えます。

  • gesui3
  • ベストアンサー率50% (95/187)
回答No.5

伊井直助の後、「疾風怒濤」の幕末へと突入し波乱が収まることはありませんでした。 何といっても260年続いた江戸幕府の特別最高職「大老」が、暗殺されたからです。 その江戸幕府の権威失墜は一つの時代の終わりであり、大混乱の始まりでした。それは明治維新後も続き、西南の役後にようやく収まりました。 政治家としての資質は、決断力はあったと言えます。ただ、ご指摘の通り大虐殺をしたのが人間的にもどうかと思います。橋本佐内はじめ有為な人材を多く消してしまったからです。その恨みが暗殺に直結しています。せめて閉門蟄居とか引退させるとかの処罰であれば、桜田門外の変は起きなかったはずです。政治生命どころか命自体を失う政治をしたことをどう評価するかです。 ちなみに勝海舟はこう述べています。「おれは殺人ということはごく嫌いだった。御一新の際にも、牢に繋がれていたものは全部開放してやった。」勝は長寿を全うし、慶喜と明治天皇の和解まで実らせました。(ただし、日・韓・中の三国同時維新は夢と消えましたがー)

  • misa23
  • ベストアンサー率15% (38/245)
回答No.4

政治家にいい政治家はおらん

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.3

>井伊直弼の後は安定したのでしょうか? アメリカ政府の正しい歴史?というか、公式文書開示資料によると・・・。 ※アメリカも日本と同様に、政府が「歴史を決める事は無い」ので(政府が決めた)正しい歴史は存在しません。^^; ペリーの艦隊指令書(命令書)には。 1.日本政府が条約を拒否すれば、琉球を武力で占領する事。 1.そして、日本政府に最期通告を行う事。 となっています。 井伊直弼は、当初条約締結反対でした。 が、オランダ国王からの親書(国際情勢)や「アヘン戦争での、清国の敗戦・植民地化」などを考えて条約締結方針を固めました。 政治的には、幕府は崩壊しましたよね。 が、明治新政府時代に「世界史でも希な、短期間に西洋化」が実現しました。 幕末・新政府樹立の混乱を除いて、安定していたと見做しても良いかも? 実際、攘夷派は「明治政府から排除」されていますよね。^^; >良い政治家だったのでしょうか? 先に書いた通り、日本には「時の為政者・政府が決めた、正しい歴史」が存在しません。 個々の方の、判断次第です。 が、日米和親条約を結んだ結果「日本は、アジアで植民地にならなかった数少ない国」のです。 ※植民地にならなかった国は、あとはタイのみです。 ※第二次大戦時も、タイは日本と一緒に行動しました。日本は、タイとは戦火を交えていません。 結果的には、封建主義・鎖国体制がアジアで早くに終焉。 ヨーロッパ・アメリカなどの列強と肩を並べるレベルまで、短期間に到達しましたよね。 オランダ国王からの親書を真剣に幕府が考慮していれば、もっと早く鎖国体制が終わっていたかも知れません。 ※ペリー来航も、オランダ国王の親書に書いていました。 清国・朝鮮国は、自主的な開国をしませんでしたよね。 朝〇新聞・毎〇新聞・テレビ朝〇・T〇S・民〇党・自〇労・日〇組関係者には怒られるかも知れませんが、今の日本の出発点が井伊直弼の英断(独断)だという説も徐々に増えています。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.2

井伊直弼在世中は多少安定したかのように見えましたが、その後大きく乱れましたね。 おそらく桜田門外の変が失敗に終わっても、その後テロや武力蜂起が起きて結局乱れたのではないでしょうか? 良い政治家の良いってのは難しい表現ですね。 善良か悪人かといえば、間違っても善良では無いでしょう。反幕府派を弾圧しただけなら大老の職務を誠実に執行しただけとも言えるかもしれませんが、一橋派はじめ自分の対抗政治勢力を片っ端から弾圧して強烈に幕府を孤立させましたよね。あきらかにそういった意味で”良い”政治家ではありません。 能力があるかどうかってなると、まあ腕力はあったのでしょう。ただやってることは幕府にそれに伴った力がないにも関わらずひたすら力押し、度胸と行動力はぴか一ですが、それをもって有能と言っていいものかどうか。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.1

fryuie98さん、こんばんは。 彼が何故暗殺されたかといえば、朝廷に対する条約勅許(孝明天皇の許可)を待たずに不平等条約を結んだことです。これを一橋派に違勅条約と呼ばれました。でも、これって幕府の専権事項だったと思いますから、そんな必要なかったんです。 領地の彦根では歴代の殿様と同じく名君だったでしょうし、横浜とかは開港できたんだから恩恵を被っていると思います。だから、銅像を作っていると思いますが、彼の目的は徳川将軍家の譜代筆頭として、率先して幕藩体制を守ることが彼の政治的使命でした。 ご存知の通り、幕政改革を行いますが、必ずしも安定なんかしていないです。禁門の変や長州征伐など幕府の瓦解に向かって突き進んでいました。幕府の命運も黒船来航の時、老中の阿部正弘が外様大名や朝廷に対して意見を聞いた時点で命運は決まってしまいました。この後何でもかんでも外国の事に対しては朝廷の勅許をえる必要があるというような慣習を作ったからです。 島津久光が公武合体で上京してなどと続きますが。 これは一種余計なことです。だって幕府は欧米列強と外交をしながら、開国し、改革を行おうとしていたのですから、それを外様大名と政治なんてわからない公卿さんにさらに念を押される形になったんですからね。 井伊直弼 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC

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