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井伊直弼には護衛は居なかったのか?

桜田門外で水戸藩士に襲撃された際、井伊直弼は籠に乗っていましたがあっさり殺されました。 仮にも彼は老中です 籠の周りには彼を護衛する武士や近習の兵などは居なかったのでしょうか?

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回答No.8

ごめんなさい。 書き漏れがありました。 中村仲蔵の記録の中で、 <侍らしき1人の者が(=森五六郎)>、短い竹に刺した訴状らしきものを差し出しながら駕籠に走り寄り、<膝立て伏せになり>、駕籠を留めて(「止める」ではなく「留める」になっている)訴状の下に隠し持っていた小筒で撃った。 となっていました。 井伊が駕籠の中で正座をしていても胡坐をかいていたとしても、いずれにせよ、低い位置から狙撃されたことが明らかになり、井伊家の医師岡島玄達の検死記録の「太股より腰に抜ける短筒の弾丸痕」と一致するものと思われます。

azuki-7
質問者

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回答No.7

こんばんは。 最近、新しい史料が見つかりました。 それによると、 ★桜田門外の変が起きる丁度1年前の、安政6年(1859)4月に「森五六郎」は井伊の帰城の駕籠に向けて、木陰から拳銃を1発発射した。 しかし、それは的(井伊)には当たらず、騒ぎになったため、森は素早く遁走し捕捉を免れた。 ★この事件があってから、老中堀田正睦(まさよし)や同じく老中間部詮勝(あきかつ)などが「護衛を増やしてはどうか」と、進言したが、井伊は「先例の無いこと。ましてや、幕府の者(自分)から定(さだめ)を破るは、もってのほか」と答えて従前通りの供揃えでの登城、下城をすることを表明した。 ★森は、その後、同士たちとの打ち合わせの際、駕籠の警護の様子を仲間たちに話し、入念な計画を立てるに至った。 ★新史料とは、 同士の中の元水戸藩士「海後磋磯之介」(かいご さきのすけ)の書いた「計画立案書」のようなもので、次のように書かれていた。 ※実行は明五つ(午前9:00)頃とする。 ※斬り込み役(1人=森五六郎)が行列を止める→斬り込み役の背後で之を扶(たす)く(数名)→さらにその後方や側面より援護する(数名)→短銃発砲(1人=森五六郎)→之を合図に一斉討ち入り。 ★上記でお分かりのように、森五六郎が竹に挟んだ直訴状(らしきもの)を持って駕籠に走り寄り駕籠を止めた。 ★さらに、新史料として、歌舞伎役者の三代目中村仲蔵が、現場を見ていた町人から聞き取りをした史料も見つかり、それによると、 森「お願いのものでござりまする」 と叫んで、短い竹に刺した訴状らしきものを差し出しながら駕籠に走り寄った。 駕籠の近習「控えろ、控えろ」 と、叫んで森の前に立ちはだかった。この時に駕籠は停止した。 さらに、他の近習が「下れ、下れ、ならぬ、ならぬ」 と走り寄って来た。 だが、その瞬間、森が直訴状の下に隠し持っていた小筒(短銃)で打ち込んだ。 これを合図に十数名が斬り込みを始めた。 と、言うものです。 ★他の史料から、あるいは、Wikiにも一部掲載されていますが、60名の供揃えでしたが、駕籠かき、挟み箱持ち、旗印(槍)持ち、など、いわゆる、奴が約20名。護衛の士は40名。 さらに、この日は雪でしたので、刀には全て鞘袋が被せてあり、蓑、菅笠姿。 一方、襲撃班の18名は蓑、笠は着けておらず、すぐにも抜刀できる体制。 まずは、鉄砲の音で護衛の者たちは驚かされ、奴は逃げる。士で逃げた者もいた。また、他の士はあわてて鞘袋の紐を解こうとしたが、18名の者がそれぞれ2人を斬れば良い計算であり、当然、勝ち目はなかった。 ★また、井伊家お抱えの医師として「岡島玄達」と言う者が検死を行った記録も見つかり、それによると、「右の太股(太もも)より腰に抜ける短筒の弾丸痕」とあり、腰椎の神経が途切れてしまい、身動き一つさえできない状態、になってしまっていたことが分かりました。 そして、井伊は襲撃班に駕籠から引きずり出され頸を刎ねられた。 参考になさって下さい。

azuki-7
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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5118)
回答No.6

>井伊直弼は籠に乗っていましたがあっさり殺されました。 大老なのに、あっけなくテロに屈しましたよね。 >籠の周りには彼を護衛する武士や近習の兵などは居なかったのでしょうか? 60人から100人程度の護衛がいました。 直弼の駕籠の後には、讃岐高松藩主の駕籠が続いていましたからね。 直弼の娘は、高松藩主の奥方になっています。 ※桜田門外の変後、奥方と離縁。その後、どちらも再婚せず明治維新後に再度夫婦になっています。 つまり、譜代の雄である彦根藩主と親藩である高松藩主の駕籠が続いていた訳です。 高松藩は水戸徳川家の分家ですから、直弼としても水戸脱藩者が攻撃してくるとは思っていなかったのでしようね。 若干、安心していたフシがあります。 テロ側も、高松藩主が乗った駕籠が続いているとは思ってもみなかったようです。 高松藩の駕籠を襲った時に「これは、高松の若!」と、テロ分子が叫んだとの記録もあります。 じゃ、何故「直弼は、駕籠の中で即死だったの?」 実は、攻撃(テロ)側には「銃を持った者」が存在しました。 彦根藩士・高松藩士の護衛隊は、銃を持っていません。 突然、銃声がすれば護衛は乱れますよね。夜中ですし・・・。 ※実は、各藩士は「それほど剣の腕は良くない」のです。 ※太平の世が続きましたから、右往左往する侍も多かったのですね。実践経験が無い。 ※対してテロ側は、実践経験が豊富で武勇に優れています。 ※政治と違って、数は力になりません。 不幸にも、この銃から発射した弾が「直弼の大腿骨」に被弾しました。 直弼は、駕籠から出る事は当然として「姿勢を変えて、刀を抜く」事も出来なかった様です。 結局、駕籠の中で身動きが出来ないままに殺害されます。

azuki-7
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  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7257)
回答No.5

「吾左衛門坂の仇討」という小説があって、その映画もあります。 多分、史実に基づいて、脚色もあるのでしょう。 雪が降って、雨が降ってで、見苦しい装束になっての「登城」がもともと、 恥とされたそうです。 なので、雨仕様で行列して、更に、刀にも袋をかぶせて、つまりは、抜刀はデキない。 刀そのものが、抜けたら危ないので、もともと鯉口を切るといいますが、セーフティが聞いている、それにさらに袋をかぶせて、雨仕様の装束です。 私も人数からして、そうなのか?とは思いましたが、井伊直弼側もそれなりに対応策は 考えていたようです。 剣の達人を籠の護衛にしたのだから。 襲撃側も天候を待っていたとも思えます。 映画を見ると、わかりやすいですね。 2.26も雪降ってるし、襲撃するには最適なのでは?

azuki-7
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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

上士16名、士卒含め全40名(駕篭かき等は除く)ということですから、上士の内半分は戦闘に適さない直弼の近臣でしょうから実質兵力は25名ほど、しかも雪の日なので刀と鞘には袋をかけていたとのことです。 相手は精鋭ぞろいで拳銃あり、刀をそくざに抜けないこともあり奇襲で最初に数名が戦闘不能、この時点でもう勝負にならないでしょう。まあ逃亡した藩士もいますので井伊側の士気が低すぎた面もあります。

azuki-7
質問者

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回答No.3

 60人ついていたそうです。 襲撃した脱藩水戸藩士+脱藩薩摩藩士は17名だったそうです。  17名はもちろん襲撃の作戦を練りに練っていたのでしょう。 もちろん60名のお付の藩士たちは、すべてお籠のまわりにいるわけではなく、長い行列を作っていたわけです。大名が襲撃されるなど思ってもいなかったということや、雪で視界が悪かったこと、雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので応戦できなかったみたいです。ただ、襲撃開始から井伊直弼が切られるまでに10数分かかっていたらしく、あっさりでもないみたいです。  ウィキペディアに詳しく載っています。ご参照を。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89  

azuki-7
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  • emsuja
  • ベストアンサー率50% (1066/2117)
回答No.2

既に #1 の方も書かれていますがかなりの数の護衛がいた模様ですが天候などもかなり不利な方向になっていたようです https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89

azuki-7
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  • ithi
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回答No.1

azuki-7 さん、こんばんは。 供周りは草履取含め60人ですね。だけど、襲撃犯は18人で完全武装ですから相手になりえなかったでしょう。 井伊直弼 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

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