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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大岡忠光が手本にした御側御用取次に有馬氏倫がいない)

大岡忠光のお手本となった御側御用取次にはなぜ有馬氏倫がいないのか?

このQ&Aのポイント
  • 大岡忠光がお手本にした吉宗お気に入りの家来は加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人だけで、有馬氏倫の名前はなかった。
  • 有馬氏倫という人物は加納久通と良いコンビであったが、なぜお手本にされなかったのか疑問である。
  • 大岡忠光が他人の過失も咎めない寛大な人物であり、吉宗お気に入りの家来をお手本にしていたため、有馬氏倫の名前がなかった理由は不明である。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujic-1990
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回答No.1

 有馬 氏倫は「切れ者」であったようです。「上様、ならぬものはならぬものでござります」的な、直截的な物言いをしてきたのではないでしょうか。  これに対して、加納久通はまったりした性格で、有馬と組になると良き組み合わせ、父母にも似た凸凹コンビになれたのではないかと思います。  有馬的な、厳しい父親的態度は大人物吉宗だったから通ったのであって、家重のようなハンディを負った人にこういう接し方は、癇癪を引き出すだけで逆効果だと考えられます。  まったりと包み込むような、母親的な加納流の対応が望まれます。  それで忠光は、加納流を模範として家重に接したものの、有馬流を反面教師としてマネしないように心がけたので、模範の中から有馬の名が排除されたのではないでしょうか。

noname#242097
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 とても良くわかりました。