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目黒あたりで墨引きが朱引きを越えているのは。
当時、庶民の行楽地としてたいそうなにぎわいを見せた目黒不動があったため、だそうです。 人出が多いと何かと問題も起きやすいから町奉行所の管轄とした、ということらしいです。 これは、町奉行としては、やっかいな仕事を押し付けられたということですか。 それとも、見回りは大変だが、実入りがよいので、町奉行が取り込んだということですか。 つまらぬことに悩んでいますので、誰か教えてください。 よろしくお願いします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 大変良いところに気がつきましたね。 ★江戸時代は、神社、仏閣は、現代で言えばディズニーランドのような、恰好な行楽地でした。 ★広大な庭に、桜、藤、あじさい、菖蒲、菊、紅葉、などが四季折々に咲き乱れ、庶民の憩いの場でした。 ★それに伴って、いわゆる「門前町」ができ、お茶屋、だんご屋、餅屋、煎餅屋、饅頭屋、などが軒を連ねました。 ★当然、多くの庶民が訪れて賑わいをみせました。 ★当時、寺社奉行は、寺社を管轄しており、寺社領内、神官、僧侶、の不都合。例えば、僧侶が女犯を犯した場合などは出役しましたが、さて、門前町での庶民同士の争いは誰が管轄するのか明確にはされてはいませんでした。 ★ですから、例えば、神社などでは、夜な夜な門前町に出没して「春を売るアルバイト」をする巫女などが出現しました。 ★しかし、寺社奉行所は、あくまでも寺社領内、神官、僧侶、だけの管轄と考え、門前町でのそうした行為は野放し状態だったのです。 ★そこで、門前町の風紀の乱れや庶民同士の喧嘩、殺傷事件等をどこが管理すべきかが幕閣内でも話し合われ、 ★寛文2年(1662)、幕府は南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋、そして、西は祐天寺、および、目黒不動尊付近までを「町奉行」の管轄とし、同時に、門前町も町奉行所の管轄とすることと決定しました。 ★ところが、文政元年(1818)8月、目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋の儀」と言うお伺い書が幕府に提出されました。 ★ご存じのように、目付は旗本、御家人を取り締まる役目で、旗本や御家人が府外での外泊では目付に届け出の義務がありましたが、 「では、いったい府内とはどこまでなのか?」 と、言う質問状だったのです。 ★つまり、旗本や御家人は、いつ戦が始まっても良いように、基本的には夜間は自宅待機が必須でした。 ★時代も安定してきて、旗本や御家人なども、ある意味では風紀の乱れも多々見られるようになり、江戸市中だけではなく、遠出をする者も目立ち始めました。 ★ただし、府外に出ても、明け九ツ半(午前1時)までに帰宅していれば、外泊扱いにはなりませんでした。これを怠ると「閉門」や「蟄居」などの罰がありました。 ★さてそこで、目付としては、 御府内とはどこまでを指すのか? 届け出を必要とする「御府外」とは一体どこからなのか? ★この「御府内外境筋の儀」が提出されたことにより、町奉行、勘定奉行、評定所等で話し合いが繰り返され、そのの結果、同年12月、東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流域、までとするとして、老中が初めて絵図面に朱線を引き、 「この朱引図内を御府内とする」 という見解を明確にしました。 ★この時、では西の目黒不動尊辺りが「はみ出したの?」。 ★これには、前述したように目黒不動尊や祐天寺は、庶民の行楽地でしたが、ある意味では、 「武士たる者が、庶民に混じって遊興三昧をすることはもってのほか。従って、目黒不動尊や祐天寺は庶民の集まる場所であり、武士の行くべき処ではない」 と言う意見により、朱引図から除外されたのです。 ★ただし、目黒不動尊や祐天寺の門前のトラブルには町奉行所が必要である。 という考えから朱引図と、町奉行所の管轄範囲との「矛盾」が起きたのです。 ★まあ、長々と書きましたが、要は、 「目黒不動尊、祐天寺(付近)へは武士が遊興で行くべき場所ではない」 「ただし、目黒不動尊や祐天寺門前の庶民のトラブルには町奉行所が出張りなさい」 この2つの理由から「矛盾」が起きたのです。 ★この朱引図が示されたことにより、おおまかな範囲は分かりましたが、ご存じのように、特に、北の方面では、田地、畑地、などと書かれてあり、また、犯罪件数も少なかったのですが、町奉行所としても、 「ここまでが管轄」 「これ以外」 と言う判断は、言ってみればケースバイケースだったのです。
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>これは、町奉行としては、やっかいな仕事を押し付けられたということですか。 >それとも、見回りは大変だが、実入りがよいので、町奉行が取り込んだということですか。 何の関係もありません。 実入りがどうのというのは下衆の勘繰りです。 文政元年(1818年)に朱引き図が作成されたのは、御府内の範囲はどこまでか、ということから生じただけの問題です。 幕命などに江戸四里四方などと漠然と記載されていた範囲を確定しただけです。 墨引きは江戸町奉行の所掌範囲を示したものです。 江戸の街の拡大にともない江戸町奉行の所掌範囲は逐次広がっていました。 寺社奉行の所掌範囲と重なることが多くありました。 延享2年(1745年)に門前町に居住する町人を町奉行支配に変更して」います。 寛延2年(1749年)に更に境内に居住する町人を町奉行支配に変更しています。 延享2年の時点で中目黒村と下目黒村の町屋が町奉行の支配下に編入されました。 年貢は従来通り代官が徴集していましたので両支配の地といわれています。 朱引き図や墨引き図が出された後もこの両支配地は沢山ありました。 江戸周辺の田園地帯に町屋が広がっていきましたので当然のことです。 中目黒村と下目黒村が朱引きの線の外に位置していただけです。 芝から続く白金通りの突当りに通称目黒不動と呼ばれる泰叡山龍泉寺があり、この周辺に町屋が広がっていました。 周辺は江戸よりも古く北条氏の時代からある村落です。 中目黒、下目黒の一帯は農村部が多く代官支配が長く続いていた地帯です。 近くの品川に比較して目黒不動の門前町だけをもって御府内とするには無理があるでしょう。 代官の職責と町奉行の職責の違いや所掌範囲の拡大経緯などについては下記の各サイトをご参照下さい。 代官 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/代官 抜粋 代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。 江戸の代官 - ビバ!江戸 www.viva-edo.com/daikan.html 抜粋 地方(じかた) ・年貢の課税・徴収 ・河川・道路・橋等の普請 ・宗門人別帳の作成 ・新田開発 ・災害時(洪水・地震)及び凶作時の飢饉の対応 公事方(くじかた) ・警察・裁判(治安) 裁量権は小さく、軽犯罪以外は口書(調書)を添えて幕府勘定所の決済を仰いだ 江戸町奉行 www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/edomachibugyou.htm 抜粋 その職責は江戸府内の武家・寺社を除いた市民の行政・司法(警察も含む)の事務を行ったもので、町政一般から庶民の訴訟・犯罪者の裁決をするのが主であった。町政と司法を兼務しており、町奉行は、いわば現在の都知事と裁判官の一人二役だった。 中略 合併された町は元が代官の支配地であったので年貢は代官が取りたてた。しかし町奉行所の支配地であるので、人別や賞罰は町奉行所の手によって行われた。この新合併の町を両支配と呼んでいる。 朱引 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/朱引 全 文 - 学校法人江戸川学園 江戸川大学 www1.edogawa-u.ac.jp/~tokim/edotokyonoshintairon.html 抜粋 これも市街地の拡大と共に周辺の農地が組み入れられていった。当初はほぼ外郭内の古町(こちょう)300町と呼ばれる範囲だったが、1662(寛文2)年に芝、三田、飯倉から下谷、浅草に至る街道筋の代官支配の町300町編入、1713(正徳3)年には、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布辺りの、代官支配で町屋の成立した259町を編入、併せて933町となった。もっとも町並地の年貢の徴収は相変わらず代官が行ったから、二重の支配構造だった。また1719(享保4)年に本所、深川の開発に当たった本所奉行が廃止され、町奉行の支配となった。1745(延享2)年には、寺社門前地440箇所、境内227町が移管された。その結果、町奉行支配範囲は、下高輪、白金台町、目黒、白金、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨、駒込、谷中、坂本、箕輪、橋場、本所、小梅、深川猿江、永代新田、平野新田となっている 蛇足 御高説承りまし、たなどという回答者を愚弄するお礼はご辞退申し上げます。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 >要は、 >「目黒不動尊、祐天寺(付近)へは武士が遊興で行くべき場所ではない」 >「ただし、目黒不動尊や祐天寺門前の庶民のトラブルには町奉行所が出張りなさい」 >この2つの理由から「矛盾」が起きたのです。 なるほど、そういう訳だったのですね。 >寛文2年(1662)、幕府は南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋、そして、西は祐天寺、および、目黒不動尊付近までを「町奉行」の管轄とし、同時に、門前町も町奉行所の管轄とすることと決定しました。 この時点ですでに「西は祐天寺、および、目黒不動尊付近まで」は町奉行の管轄だったのですね。 繁華街の見回りをすれば与力・同心の袖の下に“お礼”が入るので、そんな役得を手放したくないので、目黒付近ではみ出したのだ、と想像していました。 お蔭様で一件落着しました。