良くある、読み間違いが大元です。
その文章が、正始八年(247年)のところに書かれているものなので卑弥呼の死がこの年だと思っている人がほとんどですが、実はそうではありません。卑弥呼の死を魏使(および魏の人々)が知ったのが正始八年というだけです。死因は倭の人たちから詳しくは知らされていなかったのでしょう、なので”以死”と原因をはっきりと書かれていないわけです。
少し遡って、魏志倭人伝の年表にそって話をしましょう。
景初二年(西暦238年)または三年、魏が公孫氏を殺し、彼に倭が貢いでいたものがそのまま魏の貢物になり、これを帝が大いに喜んだために東夷伝つまり魏志倭人伝が書かれたわけです。それはともかく、これが卑弥呼の貢物であり、そのデビューに異論はありません。
正始四年(244年)、倭から2度目の魏への貢物が送られます。このときにすでに卑弥呼は死んでいたと私は考えています。そして、この貢物を送ったのは、次代の男王だと思っています。
それはともかく、倭からの3度目の使者が送られる正始八年(247年)までには、卑弥呼は死んでいます。なぜなら正始八年に倭の使いを送ったのは臺與だからです。
質問にある文章も、この正始八年のところに書かれているものであるのはご存知のことと思います。
今まで多くの人は、この年の倭の使いを卑弥呼が送ったと思っていたので、卑弥呼の死もこの年だと思い込んでいたのです。しかし、この年に倭に来た張政は、他でもない臺與に檄告諭などをしています。これは、紛れも無く張政が倭にきた時には倭の王が臺與であった証拠なのです。なぜならば、張政は倭に来たくて来た人ではなく役人として帝の命令によりしぶしぶ来たのです、一刻も早く魏の領土に帰りたいのです。そんな彼が倭に来たときに、いつ死ぬか分からぬ卑弥呼が死ぬのを悠長に待つでしょうか?いつ政変が起きるか分からぬ男王の失墜を悠長に待ち続けるでしょうか?彼はそのことが予知できる超能力者だったのでしょうか?すべて違います。張政が来たときには、卑弥呼は死んでいて、次代の男王も失墜していて、臺與が倭王だったのです。だからこそ彼は臺與に檄告諭などをして早々に魏の領土に帰っているのです。
なので、正始八年に書かれているのは、臺與が卑弥呼の正当な後継であることの魏の帝への言い訳であり、卑弥呼が居なかったのはこうで、その代わりに臺與にそうしたのはこういう理由なんですっていう、そういう文章なんです。
だから、ぶっちゃけ卑弥呼が死んだ理由なんて、まったく興味ないことなので、書かれていないんです。まぁおそらく倭の人もその理由をちゃんと伝えなかったのだと思います。
年長と言われるだけあって、高齢であったかもしれないので老衰か、まぁ伝染病とかの病で命を落としたのか、そんなところだと思います。繰り返しますが、正始四年(244年)(遅くても正始八年)までに卑弥呼は死んでいたと思われますので、その死因に魏を絡めることは無理だと思います。
魏志倭人伝のことで不明なところがあれば、また質問してください。分かる範囲ですがお答えしようと思います♪
補足
うーん、感心しました。 いいところをついていますね。 ただ、もう少しでした。 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和とありますから 魏に援軍を頼んだところで狗奴国王である卑弥弓呼に殺されたと思います。 日本の国を魏に売り渡そうとしているのです。 だから、張政が来る前に反乱者である卑弥呼は殺されました。 つまり結局は魏は日本の国政に口をはさむことはできませんでした。 日本側から見ると狗奴国王である卑弥弓呼の方が正しいのです。 日本書紀には神功皇后の弟である日子王ではないかと思います。 つまり日本書記は正しかったと思います。 神功皇后は卑弥呼とは違い尊敬されました。 卑弥呼は神功皇后を騙った女官(外国語が堪能な外交を担当した女官)あたりだと思います。 (騙りの女王説は本居宣長も唱えています。) だから地位も高く、狗奴国王である卑弥弓呼と卑弥呼は親族もしくは夫婦だったと思います。 その当時の男性は多くの女性を娶るのでそのうちの一人だったと思います。 (ちなみに神武天皇や神功皇后は分時国家の象徴とみなされたためにGHQによりその存在を無理やり抹殺されました) また別の説で現代の卑弥呼最有力候補の倭迹迹日百襲媛命でも最後の死は売国奴らしく悲惨なものです。 最終的には卑弥呼は日本から見ると売国奴であり、日本側から見ると殺されて当然であり、当然、歴史には名を残す価値もない人物だったのですから。 日本でも卑弥呼はいないとか、ありえないとか、偽称女王だったとかいろいろと言われていました。(本居宣長とかです)。 もう一つの回答とどちらをベストアンサーにするか迷いました。 しかしこの回答が一番私の考えに近かったのでベストアンサーにします。