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昔はどのお城も天守閣はあったのですか?
今、天守閣の無いお城は、壊れたり燃えたりしたから無いのですか?
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>昔はどのお城も天守閣はあったのですか? 全てのお城に天守閣があったわけじゃありません。最初から天守閣の無いお城もありました。それぞれの大名の経済力や、お城を造った場所の立地条件やら、理由はさまざまです。 したがって、 >今、天守閣の無いお城は、壊れたり燃えたりしたから無いのですか? 最初から天守閣が無かった場合と、後から壊れたり燃えたりして無くなった場合と両方があるのです。 例外も有るから厳密とは言えませんが、一つの見分け方としては、お城の中心に天守台といって石垣を組んだ立派な土台があれば、その上に天守閣が建っていたはずで、その場合は壊れたり燃えたりして失われたと判断できます。 天守台が無かったら、最初からそのお城には天守閣は無かったものと判断できます。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、お城の話から始めましょう。 戦国時代の初期には、「平城(ひらじろ)形式」と「山城(やまじろ)形式」に分かれていました。 ★平城・・・平地に堀や土塁を築いて「本丸」「二の丸」「三の丸」「望楼」などを平面的に配置しました。そして、城を囲むようにして重臣たちの屋敷を配置しました。 戦国時代では、甲斐の武田氏の躑躅が埼城、江戸時代初期の川越城などがそれにあたります。 ★山城・・・小高い丘や小山、あるいは、山の中腹を削って坂を登るにつれて、「三の丸」「二の丸」「本丸」と地形を利用して城の形を整えました。そして、大手坂や搦手坂(からめてざか)など坂の要所々々に重臣たちの屋敷を配置しました。 越後の春日山城などが代表的です。 ★戦国時代初期では、天守閣は存在せず、城を取り囲む土塀、あるいは、石垣に沿って「櫓」(やぐら)、または、「物見櫓」(望楼・ぼうろう、とも言った)を城の前面、あるいは、城内の各所に建てて、城下を見渡せるようにし、同時に攻められた時には、敵の動きを見定められるようにしました。高さは、およそ二階建てから三階建て位の高さでした。 ★しかし、この各所に建てられた「櫓」では、城主もいちいち足を運ばなければ見渡すことができず、おそらく、城主もすぐにも見渡せるようにと考えられたのが、主に本丸御殿の上部に櫓を乗せる形式だったのではないかと考えられます。 ★こうして、本丸の上に櫓を乗せる築城方式をとったのは、大和国(現・奈良県)を領国としていた松永秀久(松永弾正)が、永禄3年(1560)に建造した「多聞山城」(たもんやまじょう)が最初ではないかと言われています。ただし、「天守閣」と呼ばれていたかは不明です。 ★その後、多聞山城は幾多の変遷をして天正4年(1576)に織田信長により破却されました。 ★そして、おそらく信長も本丸に櫓を据える構造が理にかなったものと考え、また、城を天下に知らしめるためにも高層建築が「見栄えが良い」と考えて、天正4年に造らせた安土城では、櫓は派手なパーフォーマンスで建てられたと考えられます。 なお、この時、信長は初めて「天主閣」(「守」ではなく「主」)と呼ばせたのが後の「天守閣」の始まりではないかと思われます。 ★信長は、なぜ「天主閣」だったのか? それは、信長は常に天の神よりも自分が一番偉いのだと考え、家臣たちにも「この世の主は我一人なり」と言っていたように、神仏を一切否定していたことからも窺えるかと思います。 ★やがて、信長が討たれ羽柴秀吉(豊臣秀吉)の時代が来ると、大坂城に代表されるように、各地の有力大名たちが「天守閣」を造り始めました。 この頃からは、“天にそびえる守りの櫓”という意味合いから「天主閣」ではなく「天守閣」と書かれ呼ばれるようになりました。 ★この天守閣は、戦での物見櫓の役目をすると同時に、籠城戦においては主要な場所として、物見、兵糧米の備蓄庫、厠(かわや=トイレ)、水の備蓄桝(ます)、台所などを備えるようになりました。 ★しかし、大名だからと言っても全ての領地で全ての城で天守閣を造れたわけではありません。城造りも天守閣造りも大名に経済力があることと、領民にそれ相応の労働力の負担を強いるわけですから、ある意味では、大名も領民の理解を得る必要がありました。 ★その「領民の理解」とは、例えば、戦になったら城も領民も守る、などと言うもので、男は兵として働くが、女、子どもは城内へ導き入れて、主に炊事、洗濯、などをしながら男たちの後方支援をすると同時に、女、子どもの命を守ることでした。 しかし、豊臣秀吉の時代頃から戦が少なくなるにつれて、天守閣は物見櫓としての機能を失い、城の象徴的存在となり、美観を整えるための構造物で、その内部はと言うと「物置」や「倉庫」のようになってしまいました。 ★また、平城形式の城では、いわゆる「天守閣」そのものは造れず、「物見櫓」を造りました。埼玉県の川越城などが代表的でしょう。川越城にも「富士見櫓」というものがありました。ありました。 ★江戸時代に入っても天守閣を持った城は全国におよそ170ありましたが、それらの多くは戦国時代~戦国時代後期に建てられたもので、江戸幕府としては「新たな城造りや天守閣造り」を認めない方針でした。また、城の修繕も幕府への届け出を義務化しました。 ★これは、各地の大名が城を堅固なものとし、天守閣などを据えては、いつ謀反を起こさないとも限らない、と言う懸念からでした。つまり、天守閣は防御も攻撃も兼ね備えた「戦いの象徴」とみなされたからです。 ★そして、千代田城(江戸城)が四層に天守台を乗せた五層建て(五階建て)であったので、他の大名たちも千代田城より高く造ることを控え、謀反の意思がないことを表しました。中には、すでに五層建ての城もありましたが、四階部分の屋根を取り払って、五階建てを四階建てに見せる城もありました。いずれも「謀反の意思がない」ことを表したものです。 なお、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式名称を「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。「江戸城」という呼称が復活したのは明治に入ってからでした。 ★千代田城も完成当時は天守台を据えていましたが、明暦3年(1657)の「明暦の大火」(別名「振袖火事」)で天守閣が焼失してしまいましたが、幕府経済も逼迫していたため、また、物見櫓の必要性も無かったため、再建されることなく明治まで放置されました。 ★明治6年(1873)、明治政府により「廃城令」が出され、多くの城が取り壊されたりしましたが、例えば、姫路城のように、取り壊しそのものに莫大な費用がかかるという理由で取り壊しを免れたもの、また、熊本城のように明治政府軍の鎮台(司令部)が置かれて、謎の火災で天守閣などの一部は焼失しましたが、城の姿を今にとどめるものなどと、現存する天守閣のある城は全国でも12城になってしまいました。 ★また、各地に城が復活したりしていますが、その多くは観光客目当てで、例えば、大坂城や名古屋城などは、外観は城であっても、鉄筋、コンクリート製で内部は「史料展示室」や「土産物販売所」などになっています。
お礼
ありがとうございました。
- ikkyuu58
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城に天守閣が作られたには、安土城が初めてです(松永久秀の大和国多聞山城との説もありますが・・・)。 関ヶ原の戦い後、作られた外様大大名の城には天守閣が存在しない城があります。 (1)前田氏の金沢城(当初はあった??) (2)黒田氏の福岡城 (3)伊達氏の仙台城・・etc 外様大大名とは言えませんが、 (1)南部氏の盛岡城 (2)佐竹氏の久保田(秋田)城・・etc 共に将軍家(徳川宗家)への遠慮からと考えられます。 関東の城で(親藩・譜代大名しかいないはずですが)江戸城を除けば天守閣が存在した城は小田原城だけ(小生の記憶違い??)。 少なくとも川越・前橋・高崎・宇都宮・水戸・土浦城等に天守閣はなかったはずです((1から2万石程度では城でなくほとんどが陣屋)。
- あずき なな(@azuki-7)
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そうでもありません 武田信玄の居城 躑躅ヶ崎館には天守閣はありませんでしたね 現在の皇居(元・江戸城)にもかつては天守閣がありましたが 明暦の大火で消失して以来再建はされませんでした
- oska2
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>今、天守閣の無いお城は、壊れたり燃えたりしたから無いのですか? という質問ですから、江戸時代の城郭という前提です。 関ヶ原の戦いで、徳川家が勝利しましたよね。 結果、多くの武将は「徳川家に従う」事を決めました。 「徳川に逆らう・疑われると、領地を失う」 城郭は、基本的に「戦闘目的の構築物」で「天守は、戦闘の象徴」です。 ですから、「徳川に反意はありません」と主張する為に「天守台を設けても、実際に天守は建てない」藩が多いのです。 特に、外様藩では「藩取り潰し」を恐れて天守閣を建てませんでした。 家光以降になると、平和な世の中ですよね。 天守閣は、無用の長物になります。 維持費ばかりが必要で、実際には利用価値が無いのですね。 どこかの国の、国会議員と同じです。(笑) 江戸城が延焼してから、幕府は天守閣再建を行いませんでしたよね。 江戸城に天守閣が無いのに、新たに天守閣を建てる事は敵対行為と見做されます。 武家諸法度によって、幕府も天守閣の新築は認めませんが・・・。 幕末の城郭写真を見る機会があれば、見て下さい。 全国各地の天守閣は、ボロボロです。 各藩に修築費用が無かったのと、天守閣の存在意義が失われていた証拠です。 解体するにも、費用が必要ですからね。 そうそう、薩摩藩なんかは「参勤交代で、他の藩一行が通行しない」の一般的な城郭の必要がありませんでした。 天守閣が無い、屋敷・政庁タイプです。
- ithi
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AEJJSRDLLV さん、こんばんは。 天守閣を本格的に建築するようになったのは近世になってからです。それまでの天守は武器庫や城主の居間のようなところでしたが、書院造の城郭建築への取り込みにより。城主の居間はそこに移り、ただ高いタワーのような飾りになりました。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
むしろ天守があった城の方が少数派です。そもそも織田信長が安土城を造るまで天守などありませんでした。
- f272
- ベストアンサー率46% (8469/18131)
鹿児島城,人吉城はもともと天主閣はありません。 ほかの城でも天主を造らなかった城はいくつかあります。(米沢城,山形城,水戸城など) また沖縄の城にはまったくそのようなものはない。
お礼
ありがとうございました。