- ベストアンサー
城の構造
中世日本の城のことで質問です。 1・○○丸と○○曲輪の違いとは何でしょうか? 2・大天守閣と小天守閣がある城がありますが、メリットがあるのでしょうか? 3・難攻不落の城と言えば・・・(複数回答でも結構です) 2については大小の天守の間の曲輪(丸?)を敵に支配されると、城中の兵力が分断され、かえって危機にさらされると思うのですがどうでしょうか?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
(1) 曲輪(=郭)とは、城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石の塁、木製の柵(さく)、石垣または濠(ほり)などをめぐらした、中かこいのこと。「~丸」とは郭につけた名前のこと。本丸と本曲輪は同じ意味。 中世の城の場合、縄張りという言葉があるように、区域自体が重要であり、曲輪それをさしているが、近世になり構造物が高楼化したこともあって、丸や櫓といった言い方のほうが使われるようになった。 (2) 天守閣には軍事的意味はありません。 単なる大名の権力と統治のシンボルにすぎず、 戦闘において利用価値はなく、物見櫓としても実用的ではないものがほとんど。 よって大小の天守閣は、城の外観、デザインの問題です。 また天守閣がはじめて作られたのは安土城で、近世になってから。 よって中世の日本の城には天守閣は”ありません”。 (3) 落ちない城はありませんが、城郭の規模からいって、 大坂城と小田原城は、短期間で落とせるような城ではありませんでした。 しかし日本の城郭は(五稜郭を除いて)すべて大砲に対応しておらず、 燃えやすい天守閣をもつ近世以降の城は、戦闘を余り考慮していません。 中世の城においては、楠木正成が篭った千早城、赤坂城などが有名ですが これらは金剛山系の山脈全体を利用した複合防御建築群であり、自然そのものを利用しただけに、まさに難攻不落です。 この形態は、中世にはやったもので、菊池や船上山とうとう、各地にありました。
その他の回答 (5)
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
安土城以降の「近世城郭」で、きちんとした兵力が守備して落城した例は関ヶ原の合戦の前哨戦でいくつか例があります。 大津城:京極高次が6万石相当(約1000名)の兵を率いて篭城。立花宗茂率いる1万5千の西軍に攻囲され、約1週間で落城。 津城(安濃津城):富田信高が1000人~2000人の兵を率いて篭城。毛利秀元率いる3万の西軍に攻囲され、攻撃開始の翌日に開城。 いずれも、大名が居城としていた城ですからそれなりの防御設備を有していた筈です。 伏見城は、大坂城に匹敵する規模の大きな城で、徳川家康家臣の鳥居元忠の率いる2000名弱の兵ではまともに守兵を配備できない状態だったようです。それでも西軍4万の兵が攻囲開始から落城までに2週間を要しています。「西軍にやる気のない部隊が多く、攻撃の足を引っ張った」という話がありますので、本来はもっと早く陥落するはず、と見えたのでしょう。 岐阜城は、織田秀信がいったん野戦に出て敗北し、敗勢が明らかな状態で城に退却して東軍を迎え、落城したものです。逃亡兵が多く、士気も落ちており、まともな防御は出来なかったようで、1日の攻城戦で陥落しています。 本来、織田秀信は20万石弱の知行で5000人以上の動員力を持っていました。最初から秀信が岐阜城への篭城戦略を取り、大垣城にいた西軍部隊の救援を待てば「近世城郭での本格的な篭城戦」の好例になったのではないかと思いますが、歴史にIFはないのでこれ以上は何とも。
お礼
実例を挙げての回答ありがとうございました。関ヶ原直前に確かに近代城郭も攻略されています。これは私の考えでは城自体に欠点があるわけではなく、士気の問題や内応者を恐れての開城に近かったのではないでしょうか?時代の趨勢に逆らうのもどうか、と考える大名の先読み(もとい先見の明)ではないかと・・・ その見方で言うと逆に鳥居元忠は決死で戦にのぞんでいるからこそ、落城が遅れたと思っています。もちろんbuchi-dog様回答の「攻撃側のやる気の無さ」も大きいと思います。やはり籠城は士気ですね。 織田秀信は作戦ミスですね。 ありがとうございました。
- Kon1701
- ベストアンサー率24% (1445/5856)
”中世城郭”ですが、これは戦国時代以前の城を指すことが多いようです。天守閣のある、安土城以降は近世城郭と呼ぶことが多いです。また、五稜郭などは別扱いにすることもありますね。 さて、この分類に従うと、近世城郭で落城したのは大阪城のみ、と言っても良いと思います。これも、堀を埋め立てて城としての守りの機能を奪ってしまった後の落城ですね。 近世城郭を江戸時代までの武器、火縄銃とせいぜい大筒で落とすのは非常に難しいと思います。堀が深くて広く、石垣などもあり、強引に攻め落とそうとしても簡単ではないでしょう。兵の数が多くても攻められる場所が限られますから。 一方、中世城郭は多くが落城していますね。土塁や空堀が中心で規模も比較的小さいので、攻めにくいにしても守りきるのは難しいでしょうね。 難攻不落の中世城郭・・・。 すぐには思いつきませんが、安土城となりの観音寺城、これは相当規模が大きい城ですね。標高432mの山全体が城塞化されています。中世城郭ですが石垣を多用しています。不落ではないようですが、攻め落とすのは大変だと思います。
お礼
中世城郭と近世城郭の解説良く分かりました。 振り返って、難攻不落の条件としては、縄張りの大きさ、とりわけ堀が広く石垣も高いことでしょうね。 観音寺城をNO1様の回答URLにて調べてみました。おっしゃるように全山要塞化しており、100余りの郭があり堅固なつくりであるようです。 確かに中世城郭は籠城し結果落城していますね。山城はどれも小規模であり兵糧攻めにも弱いでしょう。 回答ありがとうございました。
- Yelm
- ベストアンサー率19% (63/324)
>2については大小の天守の間の曲輪(丸?)を敵に支配されると、 >城中の兵力が分断され、かえって危機にさらされると思うのですが >どうでしょうか? 大小問わず天守が存在するのは本丸です。 つまり「大小の天守の間の丸を敵に支配される」状況とは既に落城していると言えます。
お礼
大坂城は西の丸に小天守があったのでは。しかし本丸扱いと考えると落城と言っていいですね。城内に敵が侵入したと言う点ではNo3様回答と同様ですね。納得です。 回答ありがとうございました。
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
天守閣ですが・・・。 安土城以前にも、天守閣に準じる建物が存在します。 質問者様が述べている「信貴山城」も代表的な建造物ですね。 では、何故「安土城の天守閣が最初か?」という事ですが・・・。 ただ、文書上に最初に「天主(天守)」という言葉が現れたからです。 >大天守閣と小天守閣がある城がありますが、メリットがあるのでしょうか? 天守閣群は、藩主の威信(富と権力)を誇示するものです。 ですから、(一般的に)天守が存在する本丸に敵が到達した時点で敗北を意味していました。 信長・秀吉時代でも、意外と天守閣で自害した武将は少ないですよ。 余談ですが、岡山県の高梁城天守閣(現存)天守閣には、篭城に備えた囲炉裏・藩主自害の間が残っています。 日本最高峰にある現存天守閣ですが、駐車場から徒歩で(天守閣まで)35分程山歩きが楽しめますよ。 江戸時代、藩主・要人は麓(山ろく)の屋敷で生活し政務を取っていましたが、警備の武士は「毎日山を上り、日が暮れる前に下山」していたようです。 この例からも、既に天守閣の存在価値は小さかったのでしようね。 また、江戸城の天守閣も(財政難で)再建しなかったので・・・。
お礼
古文書中の一文に天守とあったのですか。分かりました。でも信貴山城はかわいそうです。 2・についてはおっしゃるように確かに、城内に乱入を許した時点でアウトですね。やはりデザイン的要素と威厳の為と考えます。 高梁城の自害の間の話、凄いですね。そこまで覚悟していたのなら逆に勇猛に戦えたのかもしれません(真田六文銭に通ずる意気がありますね)。 江戸時代は平城の時代ですね。戦闘目的より政務を執る場所として。 江戸城天守が存在しないのは財政難・・・てっきり焼失かと思っていました。 回答ありがとうございました。
こんばんわ。お城に詳しいわけではないので、紹介にとどめます。 http://www.asahi-net.or.jp/%7Eqb2t-nkns/index.htm ちなみに3.難攻不落の城といえば、 1.大阪城 2.小田原城 3.岐阜城 でしょうか。どれも一回は落ちていますが。 個人的には、竹田城、千早赤阪城、高取城などの山城が好きですね。 なんか、難攻不落って感じがして。
お礼
回答ありがとうございます。 規模のでかい城は攻めるほうも時間と犠牲が大きいのはよく分かります。 岐阜城は行ってみたい城です。 竹田城、千早城(上、下があるのを初めて知りました)は行った事がありますが、どちらも高所のためにしんどかったのと、絶景であったのを覚えています。攻めにくく、威容を誇る城でもありますね。 URLもありがとうございました。
お礼
caesar-x2様には度々お世話になります。 1・本丸と本曲輪は同じ意味 今は~丸が使われていますね。真田丸など。形態は一緒ということですね。 2・大小の天守閣はデザインですか。戦闘ではかえって不利を招いた例があったので、外観以外あまり良い城とは言いがたいですね。 重ね質問はいけないのでしょうが、信貴山城は天守閣の原型があったとの説はどう思いますか? 3・大坂城と小田原城はやはり時間がかかるという意味で難攻不落といえたのでしょう。 No1様の回答でもあった千早城祉はさすが楠木正成の城と関心して見学しました。 詳しく的確な回答ありがとうございました。