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幕末明治の侠客、新門辰五郎。
幕末明治の侠客、新門辰五郎。 浅草寺の警備などを担当したり、江戸火消の頭であった。 下谷の生まれ。 墓所は豊島区や荒川区であるが、今も浅草寺に何かゆかりの施設や建物はありませんでしょうか?
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千住の圓通寺以外でしかも浅草でお探しということであれば 台東区浅草2-3-1にある浅草神社の裏手の道路を挟んで被官稲荷神社というのがあります。 辰五郎が勧請し、創建したとされています。 辰五郎の町火消の伝統を受け継ぐ江戸消防記念会 というのがあります。この会の肝煎りで浅草寺に消防殉職者表彰碑というのがあります。 所縁と言えば所縁でしょう。 実は東京には幕末の旧幕府方の遺跡というものが残されていません。 靖国神社にも彰義隊は祀られていません。 上野公園の彰義隊の墓所にも戦死之墓とだけ彫られ彰義隊の名はありません。 それどころか、ご丁寧にこの墓所に尻を向けて西郷像を建てました。 当節の東京っ子はいざ知らず、江戸っ子の末裔には上野の西郷像は不評です。 ありがたがるのは田舎者です。 辰五郎が勝海舟と接点を持ったのは、辰五郎の娘が慶喜の愛妾であったことと、鳥羽伏見の戦いで大阪から幕府軍が敗走するさいに慶喜を警護していた辰五郎が馬印を持ち帰ったことに目を付け、江戸開城の折に万が一のときの慶喜の警護を依頼したのが発端です。 上野戦争の際にも寛永寺に詰めて鎮火に走り回っていました。 後に慶喜が駿府に移されたおりにも同行して土地の侠客清水次郎長に警護を依頼しています。 このような業績を持つ人間の所縁のものを時の明治政府は残させませんでした。 辰五郎もオレの役目は終わったとして未練がましく跡を残すなどということは考えなかったでしょう。 テメエの手柄を目的とするようでは江戸の侠客は束ねられません。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 お久し振りです。 新門辰五郎 ★江戸時代最後の剣客とも言われていますね。 >>今も浅草寺に何かゆかりの施設や建物はありませんでしょうか? 浅草寺本坊の伝法院の門がゆかりの地です。 そもそも、「新門」を名乗ったのは、伝法院の新築された門(新門)の通用門の番人を任されたことから「新門」を名乗るようになったと言うのが定説のようですね、 https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%9D%E6%B3%95%E9%99%A2%E3%81%AE%E9%96%80&hl=ja&rlz=1T4SNJB_jaJP686JP686&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjTrf_NrezLAhXhFaYKHTSEBRgQsAQIGw&biw=1920&bih=876
お礼
お久しぶりですね。 早速にご解答ありがとうございました。
お礼
素晴らしいご解答を早速、ありがとうございました。 浅草神社までは確か、行ったことがあるのですがその裏手の道路を挟んで被官稲荷神社までは存じませんでした。 ありがとうございました。
補足
勝海舟も素晴らしいですね。 私は、勝の親書を懐に。 早朝単騎で大参謀せごどんの本陣に官軍の詰める東海道を駆け抜け。 幕臣・山岡鉄太郎である。大参謀西郷隆盛殿にまかり通ると大音声。 草履を脱ぎ、そろえ、腰のものを右手に持ち替え、式台の後ろに回りにかいへずかずか上がる鉄舟。 かれがいい。 階段まで送ったセゴドン。”金も命も、名誉も地位もいらぬという奴はしまつに負えない”と嬉しそうに述懐。 彼は有栖川熾仁親王総裁に何のことばもなく、”わかりもした。そのようにします。お江戸を火の海にはしません。人ひとり殺しません”と答えていた。まぁ明治もいいですね。