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無知の知とは、こういうことでしょうか?

例えば、ある専門分野の単語が100単語あるとして 今60単語覚えたけど、 あと40単語覚えてないことを自覚することが無知の知ですか? それともそもそも100単語あることすら知らなくて 60単語覚えた状態で、まだ全部は覚えてないだろうと何となく自覚することが無知の知ですか?

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noname#224207
noname#224207
回答No.6

ソクラテスが残したとされる言葉ですかね 知らないということを知っているという「知」ということです。 >あと40単語覚えてないことを自覚することが無知の知ですか? >まだ全部は覚えてないだろうと何となく自覚することが無知の知ですか? 自覚することが無知の知である、とご理解される点ではよろしいかと思います。 但し、上記の例えですと、知識が不足しているだけで、それを補えばよいのだ、と考えられておられるのではないのかと誤解されます。 この言葉をソクラテスが言ったとされる古代ギリシャでは、賢哲は全てのことを知っていると考えられていて、いかに知識が豊富な博識、博学であるかということを誇っていた時代でした。 これを戒めるための言葉だったと解釈されています。 この解釈に従いますと、ご質問の例えよりも広い考え方となります。 ノーベル賞学者さんが異口同音に「調べれば調べるほど解らなくなってくる」と言っているのが「無知の知」です。 ユークリッド幾何学では平面上のことは説明できても立体上となると説明できない、ということが起きます。 例えば、地球上の緯度と経度の関係を見ていただきますと、北極点で四等分しますと経度は何れも90度で交わっています。 この経度も赤道では赤道(緯度)と直角に交わっています。 この緯度と経度に囲まれた三角形の内角の和は270度となってユークリッド幾何学の三角形の内角の和は180度である、というのが適合しません。 つまりユークリッド幾何学だけの知識ではダメダということです。 ユークリッド幾何学の知識を全部覚えても通用しない世界があるということです。 同じことがニュートン力学でも起きています。 ニュートン力学で説明できなかったことがアイシュタインの相対性理論で説明されるとされていましたが、現在はそれでも説明できない現象があるとされて確率論などが持ち出されてきています。 このように知識というのは、増えれば増えるほど解らないことが増えてくるという性質を持っています。 つまり、知れば知るほど解らなくなるということです。 ソクラテスはこのことを理解しろ、と言ったのだとされています。 蛇足 科学的な考えでなければ信用できない、科学的な考え方が万能だと主張される方が数多くおられますが、第一線の科学者ほど、科学的な考え方だけでは解決ができない問題が沢山あるとします。 科学が万能だと信じるのは科学教の教徒だ、と揶揄されます。

eqippzxgtl
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回答No.7

知っている数の話ではなく、今自分の知っている知識が、 ほぼ全てのように思い込む、あるいはもう充分であると 考える怠惰さを戒める言葉です。 宇宙のビット数は、全宇宙の質量をエネルギーの最小単位 であるプランク定数で割ったものだが、知識のビット数は、 量子どころかバカでかい脳細胞の樹状突起の先端にある シナプス結合の分しかなく、どうやっても「全部を知る」 事はないのだ。

eqippzxgtl
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  • koosaka
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回答No.5

ぜんぜん違いますね。 ソクラテスの「無知の知」は、知識の量ではなく、もし知識の量だったら、年を取る毎に知識は増大しますから、「無知の知」は解消されてゆくはずです。 今は60単語しか覚えてはいなくても、いずれは100単語覚えらるようになる、それは時間の問題です。 だけど、ソクラテスの「無知の知」は知識の量ではなく、知識というものの原理的な問題です。 ソクラテスはアテネの街頭で、往来する人を捕まえては「善とは何か?」「徳とは何か?」と質問し、それに答えられないと、「なーんだ、みんな知っているようで知らないんじゃないか!」と笑って、「無知の知」と言ったとされます。 でも、それは無理難題です。 「善とは何か?」とか「徳とは何か?」と聞かれて、直ちに答えられる人なんていません。 プラトンは若いときはソフィストと言われる、その一員で、人が答えられないと、それでお金をとって暮らしていました。 アテネは「民会」という議場でみんなが討論をして、物事を決めるという民主制だったので、対話術・議論法・弁論術・弁証法・修辞法などが人を説得するときの必須の技術でした。 それを教える職業集団を「ソフィスト」と言い、ソクラテスもその一員だったわけです。 弁証法というのは、一人と一人の意見が対立したら、その上に登って調停すること、総合することで意見の対立を克服・止揚することですが、ソクラテスはそうやって「善とは何か?」と質問することで、最終的に「善のイデア」を導き出しました。 結局、「無知の知」を足がかりに、最終的に「イデア」に導いたわけです。 そしてプラトンは「イデア」こそが真の実在であり、個々のもの・個物・実存は真の実在ではなく、仮象であると言って、本質と実存の関係をひっくり返したわけです。 でも、それは間違いでした。

eqippzxgtl
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  • seble
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回答No.4

たとえかたとしてはちょっと違和感を感じますが、意味としては後段が近いと思います。 あと40である、という事は、それ以上の知は存在しないと断定してしまっています。 それは分からない事があると自覚しているのではなく、100しかないと思のい込みであって、それが真実であるかどうかの疑問を持っていない点で無知であると思います。 ただ、後段の方も、全部は覚えていないであろう、というように上限がある事を匂わせているので、そこで断定的な自己判断をしてしまっているように思えます。 知は無限であり、前提である単語が100ある、という部分から、ソクラテスの言う本来の意図から少し違ってきてしまっているように思います。

eqippzxgtl
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  • jing0708
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回答No.3

ちょっと違います。 無知の知というのは、古代の哲学者の言葉です。多くの学者が様々な知識を持っているが 『自分は、自分が知らないことがあることを知っている』という意味で言った言葉です。従って100単語あることは自覚していませんが、知らない単語があるという事実は知っているのです。これは何となくではなく、完璧に知悉しているのです。 『わからないことがあることを知っている』これが肝要です そして、知らないことを知っているからこそ傲慢にならずにいられるという考え方です。日本では似たような結末として『実るほど頭の垂れる稲穂かな』という言葉が本来は近いでしょう。

eqippzxgtl
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noname#215173
noname#215173
回答No.2

辻褄としては合ってる・・・ けれど ソクラテスの言いたかった事では無い・・と思う・・ http://makotti.blog.so-net.ne.jp/2014-02-19

eqippzxgtl
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  • qazaq
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回答No.1

 どなたの造語なのか知りません。仏道の師との問答で「〇〇〇とは何ぞや !? 」と聞かれ、弟子が「〇〇なり ! 」とかいう修行での掛け合い言葉でしょうか。 参考になるか判りませんが、中学校の時に恩師に「知らざるは罪なり」「足らざるを憂えず、等しからずを憂えよ」とか言われて育ちました。  いまだに考えています。あまりのめり込んで言葉遊びは過ぎないようにしましょう。「われ思う、ゆえにわれあり」だけで十分ではないですか‥‥。

eqippzxgtl
質問者

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