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ポルトガル人が出島に移された理由

1635年に家光は日本にいたポルトガル人を出島に移したとのことですが、何故ポルトガル人だけなのですか? オランダ人はその頃どうしていたんですか?

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  • ootemon
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回答No.1

1637年の島原の乱は、島原と天草のキリシタンを中心とした農民たち約3万人ががひきおこしたもので、 これに幕府は約4倍の軍勢を動員して制圧を余儀なくされたんですが、 このときにオランダはキリシタンと農民がたてこもってた原城に砲撃をぶちこんで、 徳川幕府の見方ですよー、とアピールしました。 このキリシタンパワーに恐れをなした幕府は、 キリシタン禁制と、キリスト教をもたらた諸悪の根源ポルトガル人は日本に来るな、 と、ポルトガル船の日本渡航禁止にしました。 しかし、ポルトガルとの貿易は日本にとってはとても重要度は高く、完全鎖国できなかったようです。 と、ここまではポルトガル人も出島にいたんですが、島原の乱後、キリシタン禁制とポルトガル人の渡航を禁止したんですが、 ポルトガルとの貿易がなくなったことで、長崎の経済状況は深刻なものとなり、 長崎救援のためにもオランダとの貿易は続けるということで、 それまで平戸にあったオランダ商館を閉めてオランダ人たちを出島にうつしました。 ということは、出島にオランダ人たちが移るまでは、オランダ人は平戸の商館にいたということです。

noname#225931
質問者

お礼

自分にとって一番わかりやすかったのでベストアンサーにさせていただきました。 有難うございました

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

ポルトガルの取り扱いにつきまして情報が錯綜されておられるのではないかと思います。 1635年の外国船の入港地を平戸としたのはポルトガルだけではありませんでした。 (長崎出島ではありませんので御注意下さい) 1639年にポルトガル船の来航そのものを禁じています。 同時に停泊中のポルトガル船に対しても即刻退去するように命じています。 これを持っていわゆる鎖国完了とされています。 平戸から長崎の出島へオランダ商館を移させたのは1641年です。 江戸幕府が開設された1603年から1641年までの間は外国との間でいろいろゴタゴタしていましたので情報が錯綜されるのも止むを得ないかと思います。 この間にはザット下記のよう出来事がありました。 1604年 糸割符法を定め、京都、境、長崎の商人にポルトガル船が搭載する生糸の一括購入権を与えた 1605年 スペイン人に年4槽の通商を許した。 1607年 マニラ在住の日本人がスペイン人との喧嘩を発端として騒乱を起こした。 1608年 スペインの植民地フィリピンの長官デ・ビベロがイスパニア人の保護・布教を求めた。       マカオで日本船の船員がポルトガル人と衝突して殺害された。 1609年 オランダが初めて平戸に商館を建てた。       マカオで日本人が48名殺害され、その対抗処置としてポルトガルと断交した。       イスパニアに貿易の保護を約束した 1611年 ポルトガルに長崎での交易を認めた。       オランダ人に朱印状を与えた。 1612年 キリシタン禁教令を発布した。       キリシタン大名有馬晴信が切腹させられた       オランダが国王の親書を提出した。 1613年 イギリスに交易を許した。 1614年 キリシタン大名高山右近等をマニラへ追放した。       大阪冬の陣 1615年 大阪夏の陣 1619年 京都四条河原でキリシタンを処刑した 1621年 外国人による日本人の売買、武器輸出、海賊行為を禁止する。 1622年 長崎でキリシタン55名を処刑する。 1623年 江戸でキリシタン50名を処刑する。       イギリスが平戸の商館を閉鎖して日本から撤退した 1624年 スペインと断交 1627年 島原でキリシタン340名を処刑する 1628年 スペイン艦隊が朱印船を襲撃した 1630年 フィリピンへ軍船を派遣した       キリシタン数十名をフィリピンへ追放した       キリシタン関連の書籍の輸入を禁止した 1635年 外国船の入港を幕府直轄の平戸に限定した。       (大名が外国と交易して財力を蓄えることを防止する目的です) 1636年 ポルトガル人278名をマカオへ追放した 1637年 島原の乱 1638年 島原の乱終結 1639年 ポルトガル船の来航を禁止する       松前でキリシタン106名を処刑した       オランダ人の妻子を追放した 1640年 来航禁止を無視して来航したポルトガル船を焼き払い乗組員61名を処刑した 1641年 オランダの商館を平戸から長崎出島へ移す        オランダに糸割符を与えた。(中国産生糸の交易権) 以降もポルトガル船はしつこく何度も来航しました。 スペインやポルトガル船は交易だけではなく常に宣教師による布教活動がともなっていました。 幕府が警戒したのは、キリスト教の教義ではなく、信徒が一向宗のように宗教を中核とした政治集団化することを警戒していました。 島原の乱も元々は単なる農民一揆でしたが、キリシタンが中核になっていたこともあり、いよいよキリシタンの政治集団化への警戒感を強めました。 ポルトガルやスペインはイエズス会を中核とするカトリック国家でした。 宣教師の身の安全と布教活動の自由を保証する治外法権地を求めました。 事実、長崎は一時イエズス会の領地となり秀吉を激怒させました。 ポルトガル船がしつこいのは、交易だけではなくカトリックの布教を目指していたためです。 オランダは宗教改革でプロテスタントを支援する商人集団が建国した国でした。 このために布教などには全く興味を示しませんでした。 もっぱら交易だけが目的ですので、幕府も容認していて、むしろオランダとの交易を独占して利益を享受していました。 この状態が幕末まで続いていました。 >オランダ人はその頃どうしていたんですか? セッセと交易に励んでいました。 平戸や出島にあったのも大使館ではなくオランダ東インド会社の日本駐在所でした。 現在の総合商社の駐在所ですから、布教だの政治だのには関心がありません。 幕府にすれば利益をもたらすだけの存在ですから各段事件になるようなことは起きませんでした。 更にオランダは船が着く度に最新のヨーロッパ情勢のレポートを提出していました。 オランダ風説書として幕末まで続きました。 江戸幕府というのは当時としてはほぼ正確にヨーロッパ情勢を把握していました。 ナポレオン戦争も知っていました。 幕末のアヘン戦争の顛末も知っていました。 ペリーの来航も事前に知っていました。 この情報を独占隠匿していただけです。 日本は鎖国などしてはいなかったという説の論拠はここにあります。 オランダの動向にはオランダの歴史が深く関与しています。 日本史だけでは分かりにくいかと思います。

noname#225931
質問者

お礼

詳しく書かれていたので深く理解ができました。 ありがとうございます

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

1。1635年に家光は日本にいたポルトガル人を出島に移したとのことですが、何故ポルトガル人だけなのですか?  職業を見れば分かります。ポルトガル人(南蛮人)は宣教師が主で、カトリックに改宗させ幕府よりもローマ法王への忠誠を優先せる原因となったためです。   2。オランダ人はその頃どうしていたんですか?  オランダ人(紅毛人)は商取引が主で、宗教も新教でカトリックのように宣教に専心していませんでした。出島の歴史は下記などをご覧下さい   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%B3%B6

noname#225931
質問者

お礼

簡潔にまとめられていてわかりやすかったです。 有難うございます

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