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幸せな死に方とは?幸せ、死とは?

幸せな死に方とは? 何の悔いなく死ねる時? 思い秘めた感情言葉を吐露する時? 念願の思いが成就した時? 尊敬、慕っている人間から 評価された時? 自分を慕う人間に看取られた時?幸せな死に方とは? 死とは? 幸せとは? 葬式、哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております!

質問者が選んだベストアンサー

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noname#260418
noname#260418
回答No.4

>幸せな死に方とは? 死んでから知っても遅くないと思います。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 頂いたのでベストアンサーを差し上げます!

その他の回答 (5)

回答No.6

正に わたしのための質問だな! わたしは どう死ぬのが望ましいか? その死に方のために 生きてきたのだ! そして これからもそのために時間を使う! ひとつ できる限り自分を理解すること そのために 自然と社会を哲学すること その上で どう死ぬのが理想か? その理想の死を実現するために 出来るだけ 人生の早い時期から その到達点に向けて 努力する事! その努力の過程に幸せがある!

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

hayyuji9401010様、こんばんは。 尊重されるとき。 「他者のモノサシによる評価」では、ありません。 (この「モノサシ」で測ってね)は、アリか (無論、「信教の自由」の逸脱は、、、認められず。再教育ですね、、、)

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

死とは? 幸せとは? と言いますが、私はまだ自分が死んだのを一度も見たことがありません。 他人や肉親が死んだのなら、何度か見たことがあります。 他人や肉親が死ぬんだから、自分も同じように死ぬんだろうと思って、他人の死と自分の死を同じものだと考えているのかもしれませんが、他人の死は生物として死、少なくとも私から見た死です。 ところが自分の死は自分で見ることができないのですから、私から見た死というのは私に関しては例外です。 とすると残るは生物としての死ですが、私の死もある意味では生物としての死であるとともに、何と言っても意識としての死です。 その意識が消滅することを私は死と考えています。 そして意識というのは基本的に私にしかありません。 他人にも意識があるのかもしれませんが、私に見えるのは他人の肉体とその振る舞いでしかありません。 私たちは他人も自分と同じ意識を持っていると考えていますが、それは自分の持っている意識を他人の身体の向こうに「投げ入れたもの」「投影」したもので、私の意識にほかなりません。 だとしたら、意識というのは、私にしかない、私一人のものだと言っても、そんなに間違いだとは言えないと思います。 そして意識というのは終わりがありません、終わりがないというより、終わりを意識できません。 たとえば、私が生きている限りはどこまでも意識があり、私が死んだら、死後、それを振り返って、ああ、あそこで自分は死んだのか、あそこで意識が無くなったのか、と確かめられるかもしれませんが、死とともに同時に意識が消滅しますので、死の瞬間というのを意識できません。 たとえば、あなたは自分が生まれたのを自分で見たことがありますか? また、自分が誕生したのを意識していますか? たぶん、小学校高学年になんとなく、自分が存在している、生きていることを意識しだしたのではありませんか? でも、その意識がいつ生じたのか、何年何月何日の何時に意識が始まったのか、分かりませんよね? それと同じで、私たちも自分が何時何分に死んだかなんて知ることはできないのです、もし、知ることができるとしたら、それはあなたの肉親であり、子供たちです。 あなたは、いつの間にか死んでいた、という形で死ぬのです。 気が付かないうちに。 私は自分以外の人間はたいてい死ぬけれども、もしかしたら自分だけは例外で、死なないのではないかと思っています。 私は親戚の人の死にざまを見て、「まだまだオレの番ではない」、と思いました。 人間は他人の死を見て、誰もが私と同じように「まだ、オレの番ではない」と思うものなんではないでしょうか? つまり、自分だけは例外だと、たいてい思っているのです。 つぎに、幸せというのは主観的なもので、何が幸せかは人それぞれです。 汚いボロ屋に住んでいたって、住めば天国というように、幸せです。 お金がいくらでもあっても、けちん坊の周りには誰も近寄らず、不幸せだということもあります。 子供がたくさんいて、喧嘩が絶えず、こんなはずではなかったと不幸を感じる人もいれば、子供がたくさんいて、にぎやかで、おじいちゃん、おばあちゃんと孫に囲まれて幸福を感じる人だっています。 歩いていて、1000円を拾って、今日一日、幸せを感じる人もいれば、高価なブランド品を買いそびれて不幸を感じる人もいます。 幸・不幸はその人が何に価値を置くかによっていろいろ変わってきます。 お金に価値を置く人はお金がないと不幸を感じ、人と人とのきずなに価値を置く人はお金がなくても、人のきずなさえあれば幸福だと感じる人もいます。 幸福は人それぞれ。 私は一人でコーヒーを飲みながら本を読んでいる時が一番、幸福を感じます。 でも、人によってはそれを幸福と思わない人もいるでしょう。 スポーツをやったり、恋人と散歩したり、友人と談笑したり、そういう方が幸福と思う人もいるでしょう。 だから、人の数だけ、幸福もあります。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

回答No.2

遺伝子には、ある回数細胞分裂すると分裂しなくなり、 新陳代謝が衰えて老化して死ぬようになっている。 それにより、世代交代して、遺伝子交配による進化や 環境変化への適応を可能にしているのだ。 つまり、生と死は対立するものではなく、より良い生 とは、より良く(自己の可能性を最大限使い果たして) 死ぬ事でもあるのだ。 自己存在の本質に根差した生とは、生きる事自体による 喜び(お金や虚栄心といった二次的な社会的価値ではなく) であり、自己の真の生の実体としての社会(助け合い) への貢献によって最大充足が可能になるものだ。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.1

美女の膝枕で、眠るがごとく死ぬ、てのが 幸せです。 大切な人の腕に抱かれながら、てのも イイですね。 開高健は、酒を飲みながら読書していて 眠るがごとくに死にたい、と言っていました。 最近、長寿老人の研究が進みまして、 百歳過ぎて死ぬと、感謝の心に溢れて死ぬる ことが判ってきました。 「こんなに長生きさせてもらって、ありがたい」 大切な人、モノの為に死ぬ、てのが一番格好良いかも しれません。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。