こんにちは
『徳川実紀』に次のようにあります。
正徳元(1771)年十二月廿三日
今より三山御鏡受たまふ日。ならびに勅使進見御返答の日。諸大夫のともがら狩衣着用あるべし。御参廟のときは。正月予参ならびに事奉はるともがらは狩衣。供奉は侍従直垂。四品狩衣。諸大夫大紋。太刀を帯くばし。十七日。廿四日これに同じ。四月十七日予参ならびにあづかる事ある輩は衣冠すべし。下襲。帯剣におよばず。供奉のともがらは正月十日。十七日。廿四日におなじかるべし。同月廿日。五月八日。九月十四日も正月に同じかるべし。すべて御詣のとき供奉は韈(*たび)をゆるさず。予参の輩は。その時によりゆるさるべしとなり。
正徳二年正月元日
けふより諸大夫のともがら狩衣を着し。奴袴着するものみな韈をもちゆ。
正徳二年正月廿四日
三縁山(*増上寺) 諸廟に御詣あり。例は直垂をめさるれど。このたびより小直衣をもちいたまふ。
正徳二年四月十一日の記述。
(*近衛)基熈公今朝発駕あり(*帰京)。
正徳二年四月十五日の記述。
けふ仰出さるるは。四月十七日紅葉山(*江戸城中東照宮)予参の輩。下襲なしの衣冠に太刀を帯すべし。奉る事ある輩は。太刀を帯すべからずとなり。
文昭院殿(*家宣)御実紀附録巻上
この御代何事もうるはしくととのひし事掟させ給ひしかば。服飾をも古今を斟酌し。時の宜を議して。新に仰せ定られし事ども。むかしにもこえてめでたかりし中にも。両山の御詣。先々は御直垂をめさるる事なりしを。正徳元年正月(*ママ)縁山の御詣より小直衣を用ひ給ひ。また朝鮮聘使の謁見にも。むかしは御直垂なりしが。これも御直衣に檜扇を用ひ給ひ。又指貫の差別を定られ。三家は禁色。侍従以上は薄紫。四品以上は濃紫。諸大夫は浅黄とし。旧例に。正会のとき叙爵せしもの大紋着せしを。正徳二年元日より狩衣を着せしめらる。狩衣幷布衣着するもの。みな足袋用ゆる事をゆるさる。
以上の記述から分かる通り、従来将軍も直垂で、色は特別に葡萄色であっても、四品以上の大名と同じであったものを、将軍一人直衣ということで、一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度ということになります。
なお、この制度の制定については、家宣の正室(御台所)の近衛熈子(後の天英院)の実父である近衛基熈の助言により、新井白石が立案したとされます。閑院宮家創設については、近衛基熈からの要請があったとされ、その外朝鮮通信使の待遇などの施策についても、近衛基熈の助言があったとされます。そのためもあり、基熈は宝永7(1710)年以来江戸に滞在し続けることになります。ただし、京都の朝廷内においての基熈の立場は大変微妙で、一緒の亡命であったとも言えます。
さて、別件ですが、正徳3年に、本所・深川(中町奉行が存在し、町奉行支配に)・浅草・小石川・牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂・麻布などの代官支配地の中で、町場となっている259町が、代官支配地から町奉行所支配地に編入されています。
幕府崩壊後に、『旧高旧領取調帳』が編集されます。その中には、村名・領主名・村高が記載されています。幕末の支配関係が分かる基本史料です。この中には明治初年の東京府の管轄地は記載されていませんが、本所などは、東京府の管轄には含まれませんので、史料が残っています。幕末には朱引地であった本所などは代官支配地として記載されます。
例えば、武蔵国葛飾郡については、
南本所町 佐々井半十郎支配地 271,8180石
北本所町 佐々井半十郎支配地 232,2410石
というような記述があります。その他、豊島郡の麻布町、荏原郡の上高輪町など、朱引地内で、なおかつ墨引地として町奉行支配地の中にも、多くの代官支配地が存在した(二重支配)ことが分かります。なお、下記のURLは、『旧高旧領取調帳』のデータベースです。利用価値が高いと思います。
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param
以上、簡単ではありますが、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >従来将軍も直垂で、色は特別に葡萄色であっても、四品以上の大名と同じであったものを、 将軍一人直衣ということで、一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度ということになります。 これは意外でした。 私は、屋内のことばかり考えていました。 屋内では、将軍は諸侯とすれ違うようなことはなく、また、謁見するときは一段高い座に居ますから 特別な色の衣服で将軍であることを十分意識させることができますから。 ところが屋外では、供奉する者が近くにおり、状況が異なるということですね。 「両山の御詣。先々は御直垂をめさるる事なりしを。正徳元年正月(*ママ)縁山の御詣より小直衣 を用ひ給ひ。また朝鮮聘使の謁見にも。むかしは御直垂なりしが。これも御直衣に檜扇を用ひ給ひ。」 「御参廟のときは。正月予参ならびに事奉はるともがらは狩衣。供奉は侍従直垂。四品狩衣。諸大夫 大紋。太刀を帯くばし。」 なるほど!! よく分かりました。 「又指貫の差別を定られ。三家は禁色。侍従以上は薄紫。四品以上は濃紫。諸大夫は浅黄とし。」 「指貫(さしぬき)」についても今回勉強できました。 こと細かく定められたのですね。 毎回、懇切丁寧に教えて下さって真にありがとうございました。 別件ですが、 宝永八年卯(1711)三月廿一日「御触」で「御代官所弐百挺」と決められていますから、 とにかく江戸市中には、代官用の辻駕籠を弐百までと指図するほどの多くの“代官”が住んでいたということですね。 江戸近郊の幕府領・旗本領を実質支配していた武士が「代官」であって、その多くが江戸在住だった、と理解すればよいのですね。 それはそれでよいのですが、 吉川弘文館 大石学編『江戸幕府大事典』で調べてみますと、 「全国の郡代・代官の人数は、江戸時代初期には80名ほどもいたが、中・後期には40-50名になった」そうです。 郡役所を除いて代官所は、生野、大森、高山、笠松、桑折、真岡、奈良、堺、甲府、駿府他江戸以外の地に15箇所あります。 すると、江戸に住まいする代官の数はそんなに多くはないはずで、駕籠弐百挺とはどうも理屈が合わないのでは、という疑問でした。 代官という役職にもいろいろあって、「駕籠弐百挺の代官」と「江戸幕府大事典の代官」とは、全く 別ものなのでしょうか。 いったい、代官は全国に何人くらい居たのだろうか、ちょっと気になります。 また、「辻駕籠」は町人や商人が利用するものだと思っていました。 疑問は尽きませんが、本題の衣服の制度については疑問解消しましたので、明日締め切りたいと思います。