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武将の教育
武将の子の教育とはどのようなものだったのでしょう?詳しいことを教えてください。
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No.4です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させていただきます。 >他にも読み書きや算数のように武家の棟梁としてどうしても必要な欠かすことができないものはあったのでしょうか? 武将は人の集団を自分の意志に従わせることが必要不可欠です。 現代で言えばリーダーシップということになります。 あるいはよく言われるカリスマ性と呼ばれるものです。 ただ、これは教育で何とかなるものよりも個人の生まれながらの資質が大きく影響しますので、教えてなんとかなるものではないでしょう。 平和な江戸時代には、殿様の後継者に一生懸命教育をしますが、なかなか上手くいきません。 半ば以降になると、殿様はおとなしく子作りに励んでいてくれれば充分というようになっていきました。 御家来衆の間でも、江戸城内での出世競争などに参加させるなというようになりました。 なまじ能力がないのに権力を振り回された大迷惑です。 迷惑の筆頭が忠臣蔵の浅野内匠頭です。 前後もわきまえずにカットなってやってしまい、御家来衆が路頭に迷うことになりご家老の大石内蔵助が大苦労させられました。 武将なら戦が専門だから武術に優れていなければならないと考えられがちですが、武将に這い上がる際に武術が得意な方が有利だとは言えますが、武将となってからは余り必要はありません。 典型的なのが秀吉です。 身体も小さく非力で武術など習う機会もなかったでしょう。 戦場で組討ちにでもなったらひとたまりもなかったでしょう。 秀吉についてはよく「人たらし」と言われます。 人心掌握に優れていたということです。 自分を怨んでいようが何だろうが、すぐにうちとけそれでいて自分のペースに引きずり込んでしまう人だ、というような意味です。 「あの人のためなら何かやってやろう」と思わせればもうシメタものです。 命令などしなくても、周りの人がやって欲しいことを率先してやってくれます。 現在でもこの手の特技を持った人は沢山いるかと思います。 教わって身につくものでもありません。 よく似ているのが、恐怖心と競争心を煽って人を従える能力です。 頼朝や信長がこの典型でしょう。 ただこれは、競争相手が出てくると、従う方もどっちが怖いか天秤にかけますのでウッカリすると一瞬にひっくり返されてしまいます。 ヤクザの親分や肩書き頼りのサラリーマン上司など現代でも沢山います。 サラリーマンなら通用しますが、戦国武将となると競争相手だらけですから、頼朝や信長のような天才でなければ難しかったでしょう。 組織を動かす際に個々の人間の組み合わせがやたらに上手い人がいます。 この典型が家康でしょう。 関ヶ原でも元々豊臣家の家臣であった連中と自分の家臣を競わせています。 この能力も教わって身につくものでもありません。 家康亡き後これを組織化したのが江戸幕府です。 江戸幕府をよくみていただくと、同じ権力を持った組織や地位が全て複数になっていて、上の人間が何もしなくても、お互いに牽制しあって尚且つ手柄を上げようとします。 時代劇などでお馴染の町奉行所が南北(江戸)や東西(大阪)と二か所あるのがこの例です。
- fumkum
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NO6です。追記を。 文の方ですが、これは手習いと歌が中心とされます。手習いは当然のことですが文字を書き、読むためですが、特に手紙-書札礼については前記しましたように重要なポイントでした。歌ですが、これは和歌だけでなく、連歌を含むものでした。連歌は中世に隆盛を極め、武士の間では和歌よりも連歌でした。長期に退陣する籠城戦や、攻城戦などでは陣中で連歌の会を催すことが半ば常態化しており、『太平記』などの軍記物にも多数描かれています。戦時だけでなく、平常時にも連歌の会は定期的に催されることが多く、武士の間の社交の場であり、情報交換の場でもありました。また、宗祇などの連歌師が地方を巡り歩き、その地の大名、国人のもとに滞在し、連歌の会を催すだけでなく、『古今和歌集』などの和歌、『源氏物語』などの物語などの講義、他国の情報などなどの活動をすることも多く、また、応仁の乱後は公家の地方下向が頻繁となり、連歌師・公家による文化の地方への伝播の受け手としての器量が武士側にも求められ、国人、大名ともなると和歌・連歌の教養は必須とも言える教養でした。 ただ、『信長公記』を見ると、時代の流れからか、鉄砲を習ったことが記載されていますし、さらに、守護・戦国大名クラスなどでは、京より子息の教育に公家を招聘するなどもあり、寺だけでなく、公家・連歌師などにも教えを求めています。 さらに、知識の吸収は青年期だけにとどまらず、成人、家督後も武田信玄が岐秀元伯から『碧巌録』の講義を受けたように、政戦の合間に知識の習得にも励んでいます。 参考資料として、室町中期から戦国期にかけての資料を抜書きしたものを書きに列挙します。まずは、『続群書類従』に、ある『世鏡抄上・下』という史料です。その中に、中世、特に室町時代の教育に関する事項が記載されています。 ・誕生の蟇目(ひきめ)より七歳までの学文始迄肝要也。如何にも如何にも賢人の御父(をぢ)、智人の乳母(めのと)をつくべき也。君は又をぢ、めのとの膝に三歳まで居て、四歳より少つ少つ云事を覚(さとる)べき也。賢人のをぢは大儀を教へ、智者の乳母は生長してより以来四恩の道を教へはたして、 ・百事の芸能ありとも弓箭の欠けたらば、無能第一の者なるべし。筆は文の万能の半能也。弓は武の万能の半能也。去は筆は半学文。弓は半兵法と云へり。其外詩歌、管弦、舞謌、囲碁、笛尺八などの芸能は、凡如レ形可2心得1歟(か)。但此中現世高官の能後生安楽之能あり。夫れ謌連歌管弦也。-中略-惣じて日本は歌にて治たり可習事也。 ・上は七つ、中は九つ、下は十を限て入寺也。十三は下山の年-中略-此学文の功仏体の功徳は、死所までの祈祷、後生迄の善根也。 ・卯より辰迄は看経。巳より午までは手習。午より未迄は物を読、申より酉迄は諸芸の遊に懸りて心諫め、酉より戌迄万の艶しき詞、儀理歌物語笛尺八管弦などを嗜め。戌より亥迄は兎にも角にもあれ。七つ八つ迄は更学文も遊も不可定。其時より教訓して可然也。九つ十迄は次第不同によませかかすべし。十一より十三迄は昼夜の逞(いとま)を得させず、しかりては諌め、諌ては威し、学文を教へ、儀理を慥(たしか)に可レ教也。兒(こ)は下山しても寺に住し、学文を心に不レ忘して、昼は鷹野狩場へ出る共、夜の驚には文をよみ、寝ては詩歌管弦を見べきに隙を得たりと。万学を打忘て筆にをこたる事、大未練之儀也。-中略-十五六より廿に及迄は、万事賢智両人の教に任せ、廿一二及ては、我と義理憲法の沙汰、正直正路の趣に心を染て、文の棟梁、武の大将と天下に名を得、或人には儀者、或人には賢人、又は艶き俗と云れん物を。三十迄は是を仏神にも祈て嗜め。生涯の間は三家執柄の人にも不レ劣を人々にも讃られ、後生にては五戒五常の義理の仏法を以て、永く可レ成2仏道1と思べし。早や三十一より軍の懸引、奉公の善悪を紀て、悪事を直して、善事を増て、生死無常の道理にふみ入べし。三十五六より四十迄は、一命を捨と思ひ、忠勤を抽でんと嗜(たしなみ)、四十より五十迄は合戦の手立、勝負のかけ物、野武士のよりのき武者評定、男の嗜、兵具の持様、兵書の大事なんとを思はん者に教置て、无(な=無)き跡のかたみと思へと云。 ・親は男子七歳よりの立振舞、心つかゐを能々見て、十四五迄は樢(ゆがめ)る所を直せ。無承引は打擲して教之、十六七にならば詞にて教之、不用ば色色の以2方便1是を教訓せよ。廿一二にならば一二度は教之、三度にならば勘道せよ。 ・三学の友とは公家には詩歌管弦の友也。武家には弓謌酒也。雑人は酒双六女也。 次に戦国時代の家訓として『早雲寺殿廿一箇条』の教育に関する部分を抜書きします。 1、少の隙あらば、物の本をば、文字のある物を懐に入、常に人目を忍びみべし。寝てもさめても手馴ざれば文字忘るるなり。書こと又同事。 1、歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし。常に出言に慎み有べし。一言にても人に胸中しらるる者也。 1、奉公のすきには馬を乗ならふべし。下地を達者に乗りならひて、馬のたづな以下は稽古すべき也。 1、よき友をもとめべきは、手習学文の友也。悪友をのぞくべきは、碁将棊笛尺八の友也。是はしらずとも耻(はじ)にはならず。習てもあしき事にはならず。但いたづらに光陰を送らむよりはと也。 1、文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず。文を左にし、武を右にするは、古の法。兼て備へずんば有べからず。 さらに、早雲の同族とされる伊勢氏の当主の『伊勢貞親教訓』です。 1、第一仏神を信敬し奉つるべし 1、能芸の事若き時すべき事。ひしてすべき事あるなり。若者のさのみくすみて、相撲、力態、鷹などけ嫌ふは悪き也。人の目にたたぬ程にすべき也。 1、肝要は弓馬の二なり。此の二道を旦夕心にかけ、毎日に怠るべからず。無器用なれども手切入にれば犬追物などに越度なきや、いかに器用なれども不入切はかたくなる事有也。此外の稽古はよければもとよりの事。あしけれ共不苦。此うち猿楽などのするわざは、人によりて能しにせざるが還而見苦。酒宴の時は一さし舞事など一向にしらざれども、馬しらぬ様に恥にはならざれ共、当世人の習元なれば、大たたいしにせたるが好也。にたるものの小利口に猿楽同前にせたる、更に見事にあらず。よきほどに可計也。 1、歌道の事、器用なく共如形も可智也。-中略-弓馬の二つをさしをひて、これをのみにかからん事は不可然。自余これにじゅんず。歌道は両道の外の第一と可心得なり。 1、鞠の事、御相手に被召加、いかにも稽古すべきや。此道も芸も同じかるべし。-略- 1、連歌のこと、御製様御数寄なれば、人数にめされんにあまりなるは如何。縦句はよからずとも、若きものににあふ様に、宗匠に能尋て可覚悟也。毎月十二日和歌の会、連歌の会おこたるべからず。 1、勝負にすく事、さのみ不可然。義家朝臣行成常不勝負有。碁、将棋、揚弓などすへ心劣に成もの也。いわんや其外の不及備。 1、大小事に付て可覚悟事、我が心得を本として人にも問ず、気まかせにすべからず。利根だてをして様か手柄にて、人にほめられんとおもひて、しはつらなる事有て、越度成事のみなり。殊に書礼の文言、他家などへ遣に、誤有ては永不覚也。或語云。聖明負蒔郎広之語言、よく知りたる事をも不知顔にて人にとふ事、是肝要也。必人は学のいたりたる者は、よく知たる事をも一向に不知顔して、人にとふて学をますなり。是利根成者のわざ也。孔子也。下聞にはぢずといへり。誰にも万事を可問也。我が学は至らずして、利根だてをして、恥をかくもの也。 尼子氏の武将で、毛利氏と戦った『多胡辰敬家訓』です。 1、第一に手習学文なり。物を書事乎半学と申故也。 1、第二弓。武士をば弓取と申せばなり。 1、第三算用事なり。 1、第四馬乗事。昔は馬と云事われにて乗人なし。 1、第六に連歌。歌道は諸道を知り、諸道は一道を知ると云へり。 1、第七に、はうちやう(包丁=料理)也。 1、第八に乱舞。一に謡。二に笛、三に小鼓。四に大鼓。五にたいこ。六にしかたなり。 1、第九に鞠。 1、第十にしつけ。 1、第十三に兵法。 1、第十四にすまふ(相撲)。 1、第十五に盤の上のあそび 1、第十六に鷹。 最後に『信長公記』 信長十六、七までは、別に御遊びは御座なし。馬を朝夕御稽古。又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり。-中略-市川大介めしよせられ、御弓御稽古。橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古。平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。御鷹野等なり。 史料は原文(カタカナ表記はひらがなに改めてあります)ですが、当時の武将クラスの人物が、教育にどのような考え方が持っていたのかが分かると思いますので、長くなりますが記載しました。参考まで。
- fumkum
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こんにちは 当時の史料を見ると、武将の教育に関しては、おおよそ次のようです。 7歳までは、学問(学文)を教育することが大切である。賢い*傅(守役)と知恵者の乳母を任命するべきである。誕生から3歳までは慈しむという育て方であり、学問・武芸を教える時期ではないとみなされます。3歳から7歳までは傅・乳母による一種のしつけの時期になります。傅は善悪、人としての在り方など大きな事柄を、乳母は四恩(父母、衆生-生きとし生けるもの、時に人間-、国王、三宝-仏法僧-の恩)などの情操教育ともいえる内容になります。 なお、足利将軍家では、伊勢氏が養育を担当することが慣例で、養君は伊勢氏の邸宅で育てられ、伊勢氏を「御父(をぢ)」として代々育てられます。 *傅・乳母=両方とも和語では「めのと」で、女性の乳母が有名ですが、男女共に任命されるのが通例です。古語辞典には下記のように記述してあるのが普通です。なお、「めのとおや」という言葉があり、「乳母親」または「傅親」と書き、育ての親の意味で使われます。上記の文で、「御父(をぢ)」とあるのは、「傅親」の意味で用いていることになります。また、傅と乳母が夫婦であることはほぼありません。さらに、それぞれ一人とも限りません。傅は後見役であると共に、若君が当主となった時の側近、執政候補であり、家中でも重臣クラスが任命されます。乳母は複数いることも多く、身分が高い程その傾向が強くなります。織田信長の乳母は、池田勝三郎(勝入)恒興(小牧長久手の戦いで戦死)の母で、「大御ち(乳)」と呼ばれ、かんの強い信長が幾人もの乳母の乳を噛み切ったのに対し、彼女にはそのようなことが無かったと伝わります。乳母の子は乳母子と呼ばれ、若君と共に養育され、親衛隊的な側近になっていくことが通例ですが、若君(主君)が戦死などする時には、共に死することが慣習でした。 『全訳古語辞典』旺文社刊 め-の-と(名) (1)【乳母】母親代わりに、子に乳を飲ませ養育する女。うば。 (2)【傅】幼い主君を守り育てる役の男。守(も)り役。後見役。養育係。 「乳母」は母親の代わりに子供に乳を与えて育てるのが役目であるが、昔の乳母は、それだけではすまなかった。子供の養育・教育・後見と、乳母になった者は、その夫ともども一家をあげて、その子が成人するまですべての面にわたって面倒をみるのが通例だった。乳母の子供を「乳母子(めのとご)」といい、養い君に仕えたことが種々の作品にみえる。 7歳になると寺に入り(入寺・登山-とうざん-と言います)、教育を受けます。この場合は出家するわけではありません。また、人により3,4歳で寺入りしたり、13歳以降に寺入りしたりとまちまちでしたが、おおよそ7歳で寺入りし、13歳になると卒業して寺を出ます(下山)。この場合一般には寺で寝泊まりしますが、大名クラスや足利将軍家などは、館や家臣邸にいて、寺入りしないこともあったようです。伊達政宗については寺入りしたとの記録があります。織田信長については『信長公記』を見ると、寺入りしたようには見えず、その道の名人とおぼしき人物を招いて、教えを受けたようです。なお、宗派については臨済宗-室町時代は武家の官寺的な立場であったことも大きい-が多いようですが、謙信(年少時は家督予定ではないので出家)は曹洞宗であり、その他には真言宗の寺院に寺入りした例もあるようです。 寺にいる時の日課は次のようでであったとされます。 ・午前6時~午前9時=看経-かんきん-宗派により違いますが、経文を読むこと、または研究するために読むことを言います。 午前10時~正午=*手習 午後1時~午後3時=*読書 午後4時~午後6時=*諸芸の遊び 午後9時~午後11時=自由 『世鏡抄』には上記のような日課が記載されています。この通りに全ての入寺者が過ごしたかどうかはわかりませんが。 さて、手習と読書ですが、当然ですが相互に関連します。手習の手本には、伊呂波などの簡単なものもあります。有名な手本には、上杉謙信が自筆で、養子の景勝のために書いた、『伊呂波尽手本』(現存し、国宝指定)があります。しかし、多く用いられたものは往来物です。往来物というのは、現在の教科書に相当する冊子で、往復書簡(往来)の形式の内容が多かったことから、往来物と言いますが、必ずしも書簡の形式だけではありません。ただ、室町時代などは書札礼がものすごくうるさい時代で、書簡の発信者と受信者の身分・役職などにより、宛名の書き方、形式から始まって内容に至るまでこまごまとした決まりごとがあり、書簡を学ぶことは非常に大切なことでもありました。 「伊呂波」「千字文」などは手習いの教本であり、文字を覚えることが目的の教本ですが、手習いと共に教養を身に着けさせる往来物としては、中世の往来物のチャンピオンと目される『庭訓往来』あります。これは、武家の基礎的な教養に合致した内容(手習いの教本の面も持つ)で、室町時代から、江戸時代を通じて用いられた往来物でした。この『庭訓往来』は、室町時代前期に成立したとされますが、鎌倉時代から室町時代の前期にかけていくつかの往来物が完成しており(最古の往来物は平安時代の末とされています)、そのような往来物を使う需要が確実にあったことがわかります。このような往来物の中で注目されるのが、御成敗式目を抜粋した形式の往来物で、これも為政者としての当時の武士の必要な教養で、各種分国法にも御成敗式目の文言が用いられたり、その精神が取り入れたりしており、このような形式で基礎学習をしていたことが分かります。 『庭訓往来』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E8%A8%93%E5%BE%80%E6%9D%A5 ところで、戦国時代に毛利氏の旗下の安芸国の武将に玉木吉保という人物がいます。彼は『身自鏡(みのかがみ)』という自叙伝を残しますが、その中で寺入りに関する記述があります。彼の場合、数えの13歳の2月9日に真言宗の寺に入寺しており、通常では下山時期に寺入りしたことになります。入寺後、『いろはの筆立』から手習いし、『般若心経』・『観音経』を看経します。入寺後に用いられた往来物、書籍は、『庭訓往来』『式定(条)』『童子教』『実語教』などの往来物に始まり、四書五経などの儒教関係の書籍、六韜・三略などの兵法書、古今・万葉・八代集・九代集・和漢朗詠集などの和歌集、『伊勢物語』『源氏物語』などの物語と、多岐にわたっています。 さらに、当時の大学である足利学校、少し後の時代になりますが、德川家康が伏見に建てた足利学校の分校とも言うべき円光寺学校などの出版物、使用書籍、その他戦国武将を中心とする著作物に見られる書籍をまとめると、玉木吉保の例と被る書籍が多くなりますが、次のようになります。 手習い教本=『千字文集註』『古注蒙求』『胡曾詩註』各種伊呂波 中国伝来の思想・歴史書=四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)五経(『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』、さらに『楽経』を入れて六経とすることがあります)、『列子』『荘子』『老子』『史記』『後漢書』『春秋左氏伝』『呂氏春秋』『碧巌録(信玄が習った)』『尚書』『春秋穀梁伝』『漢書』『戦国策』『孝経』『孔子家語』『貞観政要』『周易』 『易経』は武将として最重要視されます。 兵書=武経七書(『孫子』『呉氏』『蔚繚子』『司馬法』『六韜』『三略』『李衛公問対』) 中国詩文集=『文選』『古文真宝』『古文真宝後集抄』 日本関係=『平家物語』『太平記』『源平盛衰記』『吾妻鑑』『御成敗式目』『古今集』『万葉集』『八代集』『九代集』『和漢朗詠集』『伊勢物語』『源氏物語』』、往来物各種。 以上の書籍が挙げられますが、一人でこの全てを読破したのではなく、また、一冊の書籍を隅から隅まで読んだのでもないとされます。往来物の中には、上記書籍の抜粋というべき物もあり、それにより必要な個所を知ることもあったようです。 玉木吉保 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9C%A8%E5%90%89%E4%BF%9D 寺入りしても、7、8歳ぐらいまでは学問も遊びもこれというものを決めず、9,10歳ぐらいまでは自由に読書・手習いをさせるるようにとし、それ以降下山までは昼夜暇を与えず叱っては諌め、諌めては威して学問を教え、物事の正しい筋道、人のふみ行うべき正しい道を教えよとされます。 下山後は、15,16歳までは寺に住み、日中は鷹狩狩猟で体を動かし、外に出ても、夜は学問、詩歌管弦に打ち込むことを求めます。さらに20歳頃までは傅・乳母の教導に任せ、31歳よりは軍の駆け引きを、40^50歳までは合戦の手立て、手段を考えよとしています。 さて、武将の学ぶべきものは何かというと、ほとんどの家訓、教育書に共通するのは、神仏を敬うことと、文武両道ということです。 文武両道ですが、武は「弓馬」とされ、弓と馬であり、槍や剣ではないのです。ただ、塚原卜伝に足利義輝・北畠具教・今川氏真が学び、その孫弟子の奥山休賀斎に徳川家康が学んだという史料がありますから、必ずしも剣を学ばなかったということではないようですが、戦国時代などでは身の回りには実戦経験者が多数おり、弓・馬・剣・槍などは周りの家臣や傅により基本的な技術は教えられたと考えられます。
お礼
fumkumさん、随分詳しいたくさんの回答どうもありがとうございます。
- あずき なな(@azuki-7)
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普通は教育係が居ました まぁ 弱小大名とかだと いわば「爺」と呼ばれる家老とか守役が教育をしていたようです 教育でもっとも有名なのは伊達政宗ですね 彼を教育したのは あの虎哉宗乙です 虎哉宗乙はかの快川紹喜の秘蔵弟子です(心頭を滅却すれば 火もまた涼し の句は有名ですね) まぁ よほど良い師だったのでしょう 政宗はご存知のとおり 奥州の覇者となりました
何時の時代でも武将すなわち武家の棟梁となる人は読み書き算盤が必須でした。 遠隔地との情報の交換は文書のみですから、読み書きは必須です。 部下である家臣を養うのには収入支出を把握しておく必要がありますので算盤すなわち加減乗除の知識は必要になります。 読み書きにつきましては、千字文と呼ばれる千字の異なる文字が使われた漢詩が古くから伝わり、江戸時代まで漢字の教本となっていました。 当時は写本ですので能筆家が書いたものはお習字の手本にもなっていました。 江戸時代でも武家の男子の初等教育は父親の責務でした。 初等教育が終われば、儒者や僧侶が家庭教師のような形で四書五経などと呼ばれる儒教関係の書籍を教えてました。 源平時代は源氏も平家も元々皇族の末裔ですので、周辺に学問と言いますか文字を教える人はいくらでもいました。 しかも当時は時に応じて和歌を詠むことも要求されていました。 現在も辞世の句というのが伝えられています。 戦国時代は秀吉のように幼児教育など全くといってよいほど受けなかった人も沢山居ました。 ただ、時間のある限り自習を心がけ、身近な僧侶などに教えを乞うていました。 文字が書けなければ、作戦指令も出せません。 外交上必要な誓詞の取り交わしも出来ません。 領地を持って人の上に立とうと思えば読み書きは必須でした。 秀吉も人の上に立つようになってからは自筆の手紙書いたりして、辞世の句も伝えられています。 明治までは宗教即ち仏教というものが重要な社会的地位を占めていましたので武家など社会的な上流階級の人達にとって僧侶は極めて身近な存在でした。 お寺というのは現在とは違いある種のカルチャーセンターでした。 江戸時代の庶民の子弟相手の寺子屋も初等教育はお寺で行われていた名残りです。 普通は手習い(所)と呼ばれていました。 平家物語にも衣の下に鎧が見えたなどという話があり現在も比喩に使われています。 義経自身鞍馬寺の出身ですが弁慶という僧兵を従えていました。 熊谷直実も上杉謙信も一時出家しています。 西行も元々は佐藤 義清という武家でした。 江戸幕府を立ち上げる際の家康の顧問にも天海という僧侶がいました。 参考 千字文 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/千字文
お礼
詳しく丁寧な回答をどうもありがとうございます。 算数と読み書きがどうしても必要なのが説明を読んで非常によくわかりました。 これがないと棟梁としての仕事が立ち行かないですね。きっとどんな武将でもこれだけはできたのでしょうね。 ふと疑問が浮かんできたのですが、他にも読み書きや算数のように武家の棟梁としてどうしても必要な欠かすことができないものはあったのでしょうか? もしご存知であれば教えて頂けると嬉しいです。
- eroero4649
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武将となりますから、戦国武将ということで回答します。江戸時代になるとちょっと事情が変わりますが、一般的に江戸時代は武士、戦国時代に武将と呼ぶと思いますので。また、武将ということは必ずしも大将ばかりではなく、ある程度一軍を任される家臣も含まれると思います。 当時の主な教育機関はお寺です。戦国大名もだいたい側近に僧侶を持っています。中には太原雪斎のような宰相ともいうべき立場にいた人や、安国寺恵瓊のような外交官として活躍した人もいます。 近代になって国家による学校教育システムが完成するまでは、洋の東西を問わず宗教というのはインテリが集まるところだったのです。キリスト教でもイスラム教でも仏教でも、科学も哲学も医学もお寺(教会・モスク)が担っていたのです。だから大きなお寺の住職となると今なら大学の学長みたいなものだったんですね。あの石田三成も寺の坊主だったのを秀吉に見出されたわけです。 大名クラスともなるとお寺の方から住職がわざわざ来てくれますが、みんながみんなそうとは限らない。だからもうちょっと下の武将クラスとなるとお寺に勉強に行ったわけです。また見込みのある子は小姓として大名の元に送られてそこで武家版の丁稚奉公をするんですな。そこでしきたりやら武芸やら教わるわけです。小姓は大名のボディガードも兼ねていますからね。 人の上に立つ人というのは、教養も求められます。当時の文化人の間では漢詩が分かるのが常識だったので、大名クラスともなると漢詩がまったく分からないでは通じなかったでしょうね。武田信玄のように自作の漢詩を残している人もいます。また切腹するときは辞世の句を詠まないといけません。 また合戦になったときに「敵方は三千、我が方は二千の兵であります」といわれたときに「それはどっちのほうが数が多いのか。すごく違うのか、ちょっとだけか」なんて言い出されたら「この大将はダメだ」と思われるでしょう。算数くらいは分からないといけません。「こいつは頼りにならない」と思われたら容赦なく謀反を起こされたり暗殺される時代なんですから、バカじゃ生きることさえ難しいのです。 ここまでは「親も武将」というような家柄の人たちです。しかし現代人が想像するよりはるかに身分制度が緩やかだった戦国時代においては槍ひとつでのし上がっていく人がいました。だからそういう人の中には知識は後から身につけたという人もいます。福島正則なんかは死ぬまでひらがなしか読めなかったそうですよ。同じような身分が低い出自の加藤清正は熊本城の建設や土木工事で功績を残しているので、理系脳だったのでしょうね。数学レベルの知識はないといけませんからどこかで勉強したのだと思います。 しかしこの「のし上がった系」の人たちは自分が勉強するので精一杯であまりブレーンにも恵まれていなかったのでしょう、息子の教育に失敗している人は多いですね。
- ithi
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ithiです。 和歌や漢詩や四書五経はなんのために学んだのでしょう?もちろん知ってるに越したことはないのでしょうけど、たとえ知らなくてもとくに困ることはないと思うのですけど。 もし、ご存知でしたら教えていただけると嬉しいです。 和歌や漢詩がわからないと社交ができません。四書五経は教養ですので、両方を知らないとボキャブラリーの不足で手紙も書けないのと同じです。ほかには算術がわからないと年貢関係で困りますね。 あとは茶の湯でしょうか?
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
lrvgsnj6jn4i さん、こんばんは。 まず、生まれたら、家臣の中から傅役を選んでつけます。世話係ですね。そして一般の生活態度を学ばせたら、5,6歳で手習いでしょうか?それから、剣術、鎗術、弓術、馬術等を10歳前後から始めて元服の15歳までひたすら精進し、文のほうはおそらく、臨済禅の僧が担当し、和歌や漢詩、四書五経や兵法書などを暗記し、武芸のほうはその道の兵法者が担当し、いずれも一通りのことができないといけないでしょう。
お礼
ithiさん、こんばんは。回答どうもありがとうございます。 手習いは字の練習、つまりお習字のことであってますでしょうか? 意外と学ぶことは少ないのですね。現代のように数学とか歴史とかはやらないのですね。 兵法は武将なので必要だから分かりますが、和歌や漢詩や四書五経はなんのために学んだのでしょう?もちろん知ってるに越したことはないのでしょうけど、たとえ知らなくてもとくに困ることはないと思うのですけど。 もし、ご存知でしたら教えていただけると嬉しいです。
お礼
追加の回答本当にありがとうございます。お礼を言うのはこちらのほうです。 カリスマ性ですか、これは本人の思慮と工夫がモノを言う分野だから教えることはできませんね。 ということは、とりあえず読み書きと算数ができれば棟梁としては本当に必要最低限ではあるけど必要な能力は揃っていたということですかね? 江戸時代の殿様の後継者の教育はどうして上手くいかなかったのでしょう?