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偶像を崇拝するななるオシへは一つの偶像ではないか
- 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら、オシへとしての偶像に従うことになってしまうという矛盾が起きるという問題です。
- クルアーンにおける詳しい文章などについても含めて教えてください。
- イスラームに限らず、《観念となった神やオシへ》は明らかに偶像であり、現代人の間で崇拝されている問題も存在します。
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おっしゃる通りです。 自分で考えることなく、 他から与えられた教えをそのまま受け入れて信じることこそ、 「偶像崇拝」に他なりません。 よって宗教というものは、 その成り立ちからして必然的に「偶像崇拝」することを求めるものです。 「偶像崇拝」とは、神を外側にあるものとして崇拝させることですが、 あらゆる生命が生命の本質的存在から派生していることから、 生命そのものが、 「いわゆる神」と呼ばれる存在と同じ本質を持っていることになります。 よって私たちの根源ともいうべき「本質的生命」から生まれた子どもである1人1人、 あるいは1匹、1羽、1頭は、その存在そのものが「いわゆる神」であることから、 外側に「いわゆる神」を求める必要はありません。 なぜなら、すべては「いわゆる神」から出ており、 1人1人は内に生命という神を宿す存在だからです。 ゆえに、 外に神を探すよう求める宗教は、1人1人が神であることを否定するものであり、 自分自身を否定し自分を見失なうことにより、結果的に依存を求めるのです。 それが信じるという信仰であり、偶像崇拝です。 何か外にあるものを信じるよりも、自分自身をこそ信じて愛することだと思います。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 じゃ、ちょっと思いきったご回答を。 >「偶像崇拝の禁止」 なんで?
お礼
仮り(偶)のかたち(象)をほんものだと間違ってはいけないという。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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あんたの懸案はよく判る。 集約すると、信仰とは個人的な事である。 こういうそっけなさと違って、 信仰に及ぶ事は、自らを自覚し助ける事でもあって、それは神の存在を自覚するゆえの恩寵でもある。 まあこうかいな。 読書感想文だよ。
お礼
そうだ。そのとおりだ。 恩寵が第一。 信仰がいかに個人的なコトであり 自らを自覚し助けるコトであると言っても そのことすらもがすでに恩寵によるということ。 ――といった・けっきょくは仮りのものたる偶像としての説明をとおして 《めぐみ》と《わが自由意志》とのあいだの関係を捉えて行くものと思われます。 ご回答をありがとうございます。
- 人の道(@hitonomichi35)
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>★ 「偶像を崇拝するな」とは、偶像とは単に形であって、「汝形に拘るべからず」ってことなんだよ。 ☆ というときの《「汝形に拘るべからず」》が これも ひとつの偶像ですね。 なんて言ってるのもまたひとつの偶像だろ・・・・ ・・・・無限に続くぞ。 その発想だと人間が発することばは全て偶像であると言ってるに等しいんだよ。 だからそんなこと言い続けていったい何になるって言ってんだよ。 まだ分からんか。
補足
すでに見放しています。 そのことがマチガイではないことが確認できました。
- 人の道(@hitonomichi35)
- ベストアンサー率27% (3/11)
>人間のことばで表現されているからには 神の心を仮りに示すもの=すなわち偶像であると考えられ得ます。 人間が発することばは全て偶像であると言っているに等しいが、そんなことを言って一体何の意味があるのでしょう。 「偶像を崇拝するな」とは、偶像とは単に形であって、「汝形に拘るべからず」ってことなんだよ。
補足
びみょうですね。 ★ 「偶像を崇拝するな」とは、偶像とは単に形であって、「汝形に拘るべからず」ってことなんだよ。 ☆ というときの《「汝形に拘るべからず」》が これも ひとつの偶像ですね。 オシへや規範に成り得ますね。そして 固定したオシへ・すでに決まり切っているんだよというほどの規範にしてしまいがちですね。 というようにただちに反論されるのが分かっている見解をのべていったい何の意味があるのだろう。 ご回答をありがとうございます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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zebura23 さんが言い尽くしているが、bragelonne が補足的にご解釈をされていて、時にそれが誤解の原因になる側面がありますね。 人はどうしても言葉での把握が必要ですね、いろんなことで。 そのことばでの把握ってどうしても外在化してしまう側面がありますよね。 そして強固にその思いを持とうとするとbragelonne さんのいう概念や観念の外在的偶像化につながりかねないですね。そこがたいへん難しいところではないですか?でも言葉や観念や概念の放棄ってできないんではないでしょうか?いえ難しいですよね。だからこそ、オシエの偶像化になりやすい、善男善女として偶像信仰につながりやすい。 でも理屈や概念の演繹、加減乗除で終始することも戒めなければならない。本当に難しいですね。論語読みの論語知らずっていうことのある側面かもしれませんね。 たいへんいい質問を為さるんですね。素晴らしい。難しいですよ観念や概念を外在的固定した観念概念にしないで自己の存在の生き生きしたものとすることは。関連質問を沢山してください。
お礼
◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~ あらゆる生命が生命の本質的存在から派生していることから、 生命そのものが、 「いわゆる神」と呼ばれる存在と同じ本質を持っていることになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあたりのぜぶら23さんの見解をしっかりと互いに共有したいといったところでしょうか。 ご回答をありがとうございます。 そして ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人はどうしても言葉での把握が必要ですね、いろんなことで。 そのことばでの把握ってどうしても外在化してしまう側面がありますよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということで 先ほどのたとえば《生命》ということ自体がその言葉化によって 外の固定したものに成りがちです。ね。 《かみ》という言葉にしても もともとは内面においてわづかに神本体のシルシとして持たれるに過ぎないものである。といったところでしょうか。そういう問題をつねに孕んでいますね 人間と言葉という問題は。 偶像は 信仰の中身をかろうじて言葉にして表現し得たというときには オシへというよりは わが心の内なる思いの確認といったこととしては とうといものですね。仮りに表わしたものです。それとしての《偶像》は 何らおかしくないし こわくもない。そのことをわきまえていれば あぶなくはない。 でも それでも ★ 難しいですよ観念や概念を外在的固定した観念概念にしないで自己の存在の生き生きしたものとすることは。 ☆ ですね。何かにつけて。 ★ 関連質問を沢山してください。 ☆ そううまくは行かないかも知れませんが つとめたいと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ゆえに、 外に神を探すよう求める宗教は、1人1人が神であることを否定するものであり、 自分自身を否定し自分を見失なうことにより、結果的に依存を求めるのです。 それが信じるという信仰であり、偶像崇拝です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ シュウキョウは 百害あって一利なしですね。 オシへを知って堅く強く思っているならば 神にあるいは真理に近いとでも思っているのでしょう。 それはじつは・つまりオシへは すでに内面における信仰がヒラメキを得て何らかの思想や倫理規範に成ったもの。つまりは 内面の信仰なる動態がすでに――言葉をとおして――外に出てしまっている。 仮りの思想ないし偶像には従わないという信仰の内実が 偶像を崇拝するなという外のオシへとして表現され 固定されてしまっている。この外の観念にそのまま従うなら 偶像にやすやすと従ったことになる。 しかも シュウキョウはほとんどみな・そしてつねに この外面化したオシへに従いなさいと言っている。 シュウキョウは百害あって一利なしと。 なお ★ それが信じるという信仰であり、偶像崇拝です。 ☆ この部分は オシへに従うということが オシへを《信じる(無条件に受け容れる)》こととなっているではないかという批判だと思います。 オシへは 考えるものだというところを 信じると勘違いしているのだと。 すなわち ★ 何か外にあるものを信じるよりも、自分自身をこそ信じて愛することだと思います。 ☆ このとおりであって・つまりは すでに言葉になっている外のものは 《信じる》とは言わないのだと確認すればよいのだと思います。 外にある観念を《信じる》としたら それは《何も知らず丸飲みする》ことであり《何も知らずにただしいと思い込む》ことだと考えられます。