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神について勘違いが多いのはなぜでしょう?
- 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
- また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
- 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。
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>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。
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- york-graduate
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まず勘違いがなぜあるかでしょう。 まずキリスト教の神なのか、イスラム教の神なのかがあります。 仏教には神はいませんから。 A. 神は 精神であるという勘違い。 精神が過度に日本で強調されている。たとえば旧日本軍の精神偏重主義。部活にも見られると思うが、これが誤らせる原因。つまり人間が神になる。 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。 宗教団体には人がいる。つまり、宗教において神ではなく、人間が信じられている。カルト集団が一番いい例。教祖があがめられる。 C. 同じく 教義を信じるという間違い。 これはつまり実体ではなく、表面を信じるということ。本質ではなく、うわべを信じるから。 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい る間違い。 神がどういうかたかわからないから。神を人間と同じにするから。 偶像は人間を罰さない。だから信じる。都合いいから。
お礼
ヨーク出身さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。質問者としては 四つの事例を《偶像崇拝が原因だ》と類型的にまとめていますので ★ 偶像は人間を罰さない。だから信じる。都合いいから。 ☆ という事由は そうかも知れないと思いました。言いかえると いわゆる昔風の言い方で《自然への畏れ・大自然への畏敬》といった感覚がなくなったということかも知れません。出産をつうじての生命の神秘やら宇宙探索をつうじての自然の神秘など いまも接する機会はあるようにも思えるのですけれど。 でも《偶像なら 少々間違いを仕出かしても 罰を受けないだろう》というわけですか。それもあるかも知れませんねぇ。ということは わるいことは忘れていいことなら信じるという占いのたぐいでしょうか。 つまりは 自分の思考しうる範囲内のことであれば 都合のよいほうに賭けるのだけれども 賭けがしくじったならほかへ移るし 思考能力を超えたところのことはもうお呼びでないという心づもりなのでしょうか。 ★ A・・・精神が過度に日本で強調されている。たとえば旧日本軍の精神偏重主義。部活にも見られると思うが、これが誤らせる原因。つまり人間が神になる。 ☆ 高校球児の精神(ふるいかも)でしょうか? そう言えば 某テレビ局の番組でプロ野球解説者と女性ジャーナリストとのあいだでこの《精神主義》の是非について ひと悶着があったそうですね 最近。昔は練習のあいだ 水を飲んではいけなかったようです。 あるいは この精神主義の影響だと思うのですが 日本人は《さとり》について梵我一如が好きなようです。精神において宇宙と一体となるとか何とか。この哲学カテでも見かけます。あほかいなと思います。(そんなことを意識的に精神においてなどと目指さずとも すでに初めから そうだとすれば 一体です。そうではなく 神を自分から迎えに行くというくせなのでしょうね。それは 精神主義だからです)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ B. 宗教・・・人間である教祖があがめられる。 C. 教義・・・これはつまり実体ではなく、表面を信じるということ。本質ではなく、うわべを信じるから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どちらも《うわべ》を信じる。つまり思いこみとしての信じ込みのようです。あほかいなと思います。意識的に精神ないし心の中に《神》を抱きたいのでしょう。精神主義のくせゆえに。こう考えると もしその弊害に落ち入っているなら 二千年遅れているということでしょうねぇ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい る間違い。 神がどういうかたかわからないから。神を人間と同じにするから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ けっきょく《分からない》のだから そのまま《信じる》。つまりはこの場合 自分から何かを追い求めるというくせをその場で捨てればよい。そうすれば 即身成仏ですよ。一瞬のうちにさとりが得られるでしょう。すなわち 《非思考の場》としての信仰が あなたの心のうちに芽を吹かせるということではないでしょうか。 灯台もと暗し。 こう考えました。ありがとうございました。
> 《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。 > つまり 非思考の場は そういう経験世界における > 目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 やはり、そう来ましたか。 つまり ●bragelonneさんの神はメリットがない。 それは多くの人にとっては価値がない。 意味がない。 用がない。 そういうふうに写ってしまうのではないでしょうかねぇ。
お礼
なるほど。さらに突いて来ますね。おもしろい。 キュウさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。次の考え方をも参照して欲しいのですが。 ☆☆ (No.49お礼欄) ~~~~~~~~ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。 この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《特異点》に立つ〔かに思われる〕ときには おっしゃるように ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ● bragelonneさんの神はメリットがない。 それは多くの人にとっては価値がない。 意味がない。 用がない。 そういうふうに写ってしまうのではないでしょうかねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということであって もう仕方がないでしょうね。あるいは積極的にそうなのだと・つまり《無価値なのだ》と言ったほうがよいとさえ思われます。 言いかえると 神は《無根拠》なのです。人間にとってどういう根拠があるのか 人間に分かるようには成っていない。 だって 《根拠》があって分かっていれば それは《非思考》ではなくなり 《思考》した結果おのれの考えで判断して決めるものになるからです。それは 《非経験の領域》ではありません。でしょ? でもね。けっこうメリットはあるのです。 船に乗っていて嵐に遭い 波に身をまかせる船もろとも運命をともにするかに思われたとき ◆ おそれるな。わたしだ。 ☆ と声をかけられれば かなり安心しますよ。 ということは 出発点として《信仰の成立》の時点があり――そしてそれは おおよそ一回きりであり―― その後の信仰の持続としての動態は 時間的な過程として生きることと結ばれている格好です。 出発点については 無根拠で メリット無しです。 その後の動態においては けっこうメリットを与えられます。 たとえば 仮りに無実なのに(もしくは 無実ゆえに)権力から咎めを受けたときに その申し開きをするのは あなたではなく聖霊だと言われます。メリット以上の力が与えられるようです。だって《無根拠》は 無根拠ゆえに絶対であるようなのです。 そのことを称して わたしたちはふたたびおそれに落ち入らせる奴隷の霊を受けたのではない。光を失うことはないのだと言われます。無根拠ゆえにです。 人間には分からないゆえにです。非思考ゆえにです。 つまり 信じているからだということですが この信じるも与えられたものです。わづかにこちらからも――出発点において――その受領証を発行したわけですが あとはすべてみちびかれる格好になります。いわば勝手に自由に振る舞うのですが それもこれもみなみちびかれているという格好に 事後的に見れば なります。 つまり言いたいことは 《信じる》は たしかに受領証を発行するという意志行為で出発したのですが いづれやがて信じるその非思考の場そのものをわたしたちが見たときには もう信じる必要はなくなります。だってすでに見ているものをもう信じる必要はないからです。 信仰は やがて要らなくなります。ただかつて動態的な過程においてあったその信仰にもとづく行為とその社会的な関係 ここにおける言わば人びととの関係としての愛は なお残ると言われています。愛は いつまでもどこまでもあり続けると言われています。なんちゃって。(つまり 将来すべきこととして臨むべきことがらを述べています)。
主の流れはすべての虚飾を離れる 勘違いから偽の流れは発生し 偽の流れは偽の流れと気がつかないから偽の流れをとどめる 末法もしくは終末期における新興宗教の乱立状態はこうして起こる そして 主の流れが決して言わないことを偽の流れは平気で言ってしまうという特徴がある `
- AXIS_
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>今回は キモイ文章から足を洗ったと思ったら また元にもどっちゃった。 ぴったりとくっついた ☆ と ★ を A と b に分けたらキモサも半減、気持ち悪くならずになんとか回答できそうですw(吐かずに済むかも、ていう。) >読んでも答えは変わらない。 で、実際に読んだの? >それでも やり取りの続き具合いから言って容易に分かるはず。 こちらは毎日やることもあるし、それよりも重要な仕事もしているし、書いたことをすべて覚えているわけではないので。bragelonne君とのやりとりはどうでも良いものらしく、すぐに忘れます。ぎゃくに覚えていなくてはならないものや興味のある人などについては良く覚えているようです。(しつもんしゃと質問については本当はあまり興味がない(失礼)。) あと、No.51のお礼欄の1から5は何について説明したものか、念のため確認をしておきたい。
違うんだよなぁ その一字。。 その一句。。。 違いを峻別できないなかに 単なる入力ミスとは質の異なる 誤謬は起こる ´
- AXIS_
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> ☆ No.41と取り違えました。(なんでだろう?) そのくらい分かるでしょう。 こちらは一日中このサイトにかかりっきりのしつもんしゃと違って、時間をそんなに取れないんですよ。探すよりも、質問者自身の間違いに対する訂正を聞いてから対応したほうが時間の節約になるんです。 >A: 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ >b: にはならないのですがねぇ。 ◇No.50の回答文を良く読んでから返答しましょう。なんと書いてありますか? >A: 何らかの神体験はしたことがあるのか? >b: 心の窓をノックする音ではなかったけれど あたかもそのような窓が――開くというのでもなく―― どこまでもこの世界につうじているという感覚をおぼえたことがあります。非思考の場の発端としては それだけです。その感覚をさらにそこに覆いかぶさるように精神の胃袋に飲み込んだ。それが 神(むろん 代理としてのことば)を受け容れたという事件でした。 「そのような窓」の そのような とは一体何を指しているのか。最後の文章全体についても、違う表現で説明を試みてください。
お礼
今回は キモイ文章から足を洗ったと思ったら また元にもどっちゃった。 質問者の責任を果たさなきゃならんか。 1. この《いま・ここ》の経験世界を超えたところに《非経験の領域》を想定する。なぜなら 《信じる》という言葉を じんるいはおよそ普遍的に使って来ているその現実の習慣にかんがみてである。 2. 非経験の領域は 人間の《身体=精神》に即して言えば 比喩として《心の窓》である。 3. 《信じる》という言語習慣を分析するならば おそらく神が――つまり非経験の領域のナゾの何ものかが――この心の窓を 或る晴れた日 ノックする。このおとづれを受け容れるならば その受容が《信じる》ということではないのか。 4. 一般に次の方程式で捉える。 ○ ナゾの何ものかからのはたらきかけ(ノックでなくてもよい)→ ・ これを聞き入れ受け容れる→ ・ 《信じる》の成立→ ・ この《信じる》は 動態である= ・ 人間が時間的な存在であることよりその信じるの事件を大事にする とすれば 持続することになり 動態となる。 5. 人間の存在〔をめぐる思惟〕のかたちは 構造的である。 ○ 《考える‐信じる》のふたつの領域があり それは時空間を生きると いう意味で 立体的構造的である。 ○ 神についての《勘違い》は――偶像崇拝という一般的なかたちであると 言ったが 別の言葉で言えば―― この思惟・内省の構造が 平面的に なることである。 ○ われ考えるゆえにわれありの《考える》がひとの心のすべての領域を 近代人の理性の顕揚このかた 占領してしまった。 ○ 知は力なりという意味での科学の知が 神に取って代わっているか それとも ドラえもん(たぶん)かである。(後者は 想像の産物におい て心が憩うという意味)。 ★ ◇No.50の回答文を良く読んでから返答しましょう。なんと書いてありますか? ☆ 読んでも答えは変わらない。 ★ ・・・時間をそんなに取れないんですよ。探すよりも、質問者自身の間違いに対する訂正を聞いてから対応したほうが時間の節約になるんです。 ☆ それでも やり取りの続き具合いから言って容易に分かるはず。
- AXIS_
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>★★ (回答No.23) ・・・偶像崇拝は勘違いではない、と言えるでしょう。 >☆ に対して答えたものです。 さて、No.23においてそういった記述は見られませんでした。 >★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ >☆ にはならないのですがねぇ。 なるほど、知っている・認識している というのではなく、あくまで知らない人間が「信じる」ということについてのみ論じているというわけか。 >★ 真の神(ほんものの神)とは何か? >☆ 表象し得ないと言って来ております。 何らかの神体験はしたことがあるのか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ さて、No.23においてそういった記述は見られませんでした。 ☆ No.41と取り違えました。(なんでだろう?) そのくらい分かるでしょう。 ☆☆(No.46お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《信じる つまり個人の主観における信仰》から 集団としての組織宗教が出たと考えられますが だからと言って ★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ ☆ にはならないのですがねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで問題にしているのは 《のみ》という限定です。これに対して ★ なるほど、知っている・認識している というのではなく、あくまで知らない人間が「信じる」ということについてのみ論じているというわけか。 ☆ という応答をもらっています。 《知らない人間》だけを取り上げているのではないと言うべきですかね。《間違って知っていると思っている人》も含みますし 《ただ〈知っている〉だけで 非思考の場における神の受容・つまり 実際の受け容れをおこなっていない人》も含みます。 ★ 何らかの神体験はしたことがあるのか? ☆ 心の窓をノックする音ではなかったけれど あたかもそのような窓が――開くというのでもなく―― どこまでもこの世界につうじているという感覚をおぼえたことがあります。非思考の場の発端としては それだけです。その感覚をさらにそこに覆いかぶさるように精神の胃袋に飲み込んだ。それが 神(むろん 代理としてのことば)を受け容れたという事件でした。
>> 非経験の領域を想定することでどういうメリットがあるのか? > こういう何だかおれは神が欲しいんだと言って この想定をするわけではないのです。 > 《かみ あるいは 信じる》という言語慣習は どうしてあるのか? > ここから出発しているというのが 答えです。 ????? もう一度。 神について勘違いが多いのは 多くの人が神を自分のものにしたいと思っているからです。 > こういう何だかおれは神が欲しいんだと言って この想定をするわけではないのです。 ならば、多くの人にとってこの想定はメリットがない(自分の知りたいこととは関係ない)と 思われてしまいます。 なので勘違いは是正されません。 どうしますか?
お礼
キュウさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ○ 信じる ☆ という言葉は どういう意味か? ○ たとえば わが子がそんなことをするはずがない。わたしは自分の子を信じる。 ☆ といった場合 これは げんみつには間違った語法です。《人間を信じる》ことは――経験思考でその人の信頼性やら人となりやらを考えて信用できるとか 信頼しているとか言えても 非思考の場としての《信じる》ではないのだから―― あり得ません。 ○ むさぼるなかれ。人を自分と同じように愛しなさい。 ☆ という信仰の命題は 人間の言葉で表現されるとそのときから経験思考の対象となります。つまりその妥当性を問うて《考える》わけです。したがってこのいわゆる聖句が 《信じる》の対象ではない。つまり その言葉が 神なのではない。 では《信じる》とか《かみ》とかは 合理的でもあって現実に成り立つと思われる用法は何かと尋ねれば これまで示した定義になると考えたわけです。 この言語習慣とは別に 最初から《神を想定する》といったことはしていないという意味です。何らかのメリットを求めてというのでもなく 語法の現実性を問い求めた結果だと考えるのが いちばんだと思います。 そのようである ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ならば、多くの人にとってこの想定はメリットがない(自分の知りたいこととは関係ない)と 思われてしまいます。 なので勘違いは是正されません。 どうしますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 基本として この《信じる》の用法の解明あるいは《神》の定義を 言論の場で言い続けます。どこまでも・最後の一人が納得するまで 言い続けます。 それでも《勘違いが是正されなかった》なら どうするか? ――さじを投げます。 近代人の理性信仰あるいは科学信仰の影響を受けているものと思われます。狂気をよくみちびくことはむつかしいでしょう。《知性ないし理性は 至高のちからなり》とでも思いこんでいるのでしょう。まさに信仰 いや 似非信仰 つまり宗教ですね。その場合にも 信教・良心の自由は とうとばれなくてはならないからです。
>神について勘違いが多いのは なぜでしょう? 誰が何をどう勘違いしてるか。。。 何 言っても分からない。。 なら 汝自身を知れ さすれば 汝が勘違い 何処にあるかが分かるやも知れぬ 幸いなるかな 心清きものは 。。。。 いざ 何。。 心清くなかった。。。 ふむふむ さもありなむ さもありなむ 珠玉の言葉とウンコを峻別できないのであるから 心は汚れとるはなぁ 何 心清いの意味が分からない。。。 困ったもんだな。。 ´
お礼
ここぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。 おれにかかわりはない。 ほかをあたってくれ。
補足
お礼欄の書きなおし。 まちがい:ここぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。 ただしい:こころぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。
- AXIS_
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> ◆ 崇拝している状態にあるかぎり――ということは 頭の中では そのたとえば《教義》 この教義がこの上ない至上命令だと思いこんでいるということなのですから それは―― 勘違いであると いちどは 明言したほうがよいのです。 いちど明言すれば、偶像崇拝で真の神に接していることになるという意味ですか? >◆ 神を非経験の領域に想定するということは その神と人間とのあいだには 絶対的なへだたりがあることになります。 「神を非経験の領域に想定するということ」をなぜするのですか?経験した人であればそのような想定をする必要はないでしょう。 >そのあと この絶対なる神が――絶対であるゆえ―― 相対としての存在をすべて覆うということが 思弁的には 帰結されて来ます。 絶対と相対はそれぞれ全く別なので、絶対 が、相対をすべて覆うということはないですね。絶対は絶対です。 > ◆ はい そうです。なぜなら 《信じる》は 非経験の領域を想定したあと これを人間の存在に即して《非思考の場》と言いかえた。 なるほど、「宗教を信じる」ということについてのみ論じている、というわけですね。 > おつかれさまでした。九合目くらいにまで来たでしょうか。 やけに上から目線なんだね。質問者はどこまでいっているつもりですか? >つねにほんものの神は控えていますから 真の神(ほんものの神)とは何か?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ いちど明言すれば、偶像崇拝で真の神に接していることになるという意味ですか? ☆ 《いちど明言する》というのは ★★ (回答No.23) ・・・偶像崇拝は勘違いではない、と言えるでしょう。 ☆ に対して答えたものです。哲学として何も言わずに放っておくことは出来ないという意味です。それとは別に ★ 真の神に接している ☆ というのは 主観でそのように感じているかどうかにかかわらず 偶像崇拝の場合でも ふつうに偶像を偶像と知ってほんとうの神を抱いている場合でも 一般的に言える状態です。 ★ 「神を非経験の領域に想定するということ」をなぜするのですか? 経験した人であればそのような想定をする必要はないでしょう。 ☆ 《神体験を経た人》も あらためてその非思考の場を他人に対して説明するときには 分析的にこの《想定》のことを確認することはいいことだと考えます。また 社会に生きるかぎりで・つまり社会に生きるのですから 必要だと言ってよいと考えます。そういう問い掛けまでは してよいと思うという意味です。 ★ 絶対と相対はそれぞれ全く別なので、絶対 が、相対をすべて覆うということはないですね。絶対は絶対です。 ☆ ま これは 派生する議論です。派生する見方として 絶対は相対を包み込むというわけですが たとえば《無限(=絶対)は 有限を含む》といった考え方です。《永遠(=絶対)は 時空間を覆う》という見方です。これは 最初の《想定》からさらに派生させた第二次の想定です。 ★ 絶対と相対はそれぞれ全く別 ☆ でありつつ 相対世界は 絶対(つまり 非経験の領域)によっておおわれるという第二次の想定です。無理はないと考えます。 ∞ ÷ 2 =∞ であるとき 一面としては 無限大と数の2とは いわば互いに次元がちがうと同時に もう一面では あたかも数の2は 無限大に含まれるという見方も成り立つのではないでしょうか。むろん 《 ∞ 》は 文字どおり《無限=絶対》であり 《2》は《有限=相対》です。 ★ なるほど、「宗教を信じる」ということについてのみ論じている、というわけですね。 ☆ この文章の意図がどういうところにあるのか よく分かりませんが 次のように書いております。 ☆☆ (No.41お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ◆ はい そうです。なぜなら 《信じる》は 非経験の領域を想定したあと これを人間の存在に即して《非思考の場》と言いかえた。さらにしかも これは人間の心の窓というふうにたとえて捉えた。 この心の窓をおとづれる神 この神に対してのみ《信じる》という言葉は用います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《信じる つまり個人の主観における信仰》から 集団としての組織宗教が出たと考えられますが だからと言って ★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ ☆ にはならないのですがねぇ。 ★ やけに上から目線なんだね。質問者はどこまでいっているつもりですか? ☆ 《やけに》という印象を与えてしまったことがいけなかったようですね。すでにいちど登頂した者にとっては そういった確認をするのがふつうだと思ってのことでした。 そうでなければ 確かに上から目線を出さないと思うのですが さらにしかも確かにまだ登頂していない者が出したら なるほど《やけに》という印象を持たれるかとは思いました。つまり これは わたしの失敗であったようです。 ★ 真の神(ほんものの神)とは何か? ☆ 表象し得ないと言って来ております。 いや ちょっと待ってください。《おつかれさまでした》は 上から目線ではないですよ。《九合目》は わたしの主観による推し測りです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うまいことおっしゃる。 ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 ★ ~~~~~~~~~~ そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。 この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ・・・ そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・