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越王勾践と呉王夫差のエピソードの評価は?
- 越王勾践と呉王夫差は戦争に負けた後、数年間の苦労を経験しました。
- 「臥薪嘗胆」は一時的な効果しかなかった可能性があります。
- 呉王夫差は勾践を屈辱させた後、おごり高ぶり滅ぼされました。歴史的評価では越王勾践の方が優れていると言えます。
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OKWaver2013さん、こんばんは。 よく明治時代の三国干渉の時のスローガンとしてもてはやされました。 臥薪嘗胆というのは一般的に今は状況が許さないが、他日を期して必ず復讐するということですね。それを忘れないために薪で寝たり、苦い肝をなめたりしたんですね。 基本的に夫差と勾践はそう大差のない君主です。ただ、経験として越王勾践のほうがよく世間知というか知恵が回りました。彼は最後に夫差が多年の戦争などを起こしたため、疲弊した呉を討ち、夫差の国王への復帰を認めないという条件を突き付け、夫差を自殺させてしまいます。これなんか夫差のお坊ちゃんぶりがわかりますね。 こういう場合、死んだほうが負けでしょう。 詳細は下記のURLを参照ください。 臥薪嘗胆 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A5%E8%96%AA%E5%98%97%E8%83%86
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>結局、このエピソードが何を言おうとしているのかが分かりません。 確かに「臥薪嘗胆」という言葉の説明としては余分な説明をしていて訳が分からなくなっています。 言葉の元になった人物の説明と「臥薪嘗胆」という言葉の説明が明確に区分されていないためです。 >結局一時的な効果しかなかった と理解されても差し支えはありません。 本来は、臥薪にせよ嘗胆にせよ、その結果として目的は達成しているわけです。 Wikipediaの説明にはその後どうなったなどと余分なことが書かれています。 夫差は約束を忘れないように努力した。 勾践は屈辱を忘れないように努力した。 というだけのことです。 >ただ薪の上に寝て肝を舐めた、みたいな説明だけになってるのが違和感です 違和感はともあれ、簡単にやれることですか? 現代でもこれは言えませんか、 一流大学に入れと親父に言われて親父が死んだあともセッセと勉強を続ける。 これが簡単にできますか、怠けたり諦めたりしませんか、遊びほうけて試験直前になって慌てて勉強することはありませんか。 何年浪人しようとも脇目もふらずに勉強が続けられますか。 約束を忘れないために薪の上に毎晩寝られますか。 学校を放りだされてもコツコツ勉強を続けて一流大学に入ることが簡単にできますか。 放り出された口惜しさを忘れずに一心に勉強できますか。 フテクサレて遊び歩きませんか。 口惜しさを忘れないように胆などという苦いものを毎日なめられますか。 Wikipediaの説明の順序に従えば二人のその後の話までしています。 一流大学に入ったということだけで思い上がるか、それはそれとして真面目に勉強するか の違いと、受験時代の話と何か関係があるとお考えですか。 >肝心の「しかし夫差はその後、苦労を忘れ油断したので滅ぼされた」というところまで説明できていない気がします 「臥薪嘗胆」という言葉の説明に、これがなぜ肝心ですか。 臥薪嘗胆して目的を達成したことが肝心ではありませんか。 「臥薪嘗胆」という言葉は二人の全人生について言っている訳ではありませんので注意して下さい。 夫差が思い上って勾践を苛めることができたのも薪に寝るという苦労をした結果です。 約束を放りだして怠けていたら、思い上がることも何もできません。 >歴史的評価でいうと、越王勾践の方が優れているという解釈でよろしいですか? 長期的な視点で見た場合に、勾践と夫差のどちらが偉いか偉くないかという評価と「臥薪嘗胆」の意味とは直接関係がありません。 二人の全人生を比較してその結果をどう評価するのかと「臥薪嘗胆」は別問題です。 何でもかんでも最終結果が結果オーライでなければいけない、という考え方は実社会では余りされません。 その時その時の努力が評価されます。 結果のみに拘って評価しますと、人間はいずれ死ぬのだから何をやっても同じだ、という虚無思想に繋がってしまいます。
臥薪嘗胆は、どうも復讐を忘れない、ひいては再起を図るための強い決意と根気の面だけが強調されているように思います。そうではないのです。 ご存知とは思いますが、臥薪嘗胆を確認したいと思います。 臥薪は、呉王夫差が父王闔閭が越(当時の王は允常:いんじょう)を討とうとしてかえって負傷、敗退し、傷のために死んだ復讐にまつわるものです、毎夜。薪の上に寝て、痛みで復讐を忘れまいとしたわけですね。 嘗胆は越王允常を継いだ勾践が、復讐心を忘れず国力を蓄えて攻め寄せた夫差に敗れ、屈辱的な待遇を表面上は喜んで受け入れ、帰国を許された後、常に苦い肝を嘗めて屈辱を忘れないようにし、国力を涵養して呉を攻め、ついに滅ばしたという故事ですね。 それが伝えられているので、再起を図るための慣用句となっているわけですが、では薪の上に寝たり、肝を嘗めたりするのは、なぜだったかということも考えなければなりません。 夫差も勾践も、屈辱を晴らすという一応の目的を果たすと、緩んでしまっています。夫差の敗因は、叩きのめした越に対して油断してしまったのが原因ですし、勾践も名臣范蠡に強く促されて、完敗した夫差を王として許すことを思いとどまっています。 それでも勾践は夫差を大きく格下げして小領主にして許そうとし、夫差が拒んで自決したので、ようやく後顧の憂いが除かれました。もし夫差が生き残って、夫差やその子が再び臥薪する気を起こしたら、どうなっていたか。 その後、范蠡は勾践を見放し(あるいは仲たがいし)、越を去っています。越は一時的に覇を唱えるも、勾践は安逸に流れて国政は緩み、衰亡していきます。まるで夫差治下の呉のようです。一説には、范蠡は越を去るとき勾践を評して、苦を共にできるが楽を共にできない、と言ったと聞いています。 夫差も勾践も詰めが甘い、情に流されやすい人間であるわけです。復讐心を保ち、自らに厳しくあるためには、毎夜、薪の上に寝たり、常に肝を嘗めたりして、いつも自らに鞭を入れていなければならなかったということです。 つまり、臥薪嘗胆とは、どんな不運な境遇に陥った人間でも常に奮起して努力を怠らなければ、ついには再起して大きな事ができるが、事が成就したと安心して緩んでしまえば、あるいは成し遂げそうなとき詰めが甘ければ、たちまち衰亡に至るという、両面のことを言っています。
- eroero4649
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故事ことわざにああだこうだといってもしょうがないです。「蛍光雪案」という言葉があります。「蛍雪の功」ってほうが有名ですかね。車胤さんという勉強熱心な人がいて、貧乏だったから蛍を集めてその光で勉強し、また孫康さんというこれまた勉強熱心だが貧乏な人がいて、月明かりを反射する雪の灯りで勉強した、って話です。勉強熱心、偉いねえという話です。 でも蛍を見たことある人なら分かるでしょうが、蛍を100匹集めたって文字なんか読める明るさにはなりません。「車胤は本当に蛍の光で勉強をしたのでしょうか。これはねつ造ではないですか?」といってもしょうがありません。ちなみにこんなジョークがあります。 ある日、孫康が車胤のところを訪ねると、出かけているという。いつも勉強ばかりしている車胤が出かけるとは珍しいとどこに出かけたのかを訪ねると「蛍をとりにいきました」。 孫康が訪ねてきたと聞いて車胤が孫康のところに行くと、勉強熱心な孫康が家の外にいて深刻な顔で空を見上げていた。どうしたのかと尋ねると「今日は、雪が降りそうにありませんなあ」。