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神のめぐみが何ものにも先立つということ
- 神のめぐみが何ものにも先立つということは、人間の知恵や知識、判断力や意志、度胸や度量や境地などよりも重要であると言われています。
- 詩編/ 59編 15-16節には、夕べになると彼らは戻って来て犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい、食べ飽きるまでは眠ろうとしません。
- 詩編/ 59編 11-12節には、神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を神はわたしに支配させてくださいます。彼らを殺してしまわないでください、御力が彼らを動揺させ屈服させることをわたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。
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つまり、意志についても、ミクロコスモス(個人)とマクロコスモス(神)の関係が成り立っており、そこでは常にマクロコスモスが先に立っているという理解で良いのでしょうか。そして、世界の階層が異なるゆえに、神の某によって人間の意志は阻害されることがない、ということかな?むしろ相似形であると。
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- a_hona
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うーむ。。もし意志が天与のものであるとするなら、本当の意味での主体性というものの根拠が無くなってしまうように思われるのですが、その点についてはどの様にお考えですか?
お礼
主体性の根拠は なくなりません。 なくなると見てしまうのは 主体性(または 人間の意志)と神のめぐみ(つまり神の意志)とを同列にあつかってあたかもわれわれが互いにそれらを競わせているかに捉えているその見方から出て来るものです。 同列ではない。ただそれだけです。違う次元で 自由に主体性は 発揮されます。 仮りに神の意志によって 人間の意志や主体性が制約を受けているとしましょう。 けれども その神による制約は 人間の自由や主体性や意志の発揮される範囲やを限ったりちぢこませたりすることは一切ありません。それ以上の次元での話だからです。 むしろ人間に自由にその意志を発揮するようにと言っているそのシルシのようなものです。 つまり神のチカラは 人間が勝手に人間の能力によってその頭の中にいろんな観念の像として想像の産物である神を思い描こうとすること これを戒めているだけの話です。そんなものは 神ではないよと言っているだけです。その《制約》は。 ご回答をありがとうございます。
少し冷静になってみました。 >《何もしないたたかい》は只管打坐だと思いました。 これですけど、改めて考えてみると 坐禅しろ、とか修行しろ、とか、稽古しろとか言うようですから、 何かするわけですよね。 私はここに身体を服従させる権力があるので しかも言論で対抗しようにも有無を言わせない強制・矯正があるので、余計に嫌なのですが。 何もしないというのはおそらくカルマに対抗する手段の一つにはなると思います。 それの極端なのが運命論です。 とはいえ、いろいろあちこちから回答をもらっているうちに思ったのは、 道元について、反仏教の印象が強くなりました。反仏教というか非仏教とでも言えばいいのか。 悟りを否定しているのですから、もはや仏教ではないです。 だから只管打坐とは仏教を抹消する方法なのかもしれないです。 つまりとっくに仏教というのは終わっていて、無くなっていた。 すこしでも仏教を再興しようとすると、只管打坐によって矯正されてしまう。 時代が変わってしまうようです。 鎌倉時代・武士の時代・なんでもいいですが。
お礼
☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 言ってみれば 《何もしないたたかい》。 人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ブロックしようにも うるさいしなぁ。
- amenhotep2000
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bragelonne さん こんにちは。 インフルエンザは熱は下がりましたが、咳が治まらず、ウイルスを周囲に撒き散らす可能性がまだあるので、自宅療養中です。 ところで、bragelonne 哲学は「身体」「精神」「心」の関係をどのように考えてますか? V.E. フランクルは、人間は「身体的-心情的-精神的統一体および全体性である。」として、これらは切り離されないとしました。 そして精神主義、合理主義、主知主義は実存分析を脅かすものとして批判した。 アウシュビッツの生活の経験から、人間は劣等感によって心理的に病むばかりでなく、また無意味によって病むとしました。 この無意味観を「実存的欲求不満」として患者の人格が心の底から実現しようとしている可能性、また挫折した「意味への意志」を満足させることの出来る価値を発見しようとする、「ロゴセラピー」を提唱した。 これは精神病患者だけでなく、健康とされる人も罹患しているとし、「健全な精神は健全なる身体に宿る。」という格言は、あたかも健康な精神が健康な身体によって規定されるようによく誤解されるが、私は、精神医学者として、健康な身体に不健康な精神も宿ることもできるし、また、神経病理学者としても不健康な身体、たとえば麻痺した身体にも健康な精神が宿ることは示せるとの見解を述べてます。 このV.E. フランクルのロゴセラピーの元になった思想は、M. シェーラーの「主情主義」。 アウグスティヌスやトマス・アクィナスと同様に、あらゆる意識の根源的統一的源泉は「愛」として、愛が認識を動かし、次にそれに媒介されて、傾動や意欲を動かすとする、精神の流れは情→知→意であるとシェーラーは述べてます。 これに関して、bragelonne さんは肯定し自身の哲学に取り入れるか、それとも批判するか? 先の投稿への回答の日本海海戦の続きの宇宙船艦三笠の主砲攻撃を受けてみよ!
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ V.E. フランクルのロゴセラピー〔および そ〕の元になった思想は、M. シェーラーの「主情主義」。 ☆ 残念ながら これだけの資料では 何とも言えませんね。まぁ 分からないとまづは 告白します。 というのも わたしは 《さとり》は一瞬だと思っているからです。 《われに還る》のは ひとつのきっかけがあれば 瞬きのあいだに起きる。と。 認識がどうのこうの 愛だ感情だ意志だうんぬんは 専門的につまりあるいはその臨床的な現場の問題としてあるのでしょうが 心構えの基本として まったく考えていません。 われに還り 傷は癒えたかまだか。こういう問題だけだという見方です。 矢が抜かれたことと傷が癒えて行くこととには 時間的なずれがありますが それにしても 矢が抜かれたなら 癒えるのは時間の問題です。あくまで即身成仏ないし即得往生の類型で コトに当たります。一瞬説です。 ということは 《神のめぐみが 何ものよりも先立つということ》なる命題。これになるはずなのです。 ということは そのあとでは――その原点の成った〔と見なした〕あとでは―― よいものは何でも採り入れます。要らぬものは 捨てますが 使えると思ったものは ぜんぶとうとびます。 ★ ところで、bragelonne 哲学は「身体」「精神」「心」の関係をどのように考えてますか? ☆ おそらく勘所は 精神が自分だと錯覚したものごとを切って捨てること そしてわれに還ることです。要らんものが うじゃうじゃと身と心に張り付きこびりついているものと思われます。身軽に成ることです。 ▲ (アウグスティヌス:精神は むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない) ~~~~~ それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか という不思議な問いがある。 ・・・しかし 精神は愛をもって思惟する感覚的なものすなわち 物体的なものに愛によって慣らされているゆえに それらの〔* 感覚的なもの・物体的なものの〕似像(にずがた)なくしては自分自身のうちに存在し得ないのである。その点で精神の恥ずべき誤謬が発生する。 精神は知覚された事物の似像〔* または 視像〕を 自己だけを見つめるために自己から見分け得ないからである。それらの似像は愛の膠(にかわ)によって不思議な仕方で精神にへばりついている。これが精神の不純である。 というのは 精神は自己のみを思惟しようと努めるとき それなくしては自己を思惟し得ないものを自己であると思いなすからである。 したがって 精神は自己自身を認識するように命じられるとき あたかも自己から取り去られたもののように 自己を問い求めてはならない。むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。 そこで 精神はより内的であるから その愛の情念を感覚的なものへ向けるとき 自己自身から或る仕方で外に出る。 感覚的なものは多くの意志の志向の跡として精神の中に残る。 この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々〔の内〕に現在するのである。 だから精神は自己自身を認識せよ 不在なもののように問い求めないで 他のものの上にさ迷っていた意志の注視を自己自身へ固着し 自己自身を思惟せよ。・・・ ・・・しかし 精神は他のものを自己と共に愛することによってそれを自己と混同し 或る仕方でそれと癒着したのである。かくて 精神は異なるものを一つのもののように抱懐することによって 異なるものを一つのものであると思いなしたのである。 (三位一体論 10・8-9 中沢宣夫訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし 相手があるとき・相手との広く対話なる情況にあっては 実際問題としてむしろ要らぬものを取り込むことさえがあり得ます。この点をもこころしなければならないと考えます。 つまりは 相手がそのわれに還ることを優先させます。その過程にあってこちらは 触媒としてはたらきます。化学反応が完成したら こちらももとのわれに戻ります。 ▲ (アウグスティヌス:為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない) ~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなもの(* 欲望としての愛や物に対する愛)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練(コリント前書10:13)が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう(コリント前書6:18)。 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によってそれらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(集会の書19:1)と聖書に記されているようになるのである。 (三位一体論12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
インフルエンザかどうか分からないのですが 風邪は ほぼ直りました。 ほぼというのは のどに痰がからむことだけ まだ尾を引いています。 しつこいですよね。
- a_hona
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主体性を意志と置き換えてもいいのですが、例えば自然本性への意志、 のようなものがあるように思うのです。その意志がなければ獲得も無いと言う意味で主体という言葉を使いました。
お礼
自然本性とは 身と心であり 心は 精神でもあって 記憶と知解と意志との三つの行為能力を持ちます。 もしこの ★ 自然本性への意志、 のようなもの ☆ を想定するとなればそれはおそらく やはり自然本性に内在した《生きるチカラ 死を避ける志向性(母親が乳飲み子や幼な子を本能的に守る身にそなわった志向性) 生き延びる動き》ではないかと思うのです。 すべて 天与のものであると見られるのではないでしょうか? ご回答をありがとうございました。
- a_hona
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ふむ。無い神から貰うとはどう言うことでしょうか。もう少し補足もらえますか? 自然本性は人にいつ備わったのか定かではありませんが、その主体性を鑑みるに、自ら備えたものであるという公算が大きいのでは無いかと思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《有る神》も くれるかどうかは 分からないのですよ。 慈愛深きといった属性を付与して やっとくれるかも知れないと思うことになります。 でも 神であるなら そういう人間の側の思惑や操作とは関係なく あわれむときはあわれんでくれるし いつくしむときはいつくしんでくれるはずです。《無い神》であっても 神であるならです。 ★ その主体性を鑑みるに、自ら備えたものであるという公算が大きいのでは無いかと思っています。 ☆ 《主体性》と言ったらその時点で 人間の自分の力としての意志による行為がおこなわれたとすでに規定しています。 主体性ゆえに みづからのチカラをはたらかせたということではなく 主体性を前提にするということは 人間の意志行為がおこなわれるという同じく前提がふくまれています。
- a_hona
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見解の擦り合わせはもちろんこちらも望むところなのですが、この問いの場合、信仰がその基礎にあるということで、同じ様に信仰を持ち合わせていなければ、答えるのは難しいかも知れない、そう思いました。 つまり、信仰がなければ、際限無い神との関わりも、自然本性も含めて持ち合わせているもの全てが神からの恵みであると考えることもなかなか難しいと思われるのです。 徳の起源を人に求めるのか、自然に求めるのか、神に求めるのか、これらの見解はそれぞれに着地点であり、異なるものです。 人に求めたならば、現実の人生に従って、あえて問いを進めないというところも出てくるかと思います。自然に求めた場合には、人を含めたより普遍的な答えが現れるでしょう。神に求めた場合、それは先程の無限や遍在にたどり着くと思います。 それぞれの答えの有り様に従って、統一見解の無いまま人々は共存せねばならず、しかし異なる見解もあるのだという見立てによって、共存を果たすべきと思うのですが、いかがでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ところが ここに魔法のような仮説があったわけです。《ぶらじゅろんぬの 神 信仰ならびに宗教についての一般理論》。 ★ つまり、信仰がなければ、際限無い神との関わりも、自然本性も含めて持ち合わせているもの全てが神からの恵みであると考えることもなかなか難しいと思われるのです。 ☆ 信仰も神も――ただし 宗教は信仰からの鬼っ子であり われわれは《排他性》を大いに発揮してあつかわなければなりません―― すべて誰にでも当てはまる。というとうとい理論です。 信じていないという信仰において際限無い神とのかかわりを持ち得ます。 そのことを 問うのは 《あなたの持っているもので もらわなかったものがあるか?》です。 つまり あるよ これこれの自然本性は おれは自分であつらえて生まれたときから持っているよと答えられるものであるなら 神と信仰との一般理論は こけます。 何も《神からもらったものぢゃない》とは言うなとは言っていません。神からもらったものではない つまり《無い神》からもらった。ということに どうしても成るのではないか? と問うています。 ならば 神のめぐみが 何ものよりも先立つということ。こういう問いを問うています。 人間が磨いた徳も その基礎は・そしてそのチカラも けっきょくもらったものであるはずです。《自然》からというのは 人間がもらわなかったことにはならない。のではないか。 《神から》と言うと 決して一般的ではないと思いがちですが どうしてどうして まったく一般性があるということ。このことを問うています。
- a_hona
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補完と言ったのは、心は誰のものでもなく自身を依り代にするものであり、神といえどもそれに際限無く任してしまう事は現実的に無理なのではないか、という考えから補完と表現したという経緯です。ブラジュロンヌさんも、信仰を持つ以前から、 足りぬものはあったにせよ、無かったにせよ、心を持っていたでしょう?その時はどうであったか、ということです。 神を信仰しない人々は多くいると思いますが、彼らは人間こそを拠り所としているように思います。思想としてではなく、現実として、です。 どの人もパンのみに生きているということはないでしょうが、神の恵みによって生きていない人もむしろ多くいるということです。それは何かと言えば、人間に備わる生きる力というか、自然本性と言うべきものではないか、ということです。 理論としてなら、この自然本性を 持ち出さない手は無いかと思います。 また、今回は質問の前提を敢えて許容したのですが、果たして世の実相が、質問冒頭に挙げられた詩篇にあるようなものであるのか?という点も、忘れるべきではないでしょう。 いかがでしょう。
お礼
★ 神といえどもそれに際限無く任してしまう事は現実的に無理なのではないか、 ☆ 神に――神とのかかわりに――際限があるとは思えません。 ご回答をありがとうございます。 この質問は そういう観点から問うものですから 違うものは違うと言って 見解の摺り合わせを――出来るものなら――すすめて行きたい。そういう心つもりです。 ★ どの人もパンのみに生きているということはないでしょうが、神の恵みによって生きていない人もむしろ多くいるということです。それは何かと言えば、人間に備わる生きる力というか、自然本性と言うべきものではないか、ということです。 ☆ つまり この問いは あくまで信仰を基礎としたものですので その観点をこそ前面に推し出しますが たとえば あなたの持っているもので もらわなかったものはあるか? という問いを提出してみておきたいと考えます。 神のめぐみに じつは例外はない。という命題を問うています。 自然本性は 生まれつきの性質やチカラや徳などですが それらもみなもらったものだという命題であり これを問うています。 そうしてその前提は すでに《宗派的・党派的》な見方に片向くことになるところの詩編の文句を引っ張り出して来て コトワリ無しに推し出しています。 というかたちで こちらからこそ いかがでしょう。となります。
- ノーバン(@nobound)
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集団の中で、どう自分の存在感を出すかですね。 「神の恵み」といっても、石を投げる人もいるだろうし、意見ばかり言ってもうるさがられる。 教育評論家の尾木直樹さんが、尾木ママというキャラで人気出たように、キャラ立ちが重要なのか。キャラクターの問題のような気がします。いつも笑顔とか微笑みとか言われるとちょっときついんだけど、実際関わる時は笑顔をふるまうとかたぶんやってしまいます。ここでいう神のめぐみとは、たぶん雰囲気のいい人、感じのいい人のことではないでしょうか。難しいです。
お礼
★ ここでいう神のめぐみとは、たぶん雰囲気のいい人、感じのいい人のことではないでしょうか。難しいです。 ☆ というふうに解釈されてのご回答をありがとうございます。 じっさいいろんなふうに解釈ができると思います。 あるいはつまり めぐみを受けていて そのいまの仕事に変わりなくかかわって行くよりほかに何もしない。そういった或る種のたたかいをすでにおこなっておられる人たちが たくさんいるのだと思います。 それを勝手に一からげにしてしまったかたちではあります。 じっさいもんだいとして ★ 「神の恵み」といっても、石を投げる人もいるだろうし、意見ばかり言ってもうるさがられる。 ☆ ということではないかと。そういう情況の真っただ中にいるのではないかと。 《犬のように吠え 町をめぐっているかれら》がいることかと思います。 たぶん 暗いキャラなら けっして無理しないで 暗いままでも《先立ってすすんでいく何ものか》にしたがって行くとよいと思います。どうでしょうかねぇ。
私は曹洞宗の学者に攻撃されるせいで 曹洞宗が嫌いなので言いたくないのですが、 《何もしないたたかい》は只管打坐だと思いました。 ですが頭に来るので、老子にも言及しておきます。 ~~~~~~~~ 老子の「無為」は「なにもしないでいること」ではない http://textview.jp/post/culture/8081 ~~~~~~~~~ キリスト教と禅については 鈴木大拙が面白いと思うけど、もはや忘れてしまった。本もなくした。 それに鈴木大拙は臨済宗。
お礼
どうお答えすればよいのか。 まったく分かりませんので 控えます。
ブラジュロンヌさんの宗教観は キリスト教が基本でいいのかどうかわからないけれど、 非思考の庭によって、神と人間とを断絶させているのは 意外と正統な見解だとは思う。 ただ、すると聖霊はどうなっているのか? と気になる。 聖霊によって人間は神を知ることができる。それどころか同じである。 神=人間=聖霊。 この場合の人間はキリストに限定することもできるだろうが、 キリストと教会によってつながる。 すると、ブラジュロンヌさんの宗教観とは異なってくると思う。
お礼
ご回答をありがとうございました。 さじを投げました。
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お礼
そうですね。 この世のうつろいゆく経験的な出来事を超えているナゾの何ものかについては ひとは死ぬまで それに対しておそれを――きよらかなおそれを――抱かざるを得ないと考えます。ひとは 神ではないからです。 ただし ★ ミクロコスモス(個人)とマクロコスモス(神)の関係が成り立ってお ☆ るところの非思考の庭にあっては すべて――想定においてですが――霊の場の問題があります。 そしてそこでは 梵我一如あるいは仏仏一如またはつまり霊霊一如である。というふうにも想定して見ています。 そうすると問題は 一如であるということは あたかも神の霊とアートマン(われ)の霊とが一体でありけっきょくおなじものであると見られるかも知れない。このことにあると思われます。 ところが ★ そこでは常にマクロコスモスが先に立っているという理解で良いのでしょうか。 ☆ というふうに《きよらかなおそれ》のもとにあっては 捉えなくてはならないことにもなります。 さらには ★ そして、世界の階層が異なるゆえに、神の某によって人間の意志は阻害されることがない、ということかな?むしろ相似形であると。 ☆ といったふうにも解釈され得ます。じゅうぶんそういう可能性はあります。 問題は整理するなら 一方で 人間の相対世界と神の絶対なる場との 絶対的な隔たりを置いての向かい合いがあり 他方では 人間にも霊ないしブッダター(仏性)がやどるという想定において その人間の霊と神の霊とは一体であるということ このふたつの命題を全体としてどう捉えるか? だと思われます。 アウグスティヌスが言うには 《わたしは 人間の自由意志をつとめて擁護しようとしたが 神の意志がそれを凌駕した》と。 それでは ミクロコスモスなる霊とそのもとに持たれ発揮される意志とは 神の霊と心とに従属しなければならないのか? 人間の意志は 神の意志に勝てなかったかぎりで そうである。ひとは 神にあたかも奴隷のごとく従属しているという側面はまぬかれない。と。 ただし 神のこころは 人間の意志をかえって建てることにある。と。 《隷属していた》としても 《神の某によって人間の意志は阻害されることがない》のですが――次元が違うから―― けれどももし隷属しているとするならそう見るほどに 神の意志はわれわれの意志を家を建てるように建てるのだと。霊霊一如とは そういうことであると。 ▲ (ヨハネによる福音書/ 14章 12節) ~~~~~ はっきり言っておく。 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、 また、もっと大きな業を行うようになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《もっと大きなわざをおこなう》ことが出来るのは むろんあくまで霊霊一如なる《めぐみ》のもとにあってということですが――つまり 人間が自分の能力と努力によってのみ成し得るようになるという意味ではありませんが―― そのように大きなわざを成すようになるというのは 《神の霊によってわれわれの意志が建てられる》ことによるものと考えます。 これは あやまちうるひとつの解釈ですと事割っておくほうがよいかも知れません。 ご回答をありがとうございます。 ☆ 奴隷という表現は もうじゅうぶん古いですね。だから その当時にも《親と子》の関係にもたとえるわけです。隷属ならぬ《霊属》とすればよいかも知れません。 きよらかなおそれの問題は ヨブ記があつかっています。神に直談判するのが ヨブですが・そしてヨブは基本的に妥当なことをおこなうただしい人でしたが 神との隔たりが埋まることはないと気づきます。