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発想と着想のちがい

発着は反対の意味になりますが、なぜこの二つの言葉は同じような意味になるのでしょうか。

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.2

以下のとおりお答えします。 >発想と着想のちがい >発着は反対の意味になりますが、なぜこの二つの言葉は同じような意味になるのでしょうか。 ⇒なるほど、言われてみれば不思議ですね。字義どおりに考えれば、 発想:「想いが発現すること」 着想:「想いに到着すること」 しょうが、辞書などではどちらも、「心に考えが浮かぶこと。その考え、思いつき」などという説明が出ています。 確かに、「発」と「着」は正反対の意味を表わしますね。 ところが、見方によっては、その対立の意味が弱まって、単なる差異くらいの感じになる場合があります。意味構造の階層の次元を考えてみれば納得しやすいと思います。1つの分類方法では、「発着」の上位概念は「動き」で、その「動き」の対概念は「静止」です。逆に言うと、「発着」は「動き」の下位概念となります。 抽象的で分かりにくいことを並べましたが、つまり、どういうことかと言いますと、「発着」は、「動き」の種類や内訳を扱う際にはその差異が問題になりますが、例えば「静止」か「動き」か、ということが焦点となるような場合は、その差異は中和されて、どちらも「動き」がある、という共通の意義素が浮上して、それが強調されることになります。 そのような場面では、「発着」という違いは相対的に弱められる、ということですね。そして、その結果、この「動き」という位階レベルでは対概念であるはずの「発」と「着」のいずれもが、その第一義として「運動」という、似たような意味を担うことになる…ということではないでしょうか。 要約するとこうなります。 「発着」は、「動き」の内部でその「動き方の違い」を考える際には対立しますが、「動きがあるかないか」という見地に立った場合には、その差異が弱まったり同化したりすることがある。 以上、ご回答まで。

kaitara1
質問者

お礼

ご教示をうかがい、漢字の授受の話を思い出しました。売買も同じなのかとも思いますが、主体と客体の立場を変えると反対のことが同じ意味になってしまうというようなことがあるのでしょうか。大変為になりました。どうもありがとうございました。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

発想は、思いついた(想いが発った) 着想は、思いついた(想いに着いた) という、アイデアやひらめきが、神の啓示のようにどこからか出発したと捉えるか、自分など人間の脳に到着したと捉えるか、だけかと。

kaitara1
質問者

お礼

ご教示をいただき、自分が考えたという意味で発なのか、外からヒントのようなものが来たから着なのかもしれないと思いました。

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