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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人にとって贈物は 拒否のシンボルか?)

日本人にとって贈物は拒否のシンボルか?

このQ&Aのポイント
  • 日本人にとって贈物は拒否のシンボルなのではないかという命題について考える。
  • 贈物に結び付いた日本ふうの思想が拒否のシンボルである可能性を探る。
  • 日本人の贈物の文化において、贈り物が拒否の意味を持っているのではないかと思われる。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

その引用で表れているのは、都会人の感覚だ。 田舎者は否定的ではない。 共同体が生きていて、テメーが良けりゃーいいとは思わない。 この分だと、自分が生きる事と、他者を生かすことは等しい。 このアマテラスの善しを、あんたは知りようが無いね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ri_rong 氏とわたしとは別だけれど わたしもその見解をほとんど同じくしているので わたしに対する批評・批判となっても仕方がないことです。  ただし問題は それほど単純ではないと思う。一筋縄では行かないはずです。  ☆☆(No.1お礼欄) 《かかわりたくないのだがその事件に首をつっこんだりその場の人間関係に入り込んだりする》ことが そう言えば日本人には あるように思われるのですが どうでしょう?  ☆ と書きました。それと同じように 贈り物はしたくないし・されたくもない。言ってみれば淡い人間関係でいたい。けれども 必ずしも信じていない世間のジョウシキに従わざるを得ないという臨界点にまで達することがある。よって そうする。  このとき いやいやながらの振る舞いだからどうだこうだという思いは ただし ないのです。あとへと尾を引きません。言わば《贈り物》関係としての世界に入って行くし 入っている。どっぷりと浸かっている人たちとともにある。  ですから 一筋縄では行かないものとも思うのです。  むしろ 共同体の側にいるとさえ思っています。  どうですかね。

その他の回答 (2)

回答No.2

人類学者・マルセル・モースの「贈与論」という本があります。 読んだことがありますか? まだ貨幣経済がなかった古代社会では、物のやり取りは「贈与」によって行なわれていました。 モースによれば、人に物を贈与すると、物と一緒に「ハウ」とか「マナ」という霊が一緒についてきて、物を贈与された人はお返しをしないと「ハウ」とか「マナ」という霊が、「祟る」と思われていました。 このように古代社会では貨幣経済の代わりに「贈与」を互いにしあう「贈与互酬」によって、社会が営まれていました。 そうやって財産の平等を図っていたわけです。 モースはこれを「全面的給付の体系」といっています。 物品が贈与互州によって回っていたという意味で。 中にはアメリカのインディアンの一部に「ポトラッチ」と言って、物を贈与されたら、それ以上のお返しをしなければならない習慣のある部族もいて、贈与がエスカレートして、互いに財産を「消尽」してしまう部族もあったようです。 しかし、相手から贈与された以上の物をお返ししなければならないと、どこかで壁に突き当たり、戦争をしなければならなかったということです。 また、古代には「供犠」という習慣がありました。 簡単に言うと神さまに「お供え」をすることですが、命を授かったことは神さまの「贈与」ですから、お返しをしないと「祟られ」ます。 だから古代社会では、「人身御供」と言って、祭壇に若い女性の生きた心臓を捧げました。 そうやって神さまの「贈与」に対してお返しをしていたのです。 日本でも、神棚や仏壇に「お供え」を上げますけど、それは古代社会の「贈与互酬」と「供犠」の名残りです。 この「供犠」の習慣に終止符を打ったのが、キリスト教でした。 キリスト教は宗祖イエスが、神の生命の贈与に対して、お返しをしなかった人類の罪を一身に背負って自らを犠牲にすることで、罪をあがなったので、人類は生命を「贈与」された神に対して「お返し」をしなくても良くなりました。 というのは「罪」というのはモースのいう「マナ」とか「ハウ」の形を変えたものだったからです。 しかも、生命を授かったことは神の「贈り物」ですから、人類は「ハウ」とか「マナ」という霊の形を変えた「原罪」を背負っているわけです。 人類は生命を授けられた神に対して「お返し」をしなかったから、「原罪」を背負ったわけです。 イエスはみずからの生命を犠牲にすることで、みずから「人身御供」になり、人類を代表して「罪」をあがなったから、私たちは神に「お返し」をしなくてよくなった、このようにキリスト教は古代からずっと続いてきた「人身御供」という習慣に終止符を打ちました。 だから私たちはイエスに感謝しなければならない、というのがキリスト教の唱えるところです。 ニイチェは「道徳の系譜」という本で、「罪」の念は「借金の負い目」にあると言っています。 人からお金を借りて債務を負うと、モースのいう「ハウ」とか「マナ」という霊が、「早くお返しをしなさい」と命令してくる、お返しをしないと霊が祟る、それが「罪」の念の起源だ、と。 だけど、古代社会の「贈与互酬」の習慣は貨幣経済の発展と共に消滅してゆきました。 貨幣で物を買うことは物々交換と同じで、対価を払って買うのですから、「ハウ」とか「マナ」という霊がついてきません。 等価交換ですから、霊が祟るということも無くなりました。 私たちの社会は市民社会と言って、すべて貨幣によって物と物とのやり取りがされています。 ところが、唯一例外があります。 それは家庭です。 家庭は古代の共同体の名残りですから、物品などは「贈与互酬」によってやり取りされています。 たとえば、親は子供の養育費・教育費を無償で「贈与」していますから、その対価を子供に払えとは言いません。 また主婦は家事労働をしていますが、その労働に対して対価を支払えとも言いません。 市民社会は、すべて金銭で動いていますが、家庭は古代社会と同じように「贈与互酬」で動いています。 物は贈与によってやり取りされています。 親が子供を生むこと、それも生命の「贈与」です。 だから子供は親に対して「ハウ」とか「マナ」という霊を背負うことになり、それを「お返し」しないと「罪」の念を覚えます。 親が年を取ったら、自分を育てくれた親に「お返し」をしなければならないと言われるのも、そのせいです。 中世の西欧では、身分の高い王侯貴族は、一般の庶民・農民に対して宴会を催してもてなし、食べ物や贈り物をして椀飯振舞をしなければならなかったと言われます。 以上のことを踏まえながら、あなたの質問を考えて行きましょう。 (あ)西欧で身分の高い王侯貴族が庶民・農民を招いて宴会を催し、食べ物などを「贈与」するのは、古代社会の「贈与互酬」の習慣の名残りで、それが形を変えたものです。 王侯貴族は、自分ではそんなことをして財産を失いたくなかったから、嫌々ながらしたのです。 「贈与」したのは、それが支配の手段だったからです。 「贈与」するものは、贈与されたものを下に見ることになります。 庶民・農民同士の「贈与」とは違います。 それでも庶民・農民同士でも、「贈与」されたら、「お返し」をしないと「やましさ」を覚えることに変わりはありません。 (い)日本人は贈り物に対して贈られた人を「貶める気持ちが先立つ」といいますが、あなたは人から誕生日のプレゼントを「贈られ」た時に、相手を「貶める」のですか? 感謝しないで? ずいぶん変わった人ですね? 私は素直に贈り物をもらったら、相手に対して感謝の念を覚えますよ。 そして何か「お返し」をしないと「やましさ」を覚えます。 (う)日本の「贈り物」の習慣は前述しましたように古代共同体の「贈与互酬」という制度に由来します。 決して「お祭り」の習慣に基づくものではありません。 (え)そして神さまに「お供え」をするのは神さまに何かを期待してするものではなく、神さまが生命を授けてもらったことへの「お返し」ですから、これも古代社会の「贈与互酬」の習慣の名残りです。 「供犠」です。 仏壇に、神棚に、そしてお墓に「お供え物」をするのは何かを期待してするのではなく、生命を授けてもらったことへの「罪」の念の解消のためにしているのです。 (お)日本人にとって、贈り物は、拒否のシンボルではなく、生命を授けてもらったことへの感謝の「お返し」です。 (か)人から「贈り物」をもらったら「お返し」をしなければならないのは、モースのいう「マナ」とか「ハウ」という霊が「お返しをしなさい」と命令して来るからです。 「お返し」をしないと「やましさ」を覚えるからです。 お歳暮やお中元やプレゼントをもらうと「お返し」をしないと「やましさ」を「負い目」を負います。 だから私たちは人から物を贈られると「やましさ」を覚えるので、中にはあまり喜ばない人がいるのです。 「やましさ」「負い目」「罪の念」を覚えるから。 それは今の私たちが古代の「贈与互酬」の社会ではなく、貨幣経済の中で暮らしているからです。 前述しましたように貨幣経済は等価交換ですので、「やましさ」とか「負い目」とか、「罪の念」を覚えることはありません。 古代の「贈与互酬」の経済のことが知りたかったら、前述のモースの「贈与論」とか、マーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」とか、ジョルジュ・バタイユ.の「呪われた部分」という著作を読んでみてください。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ ニイチェは「道徳の系譜」という本で、「罪」の念は「借金の負い目」にあると言っています。  ☆ 断片的な事柄について 別の見方もあるよという鬼のコメントですが   (9) お金の貸借は 基本的に互いに対等な人間どうしのあいだで取り決め合う契約行為です。信用ないし信頼関係の問題が 基本です。  (10) やはり《良心》の問題でしょうね 《罪》というのは。つまり 自省し内省するわたしの問題であり その固有の時というのは しばしばわれと神との関係として――宗教とそのオシエとしてではなく 内面主観そのものにおいて――捉えられるのも 一般でしょうね。  (11) つまりニーチェは この良心の問題も すでに《負い目》を負う弱者ないし畜群が高き心の勝者・支配者に対してその心を問い咎めるによい理屈として持って来いだからと思って作り出したとか言っていますが それは論外であり問題外のそとです。  ★ 人からお金を借りて債務を負うと、モースのいう「ハウ」とか「マナ」という霊が、「早くお返しをしなさい」と命令してくる、お返しをしないと霊が祟る、それが「罪」の念の起源だ、と。  ☆ (12) ですが 先ほどの(9)《良心――やましさ反応》や(10)《互いに対等な人間どうしの信頼関係にもとづくその貨幣的な数量化としての信用度》が 基本の人間的・社会的な関係にあるとすれば その互いの取り決めに背くなら とうぜん《やましさ》を覚えます。これは 《罪》の問題に成り得ます。しかも アニミズムとしての霊の問題ではない。ヤマシサを覚えることは 決して原始心性のものではない。でしょう。  ★ だけど、古代社会の「贈与互酬」の習慣は貨幣経済の発展と共に消滅してゆきました。  ☆ (13) おそらく《信頼関係》は いかに資本の論理によって踏みにじられていたとしても つねになおささやかながら川床の下を流れているチカラであると言ってもよいでしょう。つまりは 贈与互酬と言いますか 要するに 信頼関係を――相手が踏みにじると知っていても――堅く保とうとして助け合いをおこなうナラハシは 死んではいないでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  貨幣で物を買うことは物々交換と同じで、対価を払って買うのですから、「ハウ」とか「マナ」という霊がついてきません。  等価交換ですから、霊が祟るということも無くなりました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (14) もっぱら突飛なことを言うのですが 等価交換であるのは 信頼関係にもとづくからです。単に数論として価値が等価であるということではないでしょう。利潤の活用の仕方がすでに問われ始めている部分があります。   (15) つまりやっと経済行為の自由にもとづき等価交換の原則が成ったとするなら それこそじつは《霊》の問題なのではないか? 市場経済という制度がすでに霊のあやつる仕組みとなっている。霊などは市場をあやつらないという見方が 同等に出来るというところが 《霊》の問題だという見方です。    ★ 私たちの社会は市民社会と言って、すべて貨幣によって物と物とのやり取りがされています。  ☆(16) この見方こそが 次にみちびかれる見解の部分性つまり片寄りを示しているとわたしは考えます。    (17) すなわち 市場経済は 《霊などというワケの分からないものによって動かされるわけがない》という見解が すでに唯一の世界認識であるという思想をみちびいている。からです。  (18) 市民社会にも――あるいは家族に集中して行くよりもむしろ その集合としての市民社会にこそ―― 互いに対等な人間どうしの生活共同がある。経済行為の自由および社会秩序をめぐる共同自治の仕組み そのほか文化としての自己表現の自由などなど これらとしての生活共同は じつに市民社会こそが 竈であり基礎(あゆみ)である。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが、唯一例外があります。 / それは家庭です。  家庭は古代の共同体の名残りですから、物品などは「贈与互酬」によってやり取りされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (19) ですから 《贈与》という概念で仮説を打ち建てるのは ちょっと片寄りがあるのではないか。その贈与の起源における人間の思いや心つもりあるいはそれについての最初の感想などなどをしっかりと捉えなければ 理論はまだ信頼に足るものとは見られにくい。  (20) 共同体の外に向けては 確かに《贈与》が起こりそこには《相手に対する負い目》が芽生えた。のでしょう。けれども ムラの内では・そして取り分け家族のあいだでは 単純に助け合いであり 対等な人間どうしの貸し借り関係なのです。つまりは 信頼関係なのです。――これが けっきょくそのまま 市民社会なのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、親は子供の養育費・教育費を無償で「贈与」していますから、その対価を子供に払えとは言いません。  また主婦は家事労働をしていますが、その労働に対して対価を支払えとも言いません。  市民社会は、すべて金銭で動いていますが、家庭は古代社会と同じように「贈与互酬」で動いています。  物は贈与によってやり取りされています。  親が子供を生むこと、それも生命の「贈与」です。  だから子供は親に対して「ハウ」とか「マナ」という霊を背負うことになり、それを「お返し」しないと「罪」の念を覚えます。  親が年を取ったら、自分を育てくれた親に「お返し」をしなければならないと言われるのも、そのせいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(21)  これはヒトエニ功利主義の思想です。それだけで世界がすべて認識できたというのは 片寄った考えでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 中世の西欧では、身分の高い王侯貴族は、一般の庶民・農民に対して宴会を催してもてなし、食べ物や贈り物をして椀飯振舞をしなければならなかったと言われます。  以上のことを踏まえながら、あなたの質問を考えて行きましょう。  ★ (あ) 西欧で身分の高い王侯貴族が庶民・農民を招いて宴会を催し、食べ物などを「贈与」するのは、古代社会の「贈与互酬」の習慣の名残りで、それが形を変えたものです。  王侯貴族は、自分ではそんなことをして財産を失いたくなかったから、嫌々ながらしたのです。  「贈与」したのは、それが支配の手段だったからです。  「贈与」するものは、贈与されたものを下に見ることになります。  庶民・農民同士の「贈与」とは違います。  それでも庶民・農民同士でも、「贈与」されたら、「お返し」をしないと「やましさ」を覚えることに変わりはありません。  ★ (い) 日本人は贈り物に対して贈られた人を「貶める気持ちが先立つ」といいますが、あなたは人から誕生日のプレゼントを「贈られ」た時に、相手を「貶める」のですか?  感謝しないで?  ずいぶん変わった人ですね?  私は素直に贈り物をもらったら、相手に対して感謝の念を覚えますよ。  そして何か「お返し」をしないと「やましさ」を覚えます。  ★ (う) 日本の「贈り物」の習慣は前述しましたように古代共同体の「贈与互酬」という制度に由来します。  決して「お祭り」の習慣に基づくものではありません。  ★ (え)そして神さまに「お供え」をするのは神さまに何かを期待してするものではなく、神さまが生命を授けてもらったことへの「お返し」ですから、これも古代社会の「贈与互酬」の習慣の名残りです。  「供犠」です。  仏壇に、神棚に、そしてお墓に「お供え物」をするのは何かを期待してするのではなく、生命を授けてもらったことへの「罪」の念の解消のためにしているのです。  ★ (お) 日本人にとって、贈り物は、拒否のシンボルではなく、生命を授けてもらったことへの感謝の「お返し」です。  ★ (か)人から「贈り物」をもらったら「お返し」をしなければならないのは、モースのいう「マナ」とか「ハウ」という霊が「お返しをしなさい」と命令して来るからです。  「お返し」をしないと「やましさ」を覚えるからです。  お歳暮やお中元やプレゼントをもらうと「お返し」をしないと「やましさ」を「負い目」を負います。  だから私たちは人から物を贈られると「やましさ」を覚えるので、中にはあまり喜ばない人がいるのです。  「やましさ」「負い目」「罪の念」を覚えるから。  それは今の私たちが古代の「贈与互酬」の社会ではなく、貨幣経済の中で暮らしているからです。  前述しましたように貨幣経済は等価交換ですので、「やましさ」とか「負い目」とか、「罪の念」を覚えることはありません。  ★ 古代の「贈与互酬」の経済のことが知りたかったら、前述のモースの「贈与論」とか、マーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」とか、ジョルジュ・バタイユ.の「呪われた部分」という著作を読んでみてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (22) だいたいこれらの全部についてこちらからの情報として述べることはすでに記し得たと思いますが どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 うりがだいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  モースは読んでませんが 書き込んでもらったところは大体 ひと頃はやった文化人類学とやらで読んだ記憶があります。忘却もありますので 或る程度だけ知っていると取ってください。  ★ モースによれば、人に物を贈与すると、物と一緒に「ハウ」とか「マナ」という霊が一緒についてきて、物を贈与された人はお返しをしないと「ハウ」とか「マナ」という霊が、「祟る」と思われていました。  ☆ 誰でしたかね トロブリアンドとか何とかの諸島で 島々のあいだをシルシとモノとが逆回りに贈られて行くようなひとつの経済圏をつくっているとかどうとか。  そうしますと このトロブリアンド(合ってますか?)の相互互酬の仕組みは すでに《それをおこなうと相手に負い目の感覚をあたえるという贈与》 これを重ねて来てナラハシとして定着したあとの段階であり状態なのでしょうか?  つまり ここでわたしが知りたいのは では その《贈与》を初めておこなった人間は どういう心つもりだったのか? また初めて贈られた側の人間は どう思ったか? これが知りたいところなのです。  ハウとかマナとか霊とか祟るとかは 或る程度《贈与》がこれもナラハシとして受け容れられたあとの段階でのことではないか? つまり逆に見るなら このナラハシを促そうとする目的で そういう霊力の理論をこしらえたかも知れない。  そういったところ――いわゆる《起源》の問題ですね――が さらに知りたいです。(はじめは ふつうに日本人のあいだの思考形式を確かめたいのが 質問の趣旨でした)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このように古代社会では貨幣経済の代わりに「贈与」を互いにしあう「贈与互酬」によって、社会が営まれていました。  そうやって財産の平等を図っていたわけです。  モースはこれを「全面的給付の体系」といっています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうなんでしょう。つまりすでにその昔の山口昌男らが脚光を浴びていた頃から遠く隔たってわたしはその後復習も新たな勉強もして来ていませんので どうなんでしょう。つまり ここでわたしが 引っかかったのは 共同体の内と外という捉え方がどうなっているかです。  《全面的給付の体系》――こういう表現は初めて聞きました――は思うにおそらく一つの共同体の内部におけるふつうの分業=かつ協業の組織形成なのではないかと見られるからです。  先ほどの――あまりにも思い出さな過ぎてもいけないと思って 検索しましたが――マリノフスキーによって発見された西太平洋のトロブリアンド諸島における《クラ交易》ですね これは 狭く解釈すれば 共同体どうしのやり取りですね。つまり 《外》の側面です。  外どうしでそれぞれの共同体が 全体として《全面的給付の体系》を成すとは思えません。生活の一部の交易品だけであろうと考えられます。言いかえると 或る種の秩序立てた友好関係をムラどうしが結ぶ。そういう意味と中身だとすれば 生活全面にわたる相互給付ではないであろうと。  つまりだから 果たして《贈与》ということを最初におこなった人間はいったい何を考えていたのか? です。つまりあるいは 共同体の内において特には血族と姻族を同じくするグループのあいだで相互互酬をおこなうのは いま取り上げている意味での《贈与》とは言わず ふつうに助け合いであろうと考えるからです。  どういうことを考えていたか? これを突き止めれば あるいは日本人がもし贈り物を拒否のシンボルと捉えているなら そのことと大いに関係してくるかも分からない。ですよね。  ★ 「ポトラッチ」・・・消尽  ☆ これは  栗本慎一郎の得意とするところだったように記憶しています。  ★ しかし、相手から贈与された以上の物をお返ししなければならないと、どこかで壁に突き当たり、戦争をしなければならなかったということです。  ☆ えっ? まさか このことを戦争の原因の大きな原因だと考えているわけではないですよね。  生産のチカラが上がり 生活にとって余剰が出来(または 備えとして貯え) 持てるモノに格差が出来る。これが 程度問題の中でも容易に超えがたくなったときには やはり意志の自由を他人にゆだねるような支配の関係も出来る。おそらく この支配のチカラと権限の保守を欲したときには 仲違いと相手を支配するためのけんかが発生したのではないか。とは ひと言触れておきます。  ★ だから古代社会では、「人身御供」と言って、祭壇に若い女性の生きた心臓を捧げました。 / そうやって神さまの「贈与」に対してお返しをしていたのです。  ☆ そうなんですか。そういった解釈に 初めて接します。つまり:  (1) 神から生命なり生活の維持なりとして贈与を受け これにお返しをするという捉え方です。  神から与えられるもの・ことは 只で(無料で)受けるゆえ《めぐみ》と言うのだと思っていましたが 贈与と言えば贈与かも知れません。ただし それを受けて人間は これもいわゆる感謝をささげるとは聞きましたが 《お返し》をするというのは初めて聞きました。なるほどと言うべきか それにしても 世界はひろい。解釈はいくつかがあり得るということですね。  (2) いけにえが それは羊や収穫物や人間の子の《初穂》つまり長子だと思っていましたが 《若い女性》でしかもその《心臓》ですか。知りませんでした。  (3) もっとも人身御供として 例のヤマトタケルの東征のときには 妻の何やらヒメが海に沈みましたね。海の神に命をささげて 海の荒れるのを鎮めて欲しいという願いとして。  ★ 日本でも、神棚や仏壇に「お供え」を上げますけど、それは古代社会の「贈与互酬」と「供犠」の名残りです。  ☆(4) 確かに《初穂》をささげて神に感謝するということは 次の年も収穫をよろしくめぐみたまえと言っているにひとしいですから 《お返し》になるかと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   この「供犠」の習慣に終止符を打ったのが、キリスト教でした。  キリスト教は宗祖イエスが、神の生命の贈与に対して、お返しをしなかった人類の罪を一身に背負って自らを犠牲にすることで、罪をあがなったので、人類は生命を「贈与」された神に対して「お返し」をしなくても良くなりました。[・・・]  だから私たちはイエスに感謝しなければならない、というのがキリスト教の唱えるところです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (5) これは 組織宗教としてのオシエであるとわたしからは 言ってそのことの確認をしておきたいと考えます。個人個人の信仰は別だという意味です。次のような見方もあります。  【Q:イエスは 犠牲にされたあと聖なるものとされたか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8968735.html  (6) あと一点。神は旧約の時代から歴史をつうじてつねに――わづかの数のいわゆる預言者らを別としてでしょうか――ユダヤ人たちに欺かれて来ており しかもそのつど一方的に助け舟を出している。長くくるしい境遇に会わせてもいますが つねにけっきょく《お返し》も何もなく(あってもすぐさまその心を裏切っており)それでも助けて生き延びさせています。この点は どうかお見逃しなく。  (7) ダヰデは 部下を死なせその妻を娶っていますが そしてこれは律法によれば石打ちの死刑にあたいしますが それでも 一方的に神はかれを生かしている。ですから ほんとうは《贈与――つまり神のめぐみ――》はあっても 人間の側からの《お返し》は 問題の本質にはなっていないと見なければならないでしょう。  (8) かく言うかたちで イエスがキリストとして じんるいの罪を一身に背負ってこれをあがなったということも そうだとしても ことの主要な問題ではない。と考えます。(あとは割愛します)。    (つづく)

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

 (お) つまり、日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか――というふうに思うわけです。 1。(お)さんのお考えでは、三世紀の魏のころから、倭は、「次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、」とあるように魏を拒否し、遣唐使などに持たせて唐や隋も拒否した。 2。結納によって、まず、将来の妻の家族を拒否する。 3、手ぶらでは拒否出来ないから、日本の訪問には手土産を持って行く。 4。僕は誰からも贈り物をもらわないので、誰からも拒否されていない。  ということが分かりました。ありがとうございます、。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  人と人とのあいだには おおざっぱに二つの段階での関わり方があるように思います。  (α) 抽象的にして広い意味での人間どうしの関係(カカハリ)      :社会的動物として互いにこの広い意味での社会性は およそ絶対的である。       人間存在は 自由意志において社会的に独立しつつ 社会性においてつねに関係し合っている。  (β) 具体的に意思疎通をおこなう関係(マジハリ)      :そもそも生活が社会的であり 場を共有し生きることを共同のこととしている。       そうして 一般に言葉をとおして意志を伝え合い 生活共同あるいは共同自治をいとなむ。  ☆ そこで この《(お) つまり、日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか》というのは (β)の次元でのことについて言っていると思われます。(α)の次元については そのまま大前提として認めた上でのことだと見ます。  だからこそ もしたとえ《マジハリの拒否》が意図されていたとしても その贈り物を贈ることはおこなっており じっさいに生活共同の内に生きている。ということが まづ言えると思います。    ということは そのように言わば一つの側面としての《拒否》とは 何のことであるか? という問題だと捉えたいとわたしは考えます。  たとえば〔(α)で定義した用法とは別になりますが〕《かかわりたくないのだがその事件に首をつっこんだりその場の人間関係に入り込んだりする》ことが そう言えば日本人には あるように思われるのですが どうでしょう?  ですから たとえば:  ★ 2。結納によって、まず、将来の妻の家族を拒否する。  ☆ といった見方が出された場合には そのカカハリの仕方あるいはマジハリのかたちや度合いが 微妙にいくつもに・さまざまに分かれる余地があると思われます。  拒否の度合いとも言えるでしょうし 強い拒否という本意に反して どういうわけか・いつしか マジハリはどんどん深まって行ったというようなことも起こるのだと思われます。《拒否のシンボル》と見たときにも そういう自由な幅を じっさいには踏まえているのではないかという意味です。  大筋で 以上のような前提を踏まえていただけると さいわいかと思います。質問者としての考えのみでそういう見方をしましたが そういう問い求めの仕方がひとつであり あとは回答者さんの別のアプローチの仕方で取り扱ってもらえればよいと思います。  早く言えば 挙げておられる(1)から(4)までの受け留め方は 何だか撞球でその球が突かれて押されたから こっちへころがって行ったというような感じであるように見えました。と率直に申し上げます。  

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